人生の分岐点 ~兄達の懊悩~
「なんで俺達が悪いんだよっ! あんな貧民、どうなろうと構わないじゃないかっ!!」
激情も顕に叫ぶ弟をうんざりとした面持ちで見つめ、ジョセフは父伯爵の言葉を脳裏に描いた。
『……お前には失望したよ。幼い妹一人も守れないとは。領民を預けるに価せんな』
暗に後継者の座が遠のいたのを覚り、彼は深く項垂れる。この邸にスゥフィスがやってきた時、彼女はまだ八歳の子供だった。
ボロボロで痩せこけ、まるで野良猫のように睨みつけてくる少女を、正直ジョセフは可愛いと思えなかった。
しかもその頃は弟のバーナードが産みの母親の死因を知り、自分のせいで母が死んだのだと酷く思い悩んでいたため、邸中がピリピリした空気に満たされていたのだ。
『お前達の妹だ。これの母親が長患いで亡くなったため引き取った。伯爵領より王都の方が賑やかで楽しかろう。よろしく頼むぞ?』
そう言い残して領地に帰っていく父親の馬車を見送りつつ、ジョセフはどうしたものかと執事に相談する。
実直真面目に仕えきた執事は、普通に暮らさせれば良いとジョセフに提案してくれた。
『過不足ない部屋を与えて教師をつけ、専任のメイドに世話を任せると良いでしょう』
至極真っ当な意見に頷き、そのようにしようとしたジョセフだが、その矢先、晩餐の席でバーナードが爆発した。
スゥフィスに出された皿を叩き落として彼女を椅子の椅子を力任せに蹴り倒す。
『貧民がテーブルにつくなんて烏滸がましいっ! 母上から父上を奪った泥棒猫の子がっ!!』
そう怒鳴りつけながら、バーナードは椅子から転げ落ちた少女の髪を鷲掴んで振り回した。さすがに見ておられず仲裁に入ったジョセフと執事。
だが彼等はそこであり得ないモノを見る。
憤怒に彩られたバーナードの瞳に浮かぶ穏やかな満足感。これまで母親の死因が自分なのだと思い込んで、昏く淀んでいた弟の眼に生気が戻っていた。
誰が話しても耳を貸さず、ただ部屋の隅にうずくまって啜り泣いていた弟。やんちゃだった横暴さも鳴りをひそめ、まるで屍のように虚ろだったバーナードが見違えるほど生き生きとしていた。
唖然とするジョセフ達の足元で、つと声が聞こえる。引っ張られ髪を押さえたスゥフィスだ。
『……お父さんが』
涙目で口を開いた少女をギンっと睨みつけ、バーナードは床に叩きつけるよう彼女の頭を上から踏みつける。
『誰が父だっ! お前のような貧民に父などいないっ! 我が父上のことは伯爵様と呼べ! 良いなっ!』
ふーっ、ふーっと息を荒らげて叫ぶ少年。
ここから、スゥフィスの全てはバーナードの命令どおりにされた。
部屋は屋根裏部屋。服は着古しの使い回し。食事も使用人らの食べ残しのみ。部屋から出ることは禁じ、その部屋に鍵をかけ、バーナードの気まぐれで折檻されるスゥフィス。
『お前の母親のせいで……っ! 父上を奪われた母上は亡くなったのだっ! お前のせいだっ! 死んで詫びろっ!!』
悪夢の境を彷徨っていたバーナードは、突然湧いて出た妹を不義の証と認定し、己の精神を落ち着ける。
コイツとコイツの母親が悪い。父伯爵を誑し込み、淫らな遊興に耽った泥棒猫達。全てはコイツらのせいだ。
そのように脳内変換したバーナードは、本気で、そう思い込む。そして、その憎悪の全てをスゥフィスに向けた。
最初は同情の眼差しで見る者もいたが、人とは慣れる生き物だ。異常な環境でも、一年たち、二年たち、それが日常化するのもよくある話。
貧民、貧民と呼ぶバーナードの刷り込みで、周囲の者らもスゥフィスをそのように思い込む。それが最善だからだ。下手に意識を持っていかれれば、良心の呵責に責め苛まれるため、あえて誰も考えないようにしていた。
ジョセフや執事とて同様である。
失意のドン底で藻掻き苦しんでいた弟。それがみるみる元気になったのだ。ぽっと出の妹を名乗る貧民と比べるべくもない。
アレを虐げることでバーナードが楽しそうに暮らせるなら、それで良い。
その時は、そう思っていた。
当時、ジョセフはまだ十四歳。深く考えもせずに煩わしいことから目を背ける。
それが長く続くと、人間の神経は麻痺していくものだ。
バーナードがスゥフィスを殴る蹴るしていても何も感じない。少女が邸でこき使われいても当たり前に思う。苦しむ彼女を見て、鬱陶しいとさえ考えた。
『死なせない程度にしておけよ? 新年には父上がこられるからな』
『分かってるって』
長い紐で繋いだスゥフィスを、つがえた矢で狙うバーナード。その矢先に掠められ、少女の全身には血が滲んでいた。
『動けよ、練習にならないじゃないかっ!』
うずくまって動かない少女を、ガスガスと蹴りまくる弟の姿を微笑ましく見ていた当時のジョセフ。
今思えば何ということをしてしまったのか。
自分が楽になるために幼い子供を見殺しにした。邸中がグルになって、一人の少女を体の良い生贄にした。
過去に仕出かした罪をようやく自覚し、ジョセフは全身が粟立つのを止められない。貴族云々どころが、人間として有り得ないことをした。
力ない幼子を寄ってたかって迫害する。家畜にも劣るような環境で何年も。
罪悪感に意識を持っていかれたジョセフは、案の定、良心の呵責に押しつぶされた。これは邸中の人間が同じである。異常な環境に慣れ親しんでいた者らを、一気に現実へ引き戻したスゥフィスの社交界デビュー。
今更、後の祭りだというのを彼が実感するのは、それから暫く経った頃。
「食事? 馬鹿をおっしゃいっ! アンタ達の作るモンなんか食べられるわけないでしょうっ! メイドとかもいらないわ、触らないでちょうだい、気持ち悪いっ!」
新年パーティー翌日、食事のワゴンを運んできたメイドや料理人をスゥフィスは追い返した。
そして地味めなローブをはおり、のこのこと邸内の森へ歩いてゆく。その腕には籐で編まれた手提げ籠。
「どこへゆかれるのですか?」
「……………」
小屋の周辺を警備していた騎士が疑問げにスゥフィスへ声をかけた。彼女は無言の一瞥を投げ、騎士を無視して歩いてゆく。
迷いのない歩調のスゥフィスを訝り、騎士はその腕を捕えた。
「勝手に出かけられては困りますっ! 伯爵様から警護を申しつかっておりますゆえ……」
騎士に腕を掴まれたスゥフィスは、力任せにそれを振り払う。その彼女の顔は、まるで汚い物でも見るかのようにひきつっていた。
「触るな、気持ち悪いっ!! どこへゆこうと、わたくしの勝手でしょっ! ただの貧民に何が警護よっ! ばっかじゃないのっ?! 貴方達に暴力を振るわれたことはあっても、守ってもらったことなんか一度もないじゃないっ!! 傍に寄らないでっ!!」
燃えるような憎悪の眼差しで睨まれ、思わずたじろぐ騎士数人。それを唾棄するがごとき眼差しで見つめ、スゥフィスはズカズカと森の中へ消える。
気持ち悪いのよ、本当に。何が護衛なもんですか。きっと隙あらば、わたくしを嬲ろうという魂胆に違いないのだから。井戸が小屋の中にあって良かったわ。外にあったら何をされるか分かったものではないのもの。
鼻息も荒く森の中を進む少女。
幼くから常在戦場のような環境で育ってきた彼女の用心深さは筋金入りだった。
あまりの言われように唖然と硬直してしまった騎士らは彼女を見失う。そして慌てて伯爵邸に取って返し、報告を受けた伯爵が小屋に駆けつけた。
彼等が所在なげにウロウロしていた頃、ようようスゥフィスは森から帰ってくる。
雁首を並べた男どもを見て、一瞬、スゥフィスの眼が丸くなった。
「どこに行っていたんだ? 心配したぞ?」
「……いまさら? 毎日の日課ですわ。安全な食べ物を採りに森へ行っていましたの」
「……日課?」
スゥフィスの籠には森の食材。木の実や野草の若芽など生食可能なモノが中心に入っている。一日一回もらえる使用人らの食べ残しにも何か仕込まれることが多かったため、彼女は伯爵家の森が広いのを良いことに、色々採取する術を身につけてきた。
その説明を聞き、もはや返す言葉もない伯爵様。
まさか我が子が野生動物顔負けな食生活を送っていたなどと、彼は夢にも思わない。
「……これからは。……そんなことはさせないから。ちゃんとした食事を食べてくれ」
「信じません。人の善意には裏があります。伯爵様は、何をお望みでそのようなことを? 本当に何も入っていないと、どう証明なさいますの?」
疑心暗鬼に染まった娘は取りつく島さえ見せない。その警戒心全開な姿に、騎士はおろか伯爵も唖然とする。
だがそこで、背後からふと枯れ葉を踏む足音がし、仏頂面だったスゥフィスが足音の主に眼を輝かせた。
振り返った伯爵達の眼に映ったのは柔らかな物腰の青年。喜色満面で微笑む青年の登場で場の空気が一瞬和らぐが、これが新たな刺客なのだとは知らない伯爵家の者達。
「先生っ!」
然も嬉しげに飛び付いた教え子の頭を撫でて、青年は愉快そうな顔を伯爵らに向ける。
この二人に全力でぶった斬られるなどと、予想もしていない伯爵達だった。