人生の分岐点 ~腹黒教師~
「屋根裏部屋を訪ねたら、こちらに移動したと聞きまして。下剋上はなったようですね、スゥフィス様」
喜色満面の笑みでスゥフィスが飛びついたのは彼女の家庭教師。この人でなしな邸の中で、唯一スゥフィスを人間として扱ってくれた御仁である。
幼く、泣くしか出来なかった少女を励まし、食べ物を差し入れしつつ、あらゆる学びを叩き込んでくれた人だった。スゥフィスが唯一信頼する人間でもある。
無邪気に笑う娘を愕然と眺める伯爵の視界の中で、二人は仲睦まじく談笑していた。
「噂は聞いております。その様子なら大丈夫そうですね。はい、御祝いです」
実際は広間に同席していたのだが、スゥフィスの気が散らぬよう黙って見守っていた先生。彼女の目論見が成功したのを祝いに、朝一で駆けつけたのである。
「ありがとうございますっ!」
教師が渡した箱の中には小ぶりなパイと書物が入っていた。その本に書かれた題名は時短クッキング。
「これからは自炊をなさるのでしょう? 私が教えてさしあげられます。ものはついでです。市場も案内しましょうか?」
「あ〜、まだ生活費の目処がたっておりませんの。金子の持ち合わせがないのです。だから今日も森の恵みを頂いてきましたわ」
森の恵み。これの採取方法を教えてくれたのも先生だった。あまりに悲惨な彼女の境遇を心配し、いざとなったら逃げ出せるよう、御令嬢に必要のないサバイバル術を植え付けた元凶である。
本人が素材採取に駆け回る山男なので、そういったアレコレは御手の物。スゥフィスの採取に付き添い、食べられる植物や危険な毒性の植物など、事細かに指導してきた。
ついでとばかりに薬草などの素材関係もレクチャーしたのは御愛嬌。
彼女は覚えも良く、利発で優秀な生徒だった。
昨日の夜会も胸の空く思いで鑑賞していたし、あざと可愛い猫を被る彼女の晴れ舞台に大満足している。
「生活費の目処が? 伯爵様は娘に銅貨一枚もくださらないのですか?」
憮然と二人を見つめていた伯爵は、突然話題の渦中に放り込まれ慌てた。
「いやっ、生活費など……っ! 我が家にいるのに、なぜ市場へ? 足りない物があれば、何でも用意するのにっ!」
「「………………」」
わちゃわちゃする伯爵を前に、呆れ顔な二人。あれだけ説明しても理解してくれないらしい。
「用意されたことないんですけどねぇ……… 生活環境どころが食事すら」
「見た覚えもないですねぇ。屋根裏部屋には薄い毛布一枚でしたし、スゥフィス様が栄養失調にならぬよう、私が食べ物を運んでいたくらいですし」
うっと喉を詰まらせる伯爵。だが彼は果敢にも話を続けた。
「これからは……」
しかしスゥフィスと先生は、父伯爵に皆まで言わせない。
「「これまでが全てです」」
見事に同調する異口同音。
ぴしゃりと言い放った二人は、それぞれが思うところを口にする。
「これまでの五年間、わたくしは満足に食べたこともなく、いつもひもじい思いをしていました。先生の差し入れや森の恵みがなくば、とうに倒れて床に伏していたでしょう。この贅沢な邸の中で餓死しかねなかったのです。それがこれまで伯爵様に与えられた全てです。わたくし、この家を欠片も信用しておりません。虫酸が走るほど嫌いです」
「スゥフィス様はいつも満身創痍でした。骨折しても放っておかれ、私が癒やしを与えておらずば死んでいてもおかしくない状況。週三日の授業でしか訪れられない我が身がどれだけ口惜しかったか。当主たる伯爵様が御存知ないとは思いもせず。しかし加害者が同居しているこの状況であれば、私もスゥフィス様の考えに同意いたします」
暗に『信じられるわけないだろ、ぼけっ!』と二人に言われ、伯爵は返す言葉もない。
「どなたか存ぜぬが、これは伯爵家の問題でございます。余計な口出しはなさらないでください」
歯に衣を着せぬ二人の言い分に憤り、一人の騎士が声を荒らげた。しかし、そんなものに怯むスゥフィスではない。彼女を教育してきた先生も同様。
噴き出す寸前の活火山に燃料を注いだとも知らず、居丈高に宣う騎士を先生は楽しげに見つめた。
「ああ、申し遅れました。私、スゥフィス様の教育を担当するベンガルといいいます。さすが伯爵家の騎士ですね。厚顔無恥も極まれり、我が生徒を蔑ろにして踏みつけてきただけのことはある」
ベンガル……?
聞き覚えのある名前を耳にして、伯爵は訝しげに眼を眇める。虎を意味する珍しい名前。これと同じ名を持つ者は一人しかいない。
そこまで伯爵が考えた時、スゥフィスも呆れ全開な顔で騎士を指さした。
「あ〜、思い出したわ。この騎士、わたくしが弓矢の的にされている時、バーナード様を手解きしていた方です。おかげで見事に足首を打ち抜かれ、わたくし一週間ほど寝込みましたわ」
「あの時のっ?! ……取り敢えず返礼はしておきましょうか」
先生の炯眼が悪戯げに細く弧を描く。その両手に何かが浮かんだ。訝しげな騎士らに放たれた何かは、件の騎士の両足首を貫いた。
どしゅっという鈍い音と飛び散った血花。一瞬のことで、誰にも何が起きたのか分からなかった。
「う…がっ? があああっっ!?」
騎士の足首を貫いたのは直径ニセンチほどの氷柱。地面にずっぷりと突き刺さったソレに、周りの人々が顔を凍りつかせる。
まさか、本人かっ?!
一人、伯爵のみが別の意味でベンガルを凍った顔で見つめていた。
「魔術師……? 貴様、何をっ!」
慌てつつも眼をギラつかせて剣を引き抜こうとする仲間の騎士達。だがそれを、伯爵の上げた右手が押し止める。
「スゥフィスの足首をバーナードが矢で射抜いただと? どういうことか?」
昏い双眸に冷たい光を一閃させ、伯爵は騎士達を睨めつける。ようやく騎士らも気づいた。不味いことを暴露されたことに。
「まあ良い。詳しいことは後で聞く。ここでスゥフィスに説明してもらうから、さっさとその馬鹿を医師に見せてこい。お前らのかなう相手ではない」
おや? バレましたか?
そんな雰囲気を醸してほくそ笑むベンガル。
極寒のブリザードを背後に背負う伯爵の気迫におされ、騎士らは両足首を砕かれた仲間を背負い、脱兎のごとく逃げ出していった。
それを忌々しそうに見送って、伯爵はあらためて娘に頭を下げる。
「……知らなかったは言い訳にもならん。だが、本当にすまなかった」
「そう思うんなら、取り敢えず行動で誠意を見せてくれませんか? わたくしが望むのは、この家との決別と穏やかな暮らしです。食べるに困らない程度で良いので、生活費をください」
何の感銘もなく、しれっと言い切るスゥフィス。それを先生も後押しする。
「なんなら私預りにしても宜しいですよ? 娘御の一人暮らしは心配でしょうし、幸い我が家は名のある家門。行儀見習いという名目で御令嬢を預かるのも吝かではありません」
にっこり微笑む先生。薄く弧を描く目の奥に煌めく炯眼は、視界に入れるも煩わしそうな酷薄な光を宿していた。
まるで羽虫のごとく先生に見据えられ、伯爵は神経が梳られる。ざりざりと容赦なく伯爵の罪悪感を鷲掴む二人の眼差し。
先生と呼ばれる眼の前の男性を伯爵は知っていた。現宰相たる公爵の息子。王都でも名高い魔術師。彼がその気になれば、スゥフィスを伯爵家から取り上げて拐うなど造作もない。むしろ、なぜにそうしなかったのか疑問なくらいだった。
ちなみに、その答えはスゥフィスが望まなかったから。
助力を申し出た先生を見上げて幼い少女は誓った。
絶対に伯爵家を許さないと。必ずや復讐してみせると。それをするには、社交界デビューまで伯爵家に居座る必要があると。
迸る憎悪を宿らせて怒りに烟るスゥフィスの瞳を見て、先生は協力を約束した。彼女が死なない程度の支援と、貴族として恥ずかしくない一流の教育を。
五年に亘る二人の努力は身を結び、昨日、スゥフィスの復讐は果たされた。
後は野となれ山となれ。
伯爵家兄弟の未来を潰し、伯爵家使用人らの将来を木っ端微塵に砕き、スゥフィスは大満足である。この先、スゥフィスが幸せになれば、伯爵家の者らは勝手に不幸になってくれるだろう。
うふふ、あははと笑う御両人。
それを絶望的な顔で見つめて、断崖絶壁を凌駕するほど隔てられた娘との距離を心底後悔する伯爵である。