人生の分岐点 ~それぞれの思惑~
『……社交界デビューですか?』
『そのようにあるな。アレも十三歳だ。伯爵家であれば、妥当なところか』
『……人前に出せる状態ではないと存じます』
室内に落ちる悲壮な空気。
しょっちゅうバーナードに暴力を振るわれているスゥフィスは常に満身創痍。見かけも痩せこけ、邸でこき使われているため手足もボロボロである。どう贔屓目に見たって、御令嬢の姿形ではない。
だが手紙には、父伯爵からエスコートを楽しみにしていると書き添えられていた。
万事休す。
しかしまだ二ヶ月ある。少しでもなんとかしようと、邸中が一丸発起してスゥフィスを磨き出したが、そうは問屋が卸さない。
『触るな、気持ち悪いっ!!』
全力でお手入れを拒否する少女と、それに狼狽える大人達の仁義なき戦いが火蓋を切った。
食事もまともに出されるようになり、部屋を変えられて湯浴みや手入れをされそうになるスゥフィス。
だがその全てを跳ね除け、彼女は屋根裏部屋に籠城した。しかもバーナードが彼女の行為を後押しする。
『なんで、あんな貧民に施しをするんですかっ! 兄上らは気が違ったんじゃないですかっ?』
すっかり落ち着いて、ふてぶてしい我が儘も言うようになったバーナードに目を潤ませるジョセフだが、それはそれ、これはこれだ。
幼い少女を生贄にして弟を慮る時間は終わった。今は現実を乗り切るために、スゥフィスを何とかしなくてはならない。このままでは父伯爵に王都の邸で行われてきた人非人な実情がバレてしまう。
こんこんと弟にソレを諭し、ジョセフや執事らは少女を屋根裏部屋から連れ出そうと必死になる。
『ちゃんと食べろっ! そんなに痩せ細っていては社交界デビューで笑われるだろうがっ!』
『湯浴みや手入れも受けてくださいませ。せっかく良い待遇になったのです、今が御令嬢に返り咲くチャンスでございましょう』
恫喝するジョセフ。その反面、甘く唆そうとする執事。だが、とうのスゥフィス本人が社交界デビューでの下剋上を企んでいるのだ。そんな甘言や物欲に踊らされるわけはない。
そしてバーナードも納得はしておらず、彼女を見かける度に暴力を振るっていた。
逃げ回り捕まらない少女に、増えていく青痣や傷。
実際は一日おきに訪れる先生によって、彼女の体調は丁寧に整えられているが、あえて外面の傷や青痣は残していたため、ジョセフらが阿鼻叫喚をあげた。
『頼むから世話をさせてくれぇーっ!』
ハンストを決め込み、邸中を逃げ回る少女。
採寸や手入れも出来なかった彼等は、目測を頼りにドレスやアクセサリーを揃えて社交界デビュー当日を迎えるはめになった。
『………後で話がある、ジョセフ』
『………はい』
訝しげな父伯爵と鎮痛な面持ちの嫡男様。
その眼の前に立つのは案山子のような少女。豪奢なドレスや装飾品を纏ってはいるが、その貧相さは一目瞭然。完全にサイズが合っていない。
さすがに社交界デビューには参加するべく、当日だけ素直にお手入れされたスゥフィスだが、付け焼き刃も極まれりなお手入れで今までの憔悴が取り戻せるはずもなく、彼女の目論見どおり事は進んだ。
脳内でガッツポーズする妹と、絶望に打ちひしがれる兄。そのどちらも知らないで娘をエスコートした伯爵は、その夜の悪夢を一生忘れない。ジョセフも。
もはや取り返しのつかない過去を思い出しつつ、ジョセフは憤る弟を眺めた。
「アレは伯爵家との決別を望んでいると聞く。これから食べていける程度の生活費をくれれば、金輪際、一切の関係は持たないと。私はそれで良いと思うのだが……」
父上は善しとすまいな。
健やかに育ち、幸せに暮らしているだろうと考えていた娘。それを蔑ろにされていたと知り、あまつさえ虐待すら行われていたことを聞いた伯爵は顔色を変えた。
失望と憎悪を同衾させた父伯爵の冷たい眼差し。ジョセフはあれも一生忘れはしまい。
ゆえに父伯爵はスゥフィスに執着している。何としても幸せにしてやろうと。自分の傍で笑っていて欲しいと。あの手この手で必死に彼女を説得していた。
ジョセフには、そこまでの気持ちはない。悪い事をしたとは思うが、弟と天秤にかけたなら見も知らぬ妹を切り捨てるだろう。やり方が不味かったのは理解している。それでも正直、スゥフィスよりバーナードの方がジョセフには可愛かった。
そんな他愛もないことを考えていた彼の耳に、地を這うような声が聞こえる。
「は……? あの貧民が、伯爵家に金を無心すると?」
無心というには細やか過ぎる金額だが、間違いではない。
「……仮にも父上の娘だ。生活を支援をするのは道理だろうね。面倒事と手を切れるなら、その方が楽だろうし」
悪夢の夜会を脳裏に過ぎらせ、ジョセフは深々と嘆息した。だがそれと反比例してバーナードが怒りに唸る。
「生かしてやっておいただけで御の字だろうに……っ! 所詮、貧民は貧民なのだな、烏滸がましい」
ぐつぐつと憎悪を煮え滾らせて悪態をつく弟をジョセフは心底疲れた顔で宥めた。
「まあ、終わったことだよ。これ以上の醜聞も困るしね。私の婚約も解消されかねない事態だ。……父上の御不興をこうむりもした。今は大人しくしていよう」
バーナードの近衛騎士着任も見送られそうなのだと、ジョセフは辛辣極まりない現実を弟に突きつけた。
「なぜですか? 生意気な貧民を躾けただけではないですか。それのどこに瑕疵が?」
本気で分からなさげなバーナード。
この国は奴隷もいるし、絶対の身分至上主義である。王侯貴族が無礼を働いた平民を殺したところで、誰も眉をひそめはしない。当たり前のことだから。ましてや貧民などモノの数にも入らない。
当然、平民出身で貧民育ちなスゥフィスを慮る者は誰もいなかった。これが貴族の血を引く庶子に与えられる極普通の待遇。
……ただ、ここで違ったのは、父伯爵が正式に我が子としてスゥフィスを引き取っていたことだ。
貴族名鑑にも載せられた正式な貴族令嬢。この事実を正しく理解するのに、ジョセフも時間を要した。まだ学生のバーナードには未だ理解出来まい。
選民思想の王侯貴族は、己の血を継いでいようとも庶子を子供と認めない。良くて使用人。悪くすれば奴隷のごとく扱う。子供の所有権は親にあるために。
平民の血が混ざった子供など恥でしかなく、穢れた汚点。そんなモノを我が子と思う貴族はいない。ゆえに伯爵家の者達もバーナードの虐待を黙認してきた。
それがここにきて覆る。まさか、父伯爵が本当にスゥフィスを我が子と認識して王都の邸に預けたとは誰も考えなかった。執事にしても、彼女に当たり障りない待遇を与えれば良いと思っていた。
まあ、当時病んでいたバーナードによって事態は思いもよらぬ大惨事に発展したが、それでも家の役に立つなら、穢れた庶子にとっても本望だろうと高をくくっていたのだ。
……まさかの事態だ。社交界デビューを仄めかす手紙が届かねば、たぶん今でも父上の本心は伝わらなかっただろう。
思わず頭を押さえる兄を余所に、バーナードは怒り心頭。スゥフィスをどうしてくれようかと不俱戴天の如き形相で考える。
それぞれが、それぞれの思惑に右往左往するなか、件の御仁は暢気に市場の戦利品を抱えて帰路についていた。
「お肉ですよ、お肉っ! 丸ごといっちゃいましょう、わたくし初めて食べますわっ!」
「それしきのことで…… たんとおあがりなさい。これからは美味しいモノをお腹一杯に」
あまりに不憫な教え子の姿を見て、涙のちょちょ切れる先生。細やかな幸せを満喫する二人は知らない。
この先も伯爵がスゥフィスの親権を手放さないことを。自分の管理下に置き、あの手この手で寄り添おうとすることも。
そして、社交界デビューしてしまったがため、正式な伯爵令嬢であるスゥフィスは貴族学院に通わなくてはならなくなったことにも。
下剋上ばかりを夢見ていた少女は、その先に待ち受ける貴族の責務にまで思いいたらなかったのだ。
そして生粋の貴族である先生も、彼女がそれに思い至らないでいることを理解していなかった。
後日判明した二人の齟齬。
それに顔面蒼白で叫ぶ己の未来を、今のスゥフィスは知らない。