26
翔太の視線から逃れるように目を伏せた由比は、唇を噛み締めた。
翔太の言いたい事は分かる。
自分を大切にしてくれる気持ちが、本当に伝わってる。
どうしてこんなに思いを向けてくれるのか分からないけれど。
ただの隣人なのに。
けれど脳裏を掠めるのは、少し前の翔太。
学祭で私がトラブルに巻き込まれた時、様子がおかしかった。
家に帰ってきてからも、私にいなくならないでと、そう静かに訴えていた。
翔太に何があったのか、分からない。
でも、きっと心に傷が残る事が過去にあったのだけは分かる。
朝からずっと昂ぶっていた感情が、すぅっと落ち着いて行くのを由比は感じた。
こうやって気持ちを訴えかけられて、誰が嬉しいだろう。
甘えてばかりじゃダメだってそう言いながら、まるで変わってない。
私は、……弱い。
ぎゅ、と目を瞑る。
今、何が一番大切なのか。
それは、圭介さんと翔太が嫌な思いをしないこと。
そう考えるほど、二人は自分の中で大きな存在になってしまった。
ずっと、一人で大丈夫だったのに。
傍にいてくれて心配してくれて、大切にしてくれる。
その温もりを手放したくなくて、余計、二人に迷惑をかけてしまった。
傍にいてくれる事を、当たり前のように享受してしまった。
これから先、ずっと一緒にいられる訳、ないのに……。
そこまで考えて、気がついた。
いや、気がついたというより……思い出した。
あぁ、そうだ。
私……
私、一人で生きてきたんだ――
「由比?」
いきなり黙ってしまった由比の肩に手を置くと、翔太が伺うように声を掛けてくる。
その声音に、学祭の夜の翔太が重なった。
縋るような、求めるような。
いなくならない存在を、求める声。
――いくら望まれても、私がそれになれるわけないのに。
由比――
自分の名を、心の中で呟く。
由比。現実は――
こくりと、唾を飲み込む。
――現実は、どっち……?
口端が、上がっていくのが分かる。
目元が、緩んでいくのが分かる。
顔を上げれば、心配そうな翔太が私を見下ろしていて。
ごめんね、という意味でにこりと笑う。
「ありがとう、翔太」
こんな私を、好きだと言ってくれて。
こんな私に、いなくならないでって言ってくれて。
いきなり笑いかけられた翔太は、唖然とした表情のまま由比を見下ろしている。
その姿に、由比はあたりまえだよね、と心うち呟いて一歩後ろに下がった。
肩に乗っていた翔太の手が、支えを無くしたように下りる。
由比はそれを見ないように、くるりと背を向けた。
水道の蛇口を捻って泡の消えかかった手を洗い流すと、タオルでそれを拭う。
「圭介さんに謝らなきゃね。まさか、そんな意味だとは思わなくって」
「由比?」
そう言って歩き出せば慌てたように腕を掴まれて、由比の足が止まった。
振り返れば、焦ったように自分を見る翔太の姿。
「ごめんね、翔太。心配かけちゃったね」
「ちょっと待って、由比……」
口を開こうとする翔太の言葉を遮るように、笑みを浮かべた。
「私、考えすぎちゃうの悪い癖なんだよね。ダメだなぁって思ってるんだけど、」
掴まれていない手でぽんぽんと翔太の腕を軽く叩くと、するりとその手が外れる。
「本当に、分かってくれた? 俺達にとって、由比は……」
「家族って言ってくれて、ありがとね。心配してもらえて、本当に嬉しい」
言葉尻を受けるようにそう続ければ、少し安心したように翔太が息を吐く。
「本当に?」
それでも疑いが全く晴れたわけじゃないようで、伺うように問われた言葉に深く頷く。
その態度に力が抜けたように、ふにゃりと翔太が笑った。
「よかったぁ。由比が元気になってくれて」
それは、母親や親しい人に向ける安堵の笑みで。
少し心に引っ掛かったけれど、由比は表情に出すこともせずもう一度謝りの言葉を口にした。
「心配かけちゃってごめんね? さてー、圭介さんに謝ったら食べに行くぞー!」
食器を洗いに来て、二十分くらい。
外にいる皆をほったらかしにしている手前、ちゃちゃっと謝って戻らないと。
「なんかほっとしたら、お腹すいてきちゃった」
部屋のドアを出ながらお腹に手を当てれば、くすりと笑う翔太の声。
「ずっと気にして、よく食べれなかったんだろ? まだ何かしらあるだろうから、いっぱい食べよ。なければ、溝口センセをコンビニに派遣」
「何それ。護さん何者?」
「都築さんに言ってもらえば、なんにでも変身?」
疑問系で断定する翔太に、そうだねと笑いかける。
外に出れば、楽しそうな声が響いてきて。
神野のおばちゃんの声がするって事は、アパートの人も参加してるみたい。
そんな事を話しながら、圭介さんがいるドアを開ける。
玄関を入れば、中から物音。
翔太を見れば、一緒には来るつもりはないらしく、目線で促された。
それに頷いて玄関をあがれば、数歩で辿り着く台所のドア。
ゆっくりと中に足を踏み入れると、奧の和室、畳の上に上半身を起こしてこちらを見る圭介さんの姿を見つけた。
驚いたように目を見開いていて。
「圭介さん」
呼びかければ、やっと意識が現実に戻ったかのように飛び起きた。
「由比さん! その、今日は……」
そう言い掛ける圭介さんの言葉を遮るように、由比は口を開いた。
「今日はごめんなさい。翔太に聞いたの。桐原主任の事で、私を気に掛けてくれていたって。本当に、ありがとう」
謝罪と、そしてお礼を。
圭介は少し息を呑んで口を噤むと、頭を振った。
「私こそ、ごめん。許してくれて、ありがとう」
ほんわりと笑みを浮かべてくれる圭介の姿に、ちくりと胸が痛んだ。
“お兄ちゃん”
翔太が言った、言葉。
自分が言った、言葉。
偽の関係だとしても、家族として大切にしてくれる存在。
「ありがとう、お兄ちゃん」
由比の視界が、唐突に霞がかった。
圭介が、視界から消える。
感情を、押し込める。
消せないのなら、浮かび上がる事のないほど深い場所へ沈めて。
私は、今だけここにいさせてもらっている、ただの隣人。
今が楽しく過ごせれば、それだけでいい。
温かいその場所は、今だけなんだから。
求めすぎたその手を、下げなければ。
全ての感情を、曖昧に。
なんとか笑顔だけは保ちながら、由比は自分の意識が急速に冷えていくのを感じていた。
お礼を再び口にすれば少し柔らかくなった圭介さんの声音に、ふっと体から力が抜ける。
――現実は、どっち?
そして重ねるようにさっき自分に問いかけたその答えを、噛み締めるように心の中で呟いた。
――ここは、現実じゃない……
ストック終了ですm--m
今週は更新が難しいと思います。
お待たせいたします事、申し訳ございません。
篠宮 楓