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雨音の遺言

作者: 雨音トキ
掲載日:2026/02/14

 十二月の雨は、容赦なく都心を打ちつけていた。


 遠藤拓也、三十五歳。IT企業のCEO。創業五年で上場を果たし、経済誌の表紙を飾り、「家族を大切にする経営者」として知られていた。


 今日も、テレビ局のインタビューを受けたばかりだった。


「成功の秘訣は?」という質問に、私は笑顔で答えた。


「家族です。妻と二人の子供が、私の原動力なんです」


 嘘だった。


 スタジオを出て、運転手付きの車に乗り込んだ。携帯には、妻からの着信履歴が十五件。


 無視した。


 今夜は、海外投資家との会食がある。それが優先だ。


 妻からのメッセージを開く。


『今日は娘の誕生日です。約束を忘れないでください』


 ああ、そうだったか。七歳になるのか。


 でも、今夜の会食で三十億の出資が決まる。娘の誕生日なんて、毎年あるじゃないか。


『ごめん。急な会議が入った。明日、埋め合わせするから』


 送信。


 これで何度目だろう。先月は息子の運動会。その前は妻の誕生日。全部、仕事を理由に逃げた。


 でも、世間は私を「良き父親」だと思っている。SNSには家族との笑顔の写真を投稿し、「家族との時間が何より大切」とコメントする。


 完璧な偽装だった。


 車が信号で止まった。窓の外に、都立桜ヶ丘公園が見えた。


 その入口で、一人の老婦人が雨に打たれていた。


 八十歳近いだろうか。傘も持たず、ずぶ濡れになって、ベンチに座り込んでいた。


 運転手が言った。


「あの方、大丈夫でしょうか……」


「放っておけ。行こう」


 でも、信号が長い。老婦人が、こちらを見た。


 その瞬間、背筋に冷たいものが走った。


 あの目。まるで、すべてを見透かしているような目。


 老婦人が、ゆっくりと立ち上がり、車に近づいてきた。


 窓を叩く音。


「遠藤さん……遠藤拓也さんですね?」


 なぜ、私の名前を?


 私は窓を少しだけ開けた。


「どなたですか」


「私は……あなたのお母様の、古い友人です。白川と申します」


 母。三年前に亡くなった。


「母の友人? 初めて聞く名前ですが」


「お母様が亡くなる前、私にあるものを預けられました。あなたに渡してほしいと」


 胡散臭い。金目当ての詐欺かもしれない。


「今は時間がありません。後日、事務所に連絡してください」


 窓を閉めようとした時、老婦人が言った。


「本当に、いいんですか? このまま、嘘をつき続けて」


 私の手が止まった。


「何のことです?」


「あなたは、家族を大切にしていない。テレビでは良い父親を演じているけれど、本当はずっと、家族から逃げている」


 心臓が跳ねた。


「何を根拠に……」


「お母様から聞きました。あなたが幼い頃、お父様が仕事ばかりで家にいなくて、どれだけ寂しかったか。そして、あなたが同じことを繰り返していると、お母様は嘆いていました」


 言葉が出なかった。


 信号が青に変わった。


「行け」


 運転手に命じた。車が発進する。


 バックミラーに、雨に打たれる老婦人の姿が映った。


 でも、私は振り返らなかった。


 会食は成功だった。三十億の出資が決まった。


 帰りの車の中で、秘書が言った。


「おめでとうございます、社長。これで新規事業が——」


「ああ」


 でも、心は晴れなかった。


 あの老婦人の言葉が、頭から離れなかった。


『このまま、嘘をつき続けて』


 午後十一時。公園の前を再び通った。


 老婦人は、まだそこにいた。


 雨はさらに激しくなっていた。老婦人は、木の下で雨宿りをしていた。


「止まれ」


 私は車を降りた。


 公園に入ると、老婦人が気づいて立ち上がった。


「遠藤さん……戻ってきてくださったんですか」


「母が預けたというもの、何ですか」


「こちらです」


 老婦人は、ずぶ濡れのバッグから、古い封筒を取り出した。


「でも、ここでは……奥に、雨を避けられる場所があります」


 老婦人は公園の奥を指差した。


 そこには「立入禁止」の札が立っていた。がけ崩れの危険があるため、封鎖されている区域だ。


「そんな危ない場所に、なぜ……」


「あそこに東屋があるんです。昔、お母様と、よくそこでお茶を飲んだ思い出の場所で」


 私は躊躇した。


 でも、老婦人はすでに歩き始めていた。足元がおぼつかない。


 私は舌打ちをして、後を追った。


 立入禁止の柵を越え、暗い小道を進む。足元はぬかるんでいて、一歩間違えば崖だ。


 その時、老婦人が足を滑らせた。


「危ない!」


 私は手を伸ばしたが、間に合わなかった。


 老婦人は崖の縁に倒れ込み、封筒が泥の中に落ちた。


 老婦人を引き上げた時、私のスーツは泥だらけになっていた。オーダーメイドの百万円のスーツが。


 そして、時計——亡き父から受け継いだ、ヴィンテージのロレックス——が、崖の下に落ちていくのが見えた。


「すみません……すみません……」


 老婦人が泣きながら謝った。


「もういい。立てますか?」


 老婦人を支えて、近くの東屋へ運んだ。


 私の携帯が鳴った。妻からだ。


「もしもし?」


「拓也……もういいの。娘は泣きながら寝たわ。もう、この家には帰ってこなくていい」


 電話が切れた。


 私は、立ち尽くした。


 父の形見の時計。家族。そして、今夜の成功の余韻。すべてが、この泥の中に消えていく。


 これが、代償か。立ち入り禁止の境界を越えた、代償。


 老婦人が、震える手で泥まみれの封筒を拾った。


「これを……お渡しします……」


 封筒を開けた。


 中には、母の手紙が入っていた。


『拓也へ


もしあなたがこの手紙を読んでいるということは、あなたは白川さんに会ったということですね。


私が死んだ後も、あなたは変わらなかったのでしょう。仕事ばかりで、家族を顧みない。そうですね?


あなたは覚えていますか? あなたが十歳の誕生日、お父さんは仕事で来ませんでした。あなたは泣いて、「パパなんか嫌いだ」と叫びました。


でも、今、あなたは同じことをしている。


実は、あなたが知らないことがあります。お父さんが亡くなる前日、私に言ったんです。


「俺は、失敗した。拓也との時間を、もっと作るべきだった。仕事で成功しても、息子に嫌われたら、何の意味もない」


お父さんは、後悔していました。そして、あなたに同じ過ちを繰り返してほしくないと。


拓也、あなたは「成功者」を演じています。でも、本当の成功は、家族に愛されることです。


あなたの子供たちは、今、かつてのあなたと同じように泣いています。「パパが来てくれない」と。


このまま行けば、あなたも父と同じ後悔を抱えて死にます。


白川さんは、私の最後の願いを引き受けてくれました。どんなに時間がかかっても、あなたに会って、この手紙を渡すと。


お願いです。今すぐ、家に帰りなさい。


母より』


 手紙が、雨に濡れて滲んでいく。


 いや、違う。これは、私の涙だ。


 老婦人が、静かに言った。


「お母様は、あなたを愛していました。だから、あなたが幸せになってほしかった。本当の意味で」


 私は、頭を抱えた。


 母は、私の弱点を知っていた。私の本質を。そして、それを白川さんに託した。


 私が逃げ続けてきた真実を、突きつけるために。


 老婦人が、咳き込んだ。


 激しく、苦しそうに。


「大丈夫ですか!」


 老婦人の額に手を当てると、熱があった。


「ずっと、雨に打たれていて……」


「救急車を呼びます!」


 でも、老婦人は首を振った。


「もう……いいんです……」


「何を言って——」


「私、実は……末期癌なんです。もって、あと一ヶ月と」


 言葉を失った。


「でも、お母様との約束を……果たしたかった。あなたに、この手紙を……渡すまでは……死ねないと……」


 老婦人は、微笑んだ。


「約束……果たせました。ありがとう……ございます……」


 そして、静かに目を閉じた。


 私は、老婦人を抱きかかえた。


「待ってください! 白川さん!」


 でも、答えはなかった。


 救急車が来た時、白川さんはまだ息があった。でも、意識は戻らなかった。


 病院で、医師が言った。


「低体温症と肺炎の併発です。もともと体が弱っていたところに、長時間雨に打たれて……」


 私のせいだ。


 最初に出会った時、車から降りて傘を渡していれば。


 公園に戻った時、すぐに病院に連れて行っていれば。


 白川さんは、三日後に息を引き取った。


 葬儀には、私一人だけが参列した。白川さんには、家族がいなかったらしい。


 そして、葬儀の後、私は——家に帰った。


 妻は驚いた顔で、玄関に立っていた。


「拓也……?」


「ただいま」


 私は、妻を抱きしめた。


「ごめん。もう、逃げない。ちゃんと、家族と向き合う」


 妻の目から、涙が溢れた。


「本当に……?」


「ああ。約束する」


 娘と息子が、階段を駆け降りてきた。


「パパ!」


 二人を抱きしめた。


 あの日、白川さんは自分の命と引き換えに、私に真実を突きつけてくれた。


 母の最後の願い。父の後悔。そして、家族の愛。


 私は、すべてを犠牲にして成功を追い求めていた。


 でも、白川さんの犠牲によって、気づいた。


 本当に大切なものを。


 一年後。


 私は、会社の経営を共同CEOに任せた。週三日は在宅勤務にし、家族との時間を増やした。


 売上は少し下がった。でも、家族は笑っている。


 雨の日、私は公園を訪れる。


 白川さんが最後にいた東屋。そこに、小さな石碑を建てた。


『白川静子 ここで約束を果たす 感謝を込めて 遠藤拓也』


 傘を開き、石碑の前に立つ。


 白川さん、あなたが教えてくれたことを、私は忘れません。


 偽りの成功より、本物の愛を。


 雨音が、優しく響いていた。


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