2品目 『豚汁』
「もうすぐ夏が来るのね...。」
しとしとと降る雨空の下、傘の中で、外回りをしていた凛子は静かに呟いた。
視線の先には色とりどりのあじさいが目に入る。今月のノルマの達成まであと一息なのに、なかなか決まらない。上司からは、利益利益と急かされている。朝から歩き回って、ストッキングにも雨水が沁みていた。
「…はぁ…」
ふと、ため息が漏れると同時に、凛子のお腹が『くぅ』と鳴いた。右手首の時計が11:56を指していた。
『このままお昼を食べていこうかしら。
近くに飲食店は…』
傘の下から視線を上げると、暖簾と店から盛れる灯りが目に入った。どうやらボーっと歩いていたら、大道から小道に入り込んでいたらしい。
『【定食屋 太陽と月】…。こんな所に定食屋さんがあったのね。』
味噌汁のようなどこか家庭的な懐かしい匂いが、凛子の鼻腔をくすぐる。
暖簾も出ているのだから、営業はしているのだろう。濡れた身体を少し温めたいし、お腹も空いた。凛子は、引き寄せられるように、暖簾をくぐり、引き戸を開けた。
「いらっしゃいませ〜ッ!」
「いらっしゃいませ。」
男性と女性、2人の店員から迎えられた。
「1人なんですが、よろしいですか?」
凛子にとって食べ歩きは趣味のひとつではあるが、初めて入る店はやはり多少の緊張はする。
「ええ、もちろんです!良ければ、こちらのタオル使ってください。」
女性の店員がバスタオルを差し出す。
「ありがとう。」
凛子は、ありがたくバスタオルを頂戴し、濡れた髪と服を拭き、空いているカウンターの席に腰を下ろす。
「本日は足元の悪い中、ご来店いただきありがとうございます。」
先程バスタオルを渡してくれた女性店員が、温かいおしぼりを持ってきてくれた。
「バスタオルありがとうございました。えっと、何かオススメを頂きたいのですが…」
凛子が店員に尋ねる。
「お客様、こちらはいかがでしょう?」
店員が1枚の紙を差し出す。
『【本日のおすすめ】豚汁定食 ※小鉢はかぼちゃの煮物かほうれん草のおひたしから承ります。』
可愛らしいイラストと定食の内容が簡潔に記されている。
『味噌の匂いは豚汁だったのね。』
雨で冷えた身体に、温かく、野菜と味噌の塩味を感じるであろう豚汁は、間違いなく今の凛子にとって最適解だった。問題は、小鉢をどちらにするか──────…。
「では、この豚汁定食を。小鉢は、かぼちゃの煮物でお願いできますか。」
「かしこまりました!」
しばしの熟考の後、凛子が注文を終えた時、カウンターの中と外で店員がアイコンタクトで合図していた。阿吽の呼吸で、カウンターの中で、男性の店員が、豚汁の入った鍋をとろ火から中火に変えた。店内に豚汁の味噌の香りが優しく広がる。女性店員が器を準備し、男性店員が頷く。
コトコトと鍋が煮込まれる音が心地よい。程よく温められたおしぼりで、手を拭う。
『今だけは仕事のことを忘れたい。』
凛子は目を閉じ、店内の調理の音と外から微かに聞こえる雨音の二重奏を堪能する。数年帰っていないが、実家の安らぎを思い出させる。
「お待たせしました!本日のオススメ『豚汁定食』です!」
女性店員の元気な声で現実に戻る。凛子の前に、注文の品がお盆に乗って運ばれてくる。湯気の隙間から、白米の白、豚汁の色鮮やかな具材の数々、かぼちゃの煮物の黄色、きゅうりの漬物の緑が覗く。
「いただきます。」
凛子はお盆の上の箸を取り、豚汁に手を伸ばす。
ズズッ─────・・・
しっかり煮込まれたであろうこの豚汁、恐らくは白味噌と赤味噌の合わせ味噌。野菜の甘みも沁みていて、今まで食べた豚汁を軽々と超えてきた。
かぼちゃの煮物は、箸で切れるほど柔らかい。一口、また一口と、何度も口に運びたくなる。豚汁の塩味をかぼちゃの甘さが引き立たせる。
ふっくりと炊き上げられたご飯と付け合せのきゅうりの漬け物。こちらも脇役に収まらず、メインの豚汁を支えつつ、食欲を衰えさせない。
凛子は、夢中で豚汁定食の品々を口に運ぶ。
『これを食べ終わったら、また午後の外回りかぁ…』
空になりつつある皿を見て、自分が外回り中であることを思い出す。
「お茶はいかがですか。」
カウンターの男性店員が問いかける。どうやら、凛子が豚汁に夢中になっている時に、他のお客さんも来店し、女性店員はそちらの注文を聞いている。
「ええ、頂けますか」
男性店員は静かに頷き、急須でお茶を湯のみに注ぐ。
「美味しい──────…」
男性店員がカウンターの中で、誰にも分からないように静かに微笑む。
お茶の最後の一滴まで飲み干し、凛子はお会計を済ませ、店を後にした。
『ありがとうございました!』と、二人の店員さんの声が凛子を見送る。
店を出た時、降り注ぐ雨は小降りになっていた。次の外回り先に向かう時に、凛子は物思いにふけっていた。
『なぜ、あの男性の店員は私が食べ終わる頃合いが分かっていたのかしら』
【定食屋 太陽と月】は小さな店だ。店のサイズからして、防犯カメラがあるなら気付かないはずが無い。ならば、答えは一つだ。
『店に来るお客さん全員に寄り添った対応を、あの店は心がけている。小さい店だからできるホスピタリティ──────』
凛子はハッと気付く。今月のノルマ達成への忘れかけていた"最後のピース"。
相手により寄り添った提案、相手への思いやり
会社勤めとして、利益を求めなければならないのは分かっている。でも、その先にある"相手のこと"を忘れていたのだ。
「もうひと頑張りしますか!」
気がつくと傘に降り注ぐ雨音は小さくなり、雨が上がる。凛子は、午後の外回り先へと向かう。
『次の休みには久々に実家に帰ろうかしら。』
胃も心も満たされた凛子の足取りは軽かった。もう、傘は要らないくらい、雨は上がり、西の空に青い空が広がっていた。




