人生の分岐点 ~明かされる罪~
「お前のせいで我が家の評価はガタ落ちだっ! どうしてくれるっ?!」
憤怒も顕に恫喝するバーナード。
「貴方がたが馬鹿をやった結果でしょう。それならそれで社交界デビューなぞさせずに屋根裏部屋に閉じ込めてはおけば良かったんですわ。この程度の意趣返しも想像しなかったんですか? 心底、馬鹿なんですね」
スゥフィスが引き取られた時、ジョセフは十四歳、バーナードは十二歳。父親の不義の証に怒りや憤りもあっただろう。だからといって、やって良いことと悪いことがある。今の状況は彼等の自業自得だ。
そう説明する妹に二の句のつげない兄達。憮然と妹を見る息子らに深い嘆息をし、伯爵も大きく項垂れた。
「その通りだな。こんな事になっているとは。お前らの育て方を間違えたかもしれん。小伯爵の話は流そう」
二十歳になったら小伯爵として婚約者と結婚する予定だったジョセフ。それも今回の事態でお流れになったようである。なにしろジョセフ本人にも、婚約者から間を置きたいという遠回しな拒絶が届いていた。
業腹な顔のバーナードを除き、伯爵とジョセフはこれまでの事を謝罪する。だがスゥフィスは、しれっとした顔で彼等の謝罪を無視した。
「そんなことより、これからのことです。わたくし、もうこの家には住みたくないので。悪いと思っているなら、新居と生活費を一括で貰えませんか? この先、暮らしに困らない程度で良いですから」
にまっと笑う娘に悪寒を感じ、伯爵は詳しく尋ねた。
スゥフィスいわく、何が入っているかも分からない食べ物を二度と食べたくない。毛布にくるまって暖炉の中で眠りたくない。夏場に茹だるような暑さの屋根裏部屋に閉じ込められたくない。人を突き飛ばして踏みつけるような使用人達と顔を合わせたくない。
聞けば聞くほど悲惨な彼女の状況。そのような事態が起きていたとは知りもせず、スゥフィスは元気にやっているというジョセフからの近況報告を鵜呑みにしていた己を、伯爵は殴り倒したい気持ちで一杯だ。
父伯爵が王都に戻るのは新年パーティーの時くらい。ここから伯爵領まで馬車で十日もかかる。往復や滞在期間を考えると、おいそれ領地を離れられない。
晩餐以外で娘と顔を合わせられないことをジョセフに問えば、スゥフィスが嫌がっているとの答えだったので無理強いもしなかった。
長く彼女母子らの存在を知らず放置してきてしまった形になっていた伯爵は、要らぬ罪悪感をスゥフィスに持っていた。それゆえ遠慮がちでいたが、それが仇となる。
通常の貴族家による庶子の扱いなど酷いものだ。直系の嫡出子以外は恥でしかない。血を分けた我が子と言う意識もなく、ただの所有物。ある意味、汚点にも等しい。
普通なら籍も入れずに邸に置くだけ。待遇としては、運が良ければ使用人、悪ければ奴隷。使い捨ての駒程度の認識である。
子供の所有権は親にあるため、どのように扱っても問題にならない。母親の身分に準じた待遇しかされない。それが嫡外子だ。
ただ、ここで違っていたのは、伯爵がスゥフィスを我が子として伯爵家の籍に入れていたこと。
母親が平民なので、形としては伯爵の養子にあたる。しかし養子は実子と同じ権利を持つため、スゥフィスは貴族名鑑にも名前の載る、伯爵家の正式な御令嬢だった。
それを伯爵の息子達は知らなかったのだ。彼らがこれを知ったのは、スゥフィスの社交界デビューの仕度は進んでいるかとの父伯爵の手紙を見てから。
ジョセフもまた青天の霹靂だったに違いない。
これは言葉足らずだった伯爵の悪手ともいえる。
そのため御互いの認識のズレており、邸内での暴挙が起きた。通常の倣いに照らし合わせたなら、やや行き過ぎた扱いではあったが、スゥフィスの兄達の与えた待遇は間違いでなかったのである。
だから家令や騎士達も兄弟に同調し、蛮行を黙認していた。邸が嫡男の管理下にあり、眼に余る行為も許される立場なことが禍する。
その結果、のっぴきならない事態に陥ったレガート伯爵家。
色々な意味で顔面蒼白な邸の者達を鼻白んだ顔で一瞥し、問題の渦中にある御令嬢は切り口良く自己主張を始める。
「当たり前ですけど別居したいです。庭裾に森番の小屋がありましたよね? 今日からあちらに移動します」
ズバズバ言い切る娘に思考がついていけなかった伯爵だが、森番の小屋という具体的な話が出て、ようやく我に返った。
「いや、待ちなさいっ! あんな粗末な小屋に娘を置くわけには……っ!」
「屋根裏は、アレより粗末ですが? 着替え数枚と毛布しか持っていないんですけど、わたくし」
ぐっと言葉に詰まる父伯爵。それを見かねた執事が、そっとお茶を差し出した。それを口にしながら、伯爵は、つと娘の眼が冷たくすがめられているのに気づく。
「……喉が乾いただろう? 飲まないのか」
「お茶には碌な思い出がないので。コレを飲まなくても命にかかわるわけじゃないし、何が入っているのか分からないようなモノを口には運べません」
「「は…?」」
伯爵と執事から発せられる異口同音。
執事は伯爵の息子らがやっていることは黙認していた。使用人が口を挟めることではないからだ。しかし、他の使用人らのやることには眼を光らせていた。なるべくスゥフィスに危害が加えられないように。
そんなのは氷山の一角でしかないが、それでも執事のおかげで、少しは虐待から逃れていたスゥフィス。
しかし、こういったモノはどんどんエスカレートしていく。小さいころは差し入れられるお茶を喜んで飲んでいたスゥフィスだが、お茶を飲む度に酷い嘔吐や下痢に襲われ、その身をもって学んだのだ。……人の善意には裏があると。
そのお茶には雑巾を絞った水が足されていた。しかもバーナードが山で取ってきたとかいう正体不明のキノコを煮出したりとかもしており、苦しむスゥフィスを眺めるための罠だったのである。
たまたま食堂の雑巾がけをしていたスゥフィスは、ゲラゲラ笑うバーナードの大きな声で事実を知った。
『バッカだよあなぁ、あの貧民っ! 意地汚いっていうか、雑巾水の匂いも分からないのかな』
『お茶など嗜んでおられませんから。ミルクや砂糖が入れば、分からなくなってしまうのでしょう』
あまりの言われように全身を怒りで総毛立たせながら、スゥフィスは誓ったのだ。必ず目にものを見せてやろうと。
その説明を聞いたバーナードは、過呼吸のように口をハクハクさせている。何か言いたげだが何も申せないようだ。スゥフィスにバレていたとも知らなかったのだろう。
「今夜は楽しかったですわぁ。ええ。今までの鬱憤を全てぶちまけてやりましたもの。……この家に貴方がたや使用人らがいる限り、わたくしは別の所に住みます。何を入れられるか分かったものじゃないし、いつ寝首をかかれるのかも知れない。そんな危険極まりない場所に居たいと思いますか? 伯爵様」
ギラリと眼をすがめる娘を見て、ようよう父伯爵も気がついた。彼女が今まで一度も自分を父と呼んだことがないことに。
まるで野生の獣のごとく警戒心剥き出しなスゥフィスに、頷くしかない父伯爵である。
「……どうしたら良いのか」
息子達を諌めることも出来ず、その虐待を見過ごしてしまった時点でアウトだ。何を言っても言い訳にしかならない。知らなかったは言い訳にもならない。
遠目に見える明かりを窓から見下ろしながら、レガート伯爵は深い溜め息をついた。あそこにスゥフィスがいる。全てを拒絶した自分の娘が。
一応、森番の小屋周辺に護衛を配してはあるが、それらが傍に寄るのもスゥフィスは拒絶した。
『護衛騎士? 虫酸が走ることを言わないでください。彼等は殴る蹴るされていた子供を、にやにや笑いながら眺めていたのですよ? 騎士とはこういう人達を言うのだなぁと、わたくしは学習しましたから。弱者を踏みつける人間など信用出来る訳ないじゃないですか、悍ましいっ!』
実体験込みの唾棄するような眼差しを受け、並んでいた騎士らの顔が凍りつく。伯爵家兄弟に疎まれている小汚い子供を彼等は御令嬢だと認識していなかった。
育ちも貧民だし、いずれどこぞの下級貴族へ嫁がせるか、好色な年寄の後妻にでもされるか。どっちにしろ真っ当な貴族令嬢として扱う必要はないと思っていたのだ。
まさか今になって、伯爵が彼女を娘として見ていたことを知るなどと思わかなった。この話もスゥフィスは夜会で声高に話してきたため、明日になればレガート伯爵家の騎士等のていたらくが社交界中に広まることだろう。
他の使用人らも同じだ。少女に行われてきた人非人的な虐待の数々。それらも知れ渡り、レガート家からお暇したとしても再就職先は見つかるまい。
邸中の誰もがやっていた。だからやってもいい。集団心理とは判を押したかのように愚かしく同じことをやるモノなのだ。
レガート伯爵家中の人間全員が、にっちもさっちもいかない状況に陥っている。
でもまあ、伯爵にしたら己の進退などどうでも良いこと。これまで通り堅実に領地経営をしていけば良い。今回のことで多少の軋轢は生じるだろうが、そんなことで屋台骨が揺らぐような生温い経営はしていない。
息子らはスゥフィスを伯爵の不義の象徴のように述べるが、伯爵がスゥフィスの母親と関係を持ったのは前妻が亡くなって一年もした頃。
バーナードの出産で身罷った妻。母親の顔も知らぬ次男は随分と産みの母を美化していて、それがスゥフィスに対する辛辣な憎悪へと変わったようだ。
ジョセフも似たようなモノ。多感なお年頃だった長男は、突然現れた妹を許容しきれなかったらしい。その上、やんちゃで感情の起伏が激しい弟が難しいことにもなっており、スゥフィスを生贄にすることで弟が大人しくなるのならと全てを黙認してきた。
実際、思う存分、スゥフィスを虐めて鬱憤をはらせるようになったバーナードは穏やかになり、ジョセフを困らせるようなことはしなくなったから。
バーナードが戯れに魔法や武術の試し打ちをし、逃げ惑うスゥフィスの悲鳴があがっても、誰も気にしない。彼女が怪我でもして苦しめば、その分、バーナードの機嫌が良くなることを伯爵家の人間達は知っていた。
貧民と伯爵家次男。邸に仕える者が、どちらを優先するかなど火を見るよりも明らかだった。
そしてまた、家族としての気持ちを育む前から起きた虐待は、その可能性すら排除する。伯爵を除いた邸の面々にスゥフィスを伯爵令嬢だと認識している者は皆無だ。
誰もが、取るに足らない貧民の小娘という気持ちしか抱いていない。それは今現在でも同じである。
領地経営に忙しく、ほとんど王都に来なかった伯爵は、そういった実情を知らなかった。歳の近い者同士の方が良かろうと、息子達が貴族学院に通うための別邸にスゥフィスも置いてしまったのだ。
領地よりも使用人や護衛騎士らが揃っている。安全安心、間違いは起きないだろうと。
初手で盛大に躓いた伯爵は、今更取り返しのつかない後悔に身を沈めた。