5
この次期は天気のいい日が多くて、幸せ。
花粉症は辛いけど。それももうすぐ終わる。
薬を飲むのは、最優先事項!
「おはようございます」
アパートの階段を降りきった所で、後ろから声を掛けられて振り向いた。
「圭介さん、おはようございます」
丁度部屋から出てきた圭介さんが、私を見つけて早足で歩いてきた。
うん、昨日も思ったけれど、かっこいい人はスーツを着ると色々割り増しされるよね。
朝からいい目の保養。
トントンと軽い音を立てて階段を降りてきた圭介さんと、歩き出す。
車が止まっているのは、アパートの入り口横にある駐車スペース。
その横まで一緒に行って、立ち止まった。
「昨日は帰り、ありがとうございました。助かりましたー」
軽く頭を下げると、車の鍵を開けていた圭介さんがこちらこそと笑う。
「おかずが一品増えて、私も翔太も大喜び。本当においしかった、ありがとう」
珍しく(といっても、あってまだ三日目なんだけど)おどけたような言葉遣いに、笑いが漏れる。
「ていうか由比さん、まだ敬語? 止めようって決めたよね?」
運転席のドアを開けて腰を降ろしながら、優しそうな声で少し責めるような言葉に私は首元に手をやってごまかすように俯いた。
「でも、私より六歳も年上の方ですから。圭介さんが私に敬語を使うのはおかしいけれど、私が使うのは普通ですよ」
「翔太は、あなたより四つ下でタメ口でしょ?」
「翔太は……その……」
私が言う前から、普通にタメ口だったから……。
ぶつぶつという私に、圭介さんは大きな溜息をついた。
「翔太はよくて私はダメって、なんだか嫌われてるみたいだな」
圭介さんの言葉に、俯けていた頭をがばっと勢いよく上げた。
「そっ、そんな事ないです。そういうことじゃなくてっ。じゃ、敬語止めるから!」
これでいい?! と焦ってまくし立てる私の顔を見て、圭介さんは右の拳を口元に軽く当てた。
「ふっ……」
「……え?」
その顔は……
「笑ってます……?」
今、ふっとかいいましたよね?
じろりと上から見下ろせば、圭介さんは当てていた手を軽く振ってごめんごめんと笑う。
「こうでもしないと、由比さんは聞いてくれなさそうだから。なんか、頑な」
「……圭介さんも頑固だと思うけど」
お互い目を合わせて笑いあう。
ある意味、似たもの同士なのかもしれない。そんなことを言い合いながら。
そこではたと気づいて腕時計に視線を移すと、いつの間にか結構な時間がたっていた。
「じゃ、圭介さん。私そろそろ……」
「あぁ、引き止めてごめんね」
もう一度頭を下げて歩き出そうとする私に、気がついたように圭介さんが声を掛けた。
「そういえば昨日車に乗ったから、駅まで歩きだよね? よければ駅まで送っていくよ」
運転席に腰掛けたままの圭介さんに、慌てて両手を振って遠慮する。
「大丈夫です、いつも徒歩なんでお気になさらず。ではでは、行ってきます」
そのまま歩き出そうとした私の腕が、伸びてきた圭介さんの手に掴まれた。
後ろに引っ張られてよろけた身体を、足を踏ん張る事でなんとか止める。
――何?
「……徒歩?」
顔だけ振り向けると、怪訝そうな表情の圭介さんと目が合う。
「……徒歩、だけど」
なんか、この声音、聞いた事あるような。
シチュー、食べてた時に自覚しなさいって注意されたあの時の声……の、ような?
「乗って」
「え、いや、あの」
「乗って」
腕は離してくれたけど、ほんわか圭介さんとは思えない強い視線に抗えなくて諦めた。
「助手席、乗ってもらえる? 話しづらいから」
後部座席に乗ろうとした私に、低い声が停止を掛ける。
話、づらい?
お説教、決定だ――
幾分項垂れながら、助手席へと身体を沈めた。
駅まで、車で五分かかるかかからないか。
徒歩で二十分近くかかるのに、車って便利~。
「……」
やばい、静かだ。
このしんとした空間、凄く居づらい。
視線だけあげて、圭介さんを盗み見る。
眉間に皺を寄せて、まっすぐに前を見る姿。
やばい、怒りのオーラがしんしんと。
「由比さん」
「はいっ」
思わず、びくりと身体が震えた。
だって、凄い低い声。
これ、怒ってるよね?
なんで、どうして? 徒歩って、ダメ?
圭介さんは前を見たまま、口を開いた。
「やっぱり、由比さんは自覚が少し足りない。朝はいいけど、夜、あまり明るい道のりじゃないよね? アパートまで」
……まぁ、否定はしない。
住宅街と商店街が途中まであるけれど、その後は工場とか野原が続いている場所がある。
アパートの近くまで来れば、住宅街にスーパーもあるから明るいけれど。
「一応……、なるべく明るい道を歩いて、周りを見ながら帰宅してるけど」
「もしものことがあったらどうするの? せめて自転車で行くとか」
自転車……
その言葉に、眉を顰める。
「それは、その、避けたいというか」
「避ける?」
怪訝そうな声に、思わず俯く。
言わなきゃ、ダメ?
馬鹿にされそうなんだけど。
ちらりと圭介さんを見上げれば、赤信号で止まったのかばっちり目が合った。
複雑な表情に、はぁと溜息をつく。
「自転車、乗れないの」
「……え?」
「だから、自転車乗れないんです。恥ずかしい事に!」
分かったか、このやろうって勢いで告白してみました!!
えーえー、二十二歳にもなって乗れないんですよ、自転車。
「で、バス便もないし、徒歩通勤するしかないじゃないですか」
「……なる、ほど」
驚いたらしい圭介さんは、途切れ途切れ返事をしながら頷いた。
まぁ、珍しいかもね。
自転車乗れない人って。
「ここに住んで六年、もう慣れっこだから大丈夫」
先生って、心配するのも仕事みたいなもんなんだろうな。
うんうん、ちょっとお説教は怖いけど、心配してもらえるのは嬉しいからね。
「その、心配してもらえて、それは嬉しいので」
にっこり笑って頭を下げると、申し訳なさそうに圭介さんまで頭を下げる。
「何も知らないのに、ごめんね」
「いえいえ、普通はそう思いますもん」
だから気にしないでと笑うと、信号が変わったのか圭介さんが前を向いた。
「いい人だね、由比さんは」
ふわりと、前を向いたまま笑う圭介さんから、さっきまでの怖い雰囲気が消える。
気持ち緊張していた身体から、やっと力が抜けた。
思わず、右手で左の腕をさする。
それを見ていたのだろう、圭介さんがもう一度謝った。
「怖がらせちゃったみたいだね、本当にごめん。ただ……」
目の前に駅のコンコースが見えてきた。
見慣れたその風景に、鞄を両手で持ち直して降りる準備をする。
そして“ただ……”の続きが気になって、圭介さんを見た。
「心配だから。遅くなる時は、翔太を呼び出して?」
「え? いやいやいや」
首を振って、それを辞退する。
「今まで大丈夫だったんだから」
そう言うと、溜息をついた圭介さんはロータリーに車を止めた。
サイドブレーキを掛けてから、私を見た。
「今までが必ず続くとは限らない。だから、ちゃんと呼んで。確かに絶対に迎えにいけるとは言い切れないけど、できる限りは……ね?」
「でも――」
「口答えは却下。もし気になるなら、夕食のおかず、たまに分けてもらえると嬉しいな。昨日の鶏肉、本当においしかったから」
そう言ってにっこり笑う圭介さんに、抗える人がいたらお目にかかりたい……。
携帯のアドレスと番号を交換して、車を降りた。