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定食屋 太陽と月

2品目 『豚汁』

作者: 髙島 ダイト
掲載日:2026/06/20

「もうすぐ夏が来るのね...。」


しとしとと降る雨空の下、傘の中で、外回りをしていた凛子は静かに呟いた。

視線の先には色とりどりのあじさいが目に入る。今月のノルマの達成まであと一息なのに、なかなか決まらない。上司からは、利益利益と急かされている。朝から歩き回って、ストッキングにも雨水が沁みていた。


「…はぁ…」


ふと、ため息が漏れると同時に、凛子のお腹が『くぅ』と鳴いた。右手首の時計が11:56を指していた。


『このままお昼を食べていこうかしら。

近くに飲食店は…』


傘の下から視線を上げると、暖簾と店から盛れる灯りが目に入った。どうやらボーっと歩いていたら、大道から小道に入り込んでいたらしい。


『【定食屋 太陽と月】…。こんな所に定食屋さんがあったのね。』


味噌汁のようなどこか家庭的な懐かしい匂いが、凛子の鼻腔をくすぐる。

暖簾も出ているのだから、営業はしているのだろう。濡れた身体を少し温めたいし、お腹も空いた。凛子は、引き寄せられるように、暖簾をくぐり、引き戸を開けた。


「いらっしゃいませ〜ッ!」

「いらっしゃいませ。」


男性と女性、2人の店員から迎えられた。


「1人なんですが、よろしいですか?」

凛子にとって食べ歩きは趣味のひとつではあるが、初めて入る店はやはり多少の緊張はする。


「ええ、もちろんです!良ければ、こちらのタオル使ってください。」


女性の店員がバスタオルを差し出す。


「ありがとう。」


凛子は、ありがたくバスタオルを頂戴し、濡れた髪と服を拭き、空いているカウンターの席に腰を下ろす。


「本日は足元の悪い中、ご来店いただきありがとうございます。」


先程バスタオルを渡してくれた女性店員が、温かいおしぼりを持ってきてくれた。


「バスタオルありがとうございました。えっと、何かオススメを頂きたいのですが…」

凛子が店員に尋ねる。

「お客様、こちらはいかがでしょう?」

店員が1枚の紙を差し出す。



『【本日のおすすめ】豚汁定食 ※小鉢はかぼちゃの煮物かほうれん草のおひたしから承ります。』


可愛らしいイラストと定食の内容が簡潔に記されている。


『味噌の匂いは豚汁だったのね。』


雨で冷えた身体に、温かく、野菜と味噌の塩味を感じるであろう豚汁は、間違いなく今の凛子にとって最適解だった。問題は、小鉢をどちらにするか──────…。


「では、この豚汁定食を。小鉢は、かぼちゃの煮物でお願いできますか。」

「かしこまりました!」


しばしの熟考の後、凛子が注文を終えた時、カウンターの中と外で店員がアイコンタクトで合図していた。阿吽の呼吸で、カウンターの中で、男性の店員が、豚汁の入った鍋をとろ火から中火に変えた。店内に豚汁の味噌の香りが優しく広がる。女性店員が器を準備し、男性店員が頷く。


コトコトと鍋が煮込まれる音が心地よい。程よく温められたおしぼりで、手を拭う。


『今だけは仕事のことを忘れたい。』


凛子は目を閉じ、店内の調理の音と外から微かに聞こえる雨音の二重奏(デュオ)を堪能する。数年帰っていないが、実家の安らぎを思い出させる。


「お待たせしました!本日のオススメ『豚汁定食』です!」


女性店員の元気な声で現実に戻る。凛子の前に、注文の品がお盆に乗って運ばれてくる。湯気の隙間から、白米の白、豚汁の色鮮やかな具材の数々、かぼちゃの煮物の黄色、きゅうりの漬物の緑が覗く。


「いただきます。」

凛子はお盆の上の箸を取り、豚汁に手を伸ばす。


ズズッ─────・・・


しっかり煮込まれたであろうこの豚汁、恐らくは白味噌と赤味噌の合わせ味噌。野菜の甘みも沁みていて、今まで食べた豚汁を軽々と超えてきた。

かぼちゃの煮物は、箸で切れるほど柔らかい。一口、また一口と、何度も口に運びたくなる。豚汁の塩味をかぼちゃの甘さが引き立たせる。

ふっくりと炊き上げられたご飯と付け合せのきゅうりの漬け物。こちらも脇役に収まらず、メインの豚汁を支えつつ、食欲を衰えさせない。


凛子は、夢中で豚汁定食の品々を口に運ぶ。


『これを食べ終わったら、また午後の外回りかぁ…』

空になりつつある皿を見て、自分が外回り中であることを思い出す。


「お茶はいかがですか。」


カウンターの男性店員が問いかける。どうやら、凛子が豚汁に夢中になっている時に、他のお客さんも来店し、女性店員はそちらの注文を聞いている。


「ええ、頂けますか」

男性店員は静かに頷き、急須でお茶を湯のみに注ぐ。


「美味しい──────…」


男性店員がカウンターの中で、誰にも分からないように静かに微笑む。


お茶の最後の一滴まで飲み干し、凛子はお会計を済ませ、店を後にした。


『ありがとうございました!』と、二人の店員さんの声が凛子を見送る。


店を出た時、降り注ぐ雨は小降りになっていた。次の外回り先に向かう時に、凛子は物思いにふけっていた。


『なぜ、あの男性の店員は私が食べ終わる頃合いが分かっていたのかしら』


【定食屋 太陽と月】は小さな店だ。店のサイズからして、防犯カメラがあるなら気付かないはずが無い。ならば、答えは一つだ。


『店に来るお客さん全員に寄り添った対応を、あの店は心がけている。小さい店だからできるホスピタリティ──────』


凛子はハッと気付く。今月のノルマ達成への忘れかけていた"最後のピース"。


相手により寄り添った提案、相手への思いやり


会社勤めとして、利益を求めなければならないのは分かっている。でも、その先にある"相手のこと"を忘れていたのだ。


「もうひと頑張りしますか!」


気がつくと傘に降り注ぐ雨音は小さくなり、雨が上がる。凛子は、午後の外回り先へと向かう。


『次の休みには久々に実家に帰ろうかしら。』


胃も心も満たされた凛子の足取りは軽かった。もう、傘は要らないくらい、雨は上がり、西の空に青い空が広がっていた。



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