雨音の遺言
十二月の雨は、容赦なく都心を打ちつけていた。
遠藤拓也、三十五歳。IT企業のCEO。創業五年で上場を果たし、経済誌の表紙を飾り、「家族を大切にする経営者」として知られていた。
今日も、テレビ局のインタビューを受けたばかりだった。
「成功の秘訣は?」という質問に、私は笑顔で答えた。
「家族です。妻と二人の子供が、私の原動力なんです」
嘘だった。
スタジオを出て、運転手付きの車に乗り込んだ。携帯には、妻からの着信履歴が十五件。
無視した。
今夜は、海外投資家との会食がある。それが優先だ。
妻からのメッセージを開く。
『今日は娘の誕生日です。約束を忘れないでください』
ああ、そうだったか。七歳になるのか。
でも、今夜の会食で三十億の出資が決まる。娘の誕生日なんて、毎年あるじゃないか。
『ごめん。急な会議が入った。明日、埋め合わせするから』
送信。
これで何度目だろう。先月は息子の運動会。その前は妻の誕生日。全部、仕事を理由に逃げた。
でも、世間は私を「良き父親」だと思っている。SNSには家族との笑顔の写真を投稿し、「家族との時間が何より大切」とコメントする。
完璧な偽装だった。
車が信号で止まった。窓の外に、都立桜ヶ丘公園が見えた。
その入口で、一人の老婦人が雨に打たれていた。
八十歳近いだろうか。傘も持たず、ずぶ濡れになって、ベンチに座り込んでいた。
運転手が言った。
「あの方、大丈夫でしょうか……」
「放っておけ。行こう」
でも、信号が長い。老婦人が、こちらを見た。
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
あの目。まるで、すべてを見透かしているような目。
老婦人が、ゆっくりと立ち上がり、車に近づいてきた。
窓を叩く音。
「遠藤さん……遠藤拓也さんですね?」
なぜ、私の名前を?
私は窓を少しだけ開けた。
「どなたですか」
「私は……あなたのお母様の、古い友人です。白川と申します」
母。三年前に亡くなった。
「母の友人? 初めて聞く名前ですが」
「お母様が亡くなる前、私にあるものを預けられました。あなたに渡してほしいと」
胡散臭い。金目当ての詐欺かもしれない。
「今は時間がありません。後日、事務所に連絡してください」
窓を閉めようとした時、老婦人が言った。
「本当に、いいんですか? このまま、嘘をつき続けて」
私の手が止まった。
「何のことです?」
「あなたは、家族を大切にしていない。テレビでは良い父親を演じているけれど、本当はずっと、家族から逃げている」
心臓が跳ねた。
「何を根拠に……」
「お母様から聞きました。あなたが幼い頃、お父様が仕事ばかりで家にいなくて、どれだけ寂しかったか。そして、あなたが同じことを繰り返していると、お母様は嘆いていました」
言葉が出なかった。
信号が青に変わった。
「行け」
運転手に命じた。車が発進する。
バックミラーに、雨に打たれる老婦人の姿が映った。
でも、私は振り返らなかった。
会食は成功だった。三十億の出資が決まった。
帰りの車の中で、秘書が言った。
「おめでとうございます、社長。これで新規事業が——」
「ああ」
でも、心は晴れなかった。
あの老婦人の言葉が、頭から離れなかった。
『このまま、嘘をつき続けて』
午後十一時。公園の前を再び通った。
老婦人は、まだそこにいた。
雨はさらに激しくなっていた。老婦人は、木の下で雨宿りをしていた。
「止まれ」
私は車を降りた。
公園に入ると、老婦人が気づいて立ち上がった。
「遠藤さん……戻ってきてくださったんですか」
「母が預けたというもの、何ですか」
「こちらです」
老婦人は、ずぶ濡れのバッグから、古い封筒を取り出した。
「でも、ここでは……奥に、雨を避けられる場所があります」
老婦人は公園の奥を指差した。
そこには「立入禁止」の札が立っていた。がけ崩れの危険があるため、封鎖されている区域だ。
「そんな危ない場所に、なぜ……」
「あそこに東屋があるんです。昔、お母様と、よくそこでお茶を飲んだ思い出の場所で」
私は躊躇した。
でも、老婦人はすでに歩き始めていた。足元がおぼつかない。
私は舌打ちをして、後を追った。
立入禁止の柵を越え、暗い小道を進む。足元はぬかるんでいて、一歩間違えば崖だ。
その時、老婦人が足を滑らせた。
「危ない!」
私は手を伸ばしたが、間に合わなかった。
老婦人は崖の縁に倒れ込み、封筒が泥の中に落ちた。
老婦人を引き上げた時、私のスーツは泥だらけになっていた。オーダーメイドの百万円のスーツが。
そして、時計——亡き父から受け継いだ、ヴィンテージのロレックス——が、崖の下に落ちていくのが見えた。
「すみません……すみません……」
老婦人が泣きながら謝った。
「もういい。立てますか?」
老婦人を支えて、近くの東屋へ運んだ。
私の携帯が鳴った。妻からだ。
「もしもし?」
「拓也……もういいの。娘は泣きながら寝たわ。もう、この家には帰ってこなくていい」
電話が切れた。
私は、立ち尽くした。
父の形見の時計。家族。そして、今夜の成功の余韻。すべてが、この泥の中に消えていく。
これが、代償か。立ち入り禁止の境界を越えた、代償。
老婦人が、震える手で泥まみれの封筒を拾った。
「これを……お渡しします……」
封筒を開けた。
中には、母の手紙が入っていた。
『拓也へ
もしあなたがこの手紙を読んでいるということは、あなたは白川さんに会ったということですね。
私が死んだ後も、あなたは変わらなかったのでしょう。仕事ばかりで、家族を顧みない。そうですね?
あなたは覚えていますか? あなたが十歳の誕生日、お父さんは仕事で来ませんでした。あなたは泣いて、「パパなんか嫌いだ」と叫びました。
でも、今、あなたは同じことをしている。
実は、あなたが知らないことがあります。お父さんが亡くなる前日、私に言ったんです。
「俺は、失敗した。拓也との時間を、もっと作るべきだった。仕事で成功しても、息子に嫌われたら、何の意味もない」
お父さんは、後悔していました。そして、あなたに同じ過ちを繰り返してほしくないと。
拓也、あなたは「成功者」を演じています。でも、本当の成功は、家族に愛されることです。
あなたの子供たちは、今、かつてのあなたと同じように泣いています。「パパが来てくれない」と。
このまま行けば、あなたも父と同じ後悔を抱えて死にます。
白川さんは、私の最後の願いを引き受けてくれました。どんなに時間がかかっても、あなたに会って、この手紙を渡すと。
お願いです。今すぐ、家に帰りなさい。
母より』
手紙が、雨に濡れて滲んでいく。
いや、違う。これは、私の涙だ。
老婦人が、静かに言った。
「お母様は、あなたを愛していました。だから、あなたが幸せになってほしかった。本当の意味で」
私は、頭を抱えた。
母は、私の弱点を知っていた。私の本質を。そして、それを白川さんに託した。
私が逃げ続けてきた真実を、突きつけるために。
老婦人が、咳き込んだ。
激しく、苦しそうに。
「大丈夫ですか!」
老婦人の額に手を当てると、熱があった。
「ずっと、雨に打たれていて……」
「救急車を呼びます!」
でも、老婦人は首を振った。
「もう……いいんです……」
「何を言って——」
「私、実は……末期癌なんです。もって、あと一ヶ月と」
言葉を失った。
「でも、お母様との約束を……果たしたかった。あなたに、この手紙を……渡すまでは……死ねないと……」
老婦人は、微笑んだ。
「約束……果たせました。ありがとう……ございます……」
そして、静かに目を閉じた。
私は、老婦人を抱きかかえた。
「待ってください! 白川さん!」
でも、答えはなかった。
救急車が来た時、白川さんはまだ息があった。でも、意識は戻らなかった。
病院で、医師が言った。
「低体温症と肺炎の併発です。もともと体が弱っていたところに、長時間雨に打たれて……」
私のせいだ。
最初に出会った時、車から降りて傘を渡していれば。
公園に戻った時、すぐに病院に連れて行っていれば。
白川さんは、三日後に息を引き取った。
葬儀には、私一人だけが参列した。白川さんには、家族がいなかったらしい。
そして、葬儀の後、私は——家に帰った。
妻は驚いた顔で、玄関に立っていた。
「拓也……?」
「ただいま」
私は、妻を抱きしめた。
「ごめん。もう、逃げない。ちゃんと、家族と向き合う」
妻の目から、涙が溢れた。
「本当に……?」
「ああ。約束する」
娘と息子が、階段を駆け降りてきた。
「パパ!」
二人を抱きしめた。
あの日、白川さんは自分の命と引き換えに、私に真実を突きつけてくれた。
母の最後の願い。父の後悔。そして、家族の愛。
私は、すべてを犠牲にして成功を追い求めていた。
でも、白川さんの犠牲によって、気づいた。
本当に大切なものを。
一年後。
私は、会社の経営を共同CEOに任せた。週三日は在宅勤務にし、家族との時間を増やした。
売上は少し下がった。でも、家族は笑っている。
雨の日、私は公園を訪れる。
白川さんが最後にいた東屋。そこに、小さな石碑を建てた。
『白川静子 ここで約束を果たす 感謝を込めて 遠藤拓也』
傘を開き、石碑の前に立つ。
白川さん、あなたが教えてくれたことを、私は忘れません。
偽りの成功より、本物の愛を。
雨音が、優しく響いていた。




