人生の分岐点 ~スゥフィスの母親~
「貴族学院?」
「はい。スゥフィスも通うでしょう?」
喜色満面の笑顔で食事を作る教え子の様子を温かく見守る先生。その口から放たれた爆弾発言にスゥフィスは素っ頓狂な顔をする。
「え? だって、わたくしは伯爵家を出奔するのですわよね? 平民になるのではないのですか?」
先生によって厳しく淑女の学びを叩き込まれてきたスゥフィスは、狼狽えつつもその気品を忘れない。
粗末な小屋にいても優美な仕草の教え子に目を細め、ベンガルは小首を傾げた。
「なんの話でしょう? 貴女は自由になりましたが、伯爵家から支援を受けるのですよね? 社交界デビューもされました。もはや立派なレディです。平民? まさか。昨夜、貴女は伯爵令嬢の宣言をしたのだから、当然、貴族学院にも通わねばなりませんよ?」
首を傾げながら淡々と語るベンガル。スゥフィスの脳内は語られた内容を理解することを拒んだが、幸か不幸か、彼女の聡明な脳細胞は言われたことを理解してしまう。
「わ..... わたくしは、伯爵家の連中に意趣返しをしてやりたかっただけでございまして.....」
「存じております。見事でした。毎日のように噂雀が囀ずっておりますよ」
「.....伯爵家に引き取られる前の元の暮らしに戻るつもりだったのですが」
「貧民にですか? お勧めできませんよ? 金子に困らなくなったのだし、わざわざ貧民窟に戻ることもないでしょう」
「あ..... いえ、それは勿論。裕福な平民になるつもりでしたわ」
そこまで聞いて、みるみるベンガルの目が見開いた。
.....なんということか。私が手塩にかけて育てた珠玉の宝石は、自ら宝箱の外に転がり出て瑕を負おうとしている。
大事に大事に愛でて、学ばせ、慈しんできた教え子が。
これから貴族学院に通い、スゥフィスのさらなる進化を期待していたベンガルは、酷い痛みを胸に感じた。
しばれる蕀に絡みつかれ、ツキンと軋む彼の心臓。
.....許せない。
己を無価値に貶めようとするスゥフィスの思考を察して、ベンガルは自分でも驚くほどの怒りが湧いた。
こんこんと腹の奥から湧き出る昏い感情が、血管を逆流していく。
彼は、彼女の下克上が叶ったあと、当然、伯爵令嬢としての権利全てを手にするものと思っていた。
残酷な邸の片隅で朽ち果てようとしていた哀れな野バラ。
それを見つけ、世話をし、ようよう萎れていた茎や葉が元気になったのに。可愛らしくも小さな蕾をつけたのに。
.....花開く前に自ら枯らそうと?
そんなこと、許せるものかっ!!
これからだ。貴族学院に通い、今まで通りベンガルが面倒を見て、慎ましやかな野バラが大輪のハイブリッドティーに変貌するのだ。
何とかしてスゥフィスの気持ちを誘導しようと、ベンガルは持てる知識を総動員する。そして、ふっと閃いた。
「そうですか、平民に。うーん、そうすると君は自堕落な引きこもり希望ということですか?」
如何にも困ったような顔で笑うベンガルに、スゥフィスは持っていたフライ返しを取り落とした。
こんっと音をたてて床で跳ねるフライ返し。
「自堕落な引きこもり?」
「違うのですか? この国では十五歳以下の未成年の就労を許しておりません。少なくとも二年は何もやれませんよ?」
ベンガルの説明でスゥフィスも理解する。確かに、その二年は無職になるが、引きこもる気はない。
「それは貴族での理屈ですわ。平民には適用されませんことよ?」
貴族は十三歳の秋に貴族学院へ通うようになるが、平民や貧民は幼いころから働いていた。
スゥフィスだって、引き取られるまでは、その日払いの雑用を引き受けて小銭を稼いでいた。
雑用の仕事がない時は、地面を見つめて歩き回る。俗に言う地見屋だ。拾い物を集めて、質の悪い奴等に売るのだ。
拾えるかは運だが、上手くいけば小銭やちょっとした小物が拾えた。
小銭はぽっけに入れて、拾った物で価値がありそうなのを彼女はヤバめな仕事をしているという男性に持っていく。
片っ方だけのイヤリングやカフスなど店には売れない。本物か偽物かも分からない。だから怖くはあったが、スゥフィスは拾ったモノを裏家業の人々に頼んだのだ。地見屋という仕事を彼女に教えたのも彼等である。
裏家業の彼等が彼女を騙す可能性もあったが、背に腹は変えられない。
それに彼等は時々銀貨をスゥフィスにくれた。滅多に見ないキラキラした硬貨。それを貰えた日は薬を買える。
物知らずな子供だったスゥフィスだ。彼等は騙そうと思えば騙せただろう。銅貨数枚で誤魔化せもしたはずだ。
なのに貰えた神々しい一枚。良い噂がなく柄の悪い男性達だったが、スゥフィスにとっては何者にもかえがたい恩人だった。
日々の糧や母親の薬。
生活していくために毎日必死だった、あの頃。
.....貧民窟を脱出したのに、今度は生きるために必死にならなきゃいけなかったなんて。.....なんたる不条理。
裏家業の人々と呼ばれていた男性らはスゥフィスと顔馴染みで、あまりに彼女の様子がおかしいとパンや果物をくれた。
とりあえず食え。食えれば大概のことは何とかなると。
とっても厳つい方々でしたけど。心根はお優しい人達でしたわね。
凄絶過ぎる己の過去をかえりみつつ、胡乱な眼差しを泳がせるスゥフィス。
彼女は知らない。貧民窟の人々が、伯爵から頼まれていたことを。
一夜の情けで身籠ってしまったスゥフィスの母親は畏れ多いと考え、父伯爵に自身の懐妊を伝えなかった。
一人で産み育てるつもりだったが、無理が祟り、スゥフィスが五つの時に母親は身体を壊してしまう。
そして娘の行く末を案じた彼女は、スゥフィスが産まれてから初めて伯爵に手紙を書いた。
『長らく不義理をいたしましたこと深くお詫び申し上げます.....』
謝罪から始まる手紙には、我が子の近況と自身の体調不良が書かれていて、もし万一があれば、娘を頼みますとしめられている。
.....娘?
憮然と固まった伯爵は、手紙の送り主を探し回った。簡潔な手紙には宛先のみで差出人の住所がない。
自分に何かあったら娘に手紙を持たせて送ると書かれているだけで、その詳細もない。
.....どうやって? 誰かに頼んであるのか? いや、それより、万一だと? そんなに悪いのかっ?!
裕福な商人の娘で、伯爵家には行儀見習いとして仕えていたスゥフィスの母親。
妻の一回忌で涙に暮れ、墓石から離れられなかった伯爵を慰めてくれたのが彼女だった。
つらつらと語る妻の思い出話。それをじっと静かに聞いてくれた彼女。精神的に参っていて人肌の温もりに飢えていた伯爵は、欲求のおもむくまま彼女と関係を持つ。一夜限りの情事だった。
気に入った使用人に手をつけるなど、貴族家ではよくあること。一時の気の迷いだと、当時の伯爵も思っていた。
彼女も弁えていたようで伯爵とのことを吹聴もせず、幾等かの金子を給金に上乗せして伯爵は終わったつもりになっていた。
その後も特に何もなく日々が過ぎ、ある時、伯爵は彼女の姿が見えなくなったことに気がつく。
メイド長に尋ねてみれば、何でも実家に不幸があったとかで暇を出したらしい。
一夜とはいえ手をつけたメイドだ。それなりの物を持たせてやりたかった彼は、追加の金子を彼女の家に送る。
すると後日彼女の実家から返事が届き、娘は家出したと書かれていた。
思わず目を丸くする伯爵。
.....彼女が家出? なぜ?
あの時は分からなかった疑問。その答えを、今伯爵は得た。
悲しみの沼から抜け出せなかった自分を慰め、受け止めてくれた彼女。仮初めの情事と割り切り、後に何かを要求したりもしなかった彼女。その優しさに甘え切っていた自分。
半分..... いや、ほぼ全て私の責任だ。彼女を探して苦労のない生活をさせてやらなくては。
金に糸目をつけず探しまわった彼は、貧民窟で彼女を見つけた。
しかし彼女は伯爵の援助を断る。
『そのようなことが御子息らにバレようものなら、スゥフィスは殺されてしまいます。御主人様』
真摯な眼差しを向ける彼女の目を伯爵はまともに見つめられない。
貴族が庶子をどのように扱うかは、彼こそがよく知っていた。娘が殺されてしまうという彼女の言は、あながち間違いではない。
『あの夜は夢だったのです。御主人様。スゥフィスは私の子供。それだけです。.....まだ幼いあの子に少しだけお情けをいただければと、御手紙いたしました』
『.....ああ。任せろ』
伯爵が頻繁に貧民窟へ足を運べば、どこから嗅ぎ付けられるか分からない。代理をたてても同じこと。
貧民が、いきなり人並みな生活を始めるのも同様だ。妬み嫉みの混じった詮索を、しつこくされるだろう。
ゆえに伯爵は裏から手を回し、例の柄の悪い男どもにスゥフィス母子のことを頼んだのだ。
あからさまな事は出来ない。しかし、もし困窮しているようなら、それらしい理由をつけて手を差し伸べてやってくれと。
結果、スゥフィスはギリギリではあるが病気の母親と生活出来ていた。
『お母さんっ! 今日は薬が買えたのっ!』
満面の笑みで飛び込んでくる娘。それを柔らかく見つめて、母親は娘の後ろに伯爵の姿を重ねる。
.....ありがとうございます。
だが伯爵の細々とした支援も虚しく、ここから二年後、スゥフィスの母親は鬼籍となった。
彼女の未練が残らぬよう、伯爵はあらゆる伝を使い、駆け回り、国王陛下に頭まで下げ、庶子であるスゥフィスを正式な養女として迎えられるよう手を尽くす。
決して、この子を貴族の庶子の汚泥まみれにせぬために。
『.....間に合ったようだ。スゥフィスは私の娘として大事に育てるから安心しろ』
小さな墓石に抱きつき泣きじゃくるスゥフィス。それを抱き上げて、伯爵は彼女の墓石に誓った。
そんな裏事情を知らない娘と、忙し過ぎて領地から出られなかった父親の盛大なすれ違いと仁義なき戦いは、まだまだ続く。