12
朝のやり取りを思い浮かべていた圭介は、意識を切り替えるように大きく息を吐き出した。
「なんだか溝口先生と話してると、調子が狂うな」
大人になって増えた、本音と建前。
使い分ける術も、社会人になれば誰だって身につく。
無意識に感情をコントロールするだろう。
溝口には、それが薄いのだ。
その、コントロールをするという事自体が。
薄いというか、するつもりがないというか。
だからなのかどうなのか、気付いたら溝口に引きずられてしまうのだ。
つい、感情的になってしまうのが少し悔しい。
これじゃまるで、年下……いや実際年下なのだが、年下が年上に甘えている状態に思える。
ようするに、翔太と自分の関係に近い気がして気に食わない。
「溝口先生より、精神年齢は上でありたいと……願う。切実に」
溝口が聞いていたら一発ダウンしそうな言葉を吐きながら、圭介は手にしたままの本に目を落とした。
――ここまで、送ってもらったから
昨日、由比から聞いた言葉。
思わず、ほっとしてしまった自分がいた。
少し前、由比が会社の同僚と食事に行った日。
仕事だった圭介は、それでもいつもより早くアパートへと戻った。
暗くなりかけている風景に、電気のついていない隣の……由比の部屋。
まだ帰っていないのかと過保護を発動しながら車のエンジンを切った圭介は、シートベルトを外しながら背筋を伸ばす。
さて、今日の夕飯は何にするかなとドアを開けようとした圭介の視界に、ひょこっと小さな影が入り込んできた。
それは、由比で。
いつもよりは少しおめかしした格好に、帰ってきたのかと目元が緩む。
声を掛けようとドアに置いた手に力を入れた時、もう一つ背の高い影が彼女の後ろから出てきて圭介の動気を止めた。
見慣れている由比と違って、見慣れていないその人影に目を凝らす。
薄暗い中見えたのは、覚えのある顔。
……桐原
一・二度駅で会った事のある、由比の上司。
表情まで細かく伺えないが、それでも穏やかに笑っている。
前に見た時の威嚇するような、押さえつけるような雰囲気ではなく。
この二人に、何が、あった?
思わず二人から見えないように、シートに身を深く沈める。
けれどどうしても気になって、二人を目で追っていた。
その時。
由比の頭に、桐原の手が触れた。
どくりと跳ねる、鼓動。
ぽんぽんと上下に動く、その手のひら。
思わず、駆け寄りたくなった。
触れさせたくない……、誰にも。それが桐原ならばなおさら。
体調を崩すほど、彼女を追い詰めた男。
何があったのかは知らないが、それでも恋愛感情が絡んでいるのは明白。
感情を見せてはいても本心を隠して生きているような由比を、あそこまで揺さぶった男。
その場所は、その手は、俺の――
けれど、出て行くのは理性が押し留める。
暴れだしそうな感情を、何とか押さえ込みながら。
話し終えたのか、由比が頭を下げたのをきっかけに桐原は踵を返して駅へと戻っていった。
けれど由比はすぐに部屋に戻るわけでもなく、ただ、桐原の立ち去った方をじっと見ていて。
しばらくして両手で頬を叩くと、ゆっくりと部屋へと帰っていった。
圭介は、じっと車内に身を潜めたままそれを見送って。
由比が部屋に入ったのを見て、やっと強張っていた体から力が抜けた。
口の中が、からからに乾いている。
今の、由比の行動はなんなんだろう。
桐原の後姿を見て、何を考えた……?
どんどんと深く落ちていく思考を、右の拳をドアに叩きつけて押し留める。
中古で買った車が、変な軋みを上げた。
こんなにも、動揺するとは思わなかった。
感情を持っていかれるほど、動揺するとは思わなかった。
桐原の存在が、こんなにも自分に影響するとは思わなかった。
翔太も、由比を好きだと言う。
そして、行動も起す。
どちらを選ぶのかなんて分からない。
今の所、由比にとって圭介も翔太も、恋愛の範疇外にいるのだろうから。
けれど桐原は。
頭の中に、警鐘が、鳴り響く。
由比の感情を揺さぶった、男。
由比を、泣かせた、男。
ふっ、と風が頬を撫でて、圭介の意識が浮上する。
だいぶ考え込んでいたらしい。
眼下の校庭にいたはずの生徒は、昼休憩なのか脇の方で片づけをする数人しか見えない。
圭介は幾度か瞬きをしながら小さく息を吐くと、手元の本を持ち直した。
本当は知っていたけれど、知らない振りをした。
桐原が、会社の同僚達を車で連れてくるといった時。
ここを知っているのか? と。とぼけて、問い返した。
もし言葉を濁されたらと思うと、内心、気が気じゃなかったけれど。
でも由比は、あっさりと送ってもらった事を口にした。
それはつまり、知られたくない事がないって事で。
こんな試すような事をしてでも、由比にとっての桐原の立ち位置を測ろうとする自分に嫌気がさした。
けれどほっとしているのも、本心で。
桐原の事で泣いていた由比の姿が、脳裏を過ぎる。
自分以外の為に泣く姿を見たくないと思うこの感情は、自分自身でも持て余すほどの強い嫉妬。
今までの人生で、ここまで誰かを欲した事があっただろうか。
思いつく記憶は、一つもない。
好きだと、離したくないと、願う。
翔太とも、いつか決着をつける時がくるのだろうけれど。
でも、本当は今のまま。
叶うなら、由比と翔太、大事な人達とこのまま穏やかに過ごしたい。
「……由比、さん」
呟くように零したその声に反応するように遠くでかさりと音がなったけれど、圭介の耳には届かなかった。
すみませんっ、食事会の曜日。土曜日です!10話目、日曜日って書いてました。本当にすみません!