人生の分岐点 ~伝説の入学式~
「………………」
「……なんだ?」
それはこちらの台詞だと、スウフィスは心の中でだけ突っ込む。
ここは貴族学院。本日、講堂で行われる入学式のため、新入生以外は登校していない。
なのに、やってきた彼女を出迎えたのが、こともあろうかレガート伯爵家の次男、バーナードだったのだ。
思わず凝視しても致し方あるまいと、無言で目を据わらせ、スウフィスは彼の横を通り過ぎようとした。
……が、それを阻むかのようにバーナードが彼女の二の腕を掴んだ。
「挨拶もないのか? これでも俺は最上級生だぞ? お前の先輩なんだぞ?」
「……だから?」
にやにやと見下す不躾な男の顔を下から睨め上げ、スウフィスは大仰に溜息をつく。如何にも呆れた風情の彼女を、周囲で見守る野次馬達。
興味八割のその視線に苛つきつつも、スウフィスはしれっとした口調でバーナードに吐き捨てた。
「貧民の小娘に、伯爵令息様が何の御用ですか?」
よく通る声でハッキリと口にされた言葉を耳にして、バーナードが微かに狼狽える。彼は、さっと周囲を見渡し、忌々しげに奥歯を噛み締めた。
「……お前。仮にも我が家の養女であろうがっ! 自らを貶めるような言葉を口にするでないわっ!」
うわあ…… どの口が言うのからしら。
眉を八の字にしてあからさまにウンザリ顔のスウフィス。
「左様ですか。貧民、貧民としか呼ばない方が目の前にいるので、それに傚いましたが。まあ何れにしろ伯爵家を出る身ですので。お前呼びで構いませんわ」
これまたハッキリと周囲にも聞こえる彼女の言葉。そこで初めてバーナードも自分のなおざりな呼び方に気がついた。
しかし気づいたところで、どう呼んだものか。
暫し逡巡する彼を血縁上の妹が睨みつけている。その眼差しがバーナードの神経をザラつかせた。
「生意気な……っ! 父上が認めようが、俺は認めんからなっ? お前が妹などとっ! 良いか? 学院で貴族と並んで偉そうに学べると思うなよっ?!」
……違う、こんなことを言いたいのではない。くそっ!
父親に叱責されても上の兄に諭されても腸の煮えくり返るバーナードは、スウフィスを許せなかった。
この貧民の母親が、バーナードの母親を辛い目に合わせたのだ。泥棒猫どもの不埒な誘惑に乗せられた父伯爵も情けないが、それ以上に憎たらしいスウフィス母娘。
貴族で繊細な母は、そんな境遇に耐えられなかったに違いない。それで儚くなってしまわれたのだ。
己の虚像を嘘で塗り固めたバーナードの妄想。
心の底から信じる妄想に煽られ、腹をすえかねていても、彼は貴族だ。体面と矜持を重んじる貴族だ。
父伯爵が娘と認める者を無下には出来ない。聞けば、王家も関与する養子縁組らしいし、これに意を唱えれば、バーナード自身の立場が危うくなる。
そのようにジョセフは弟を諭した。
事実、その通りであったし、何より、すでにレガート伯爵家の兄弟の評判は地を穿つ勢いで下がっている。これ以上の醜聞を蒔き散らすは愚の骨頂。
『だからね? 思うところはあろうが、スウフィスを認めてやりなさい。かかずらなくて良い。一応の和解を示して無関心を装うんだ。そなたとて貴族なのだから。出来るね?』
そんなことはしたくない。この手で縊り殺してやりたいくらいなのにと、バーナードの魂が慟哭する。だが、周りがそれを許してくれないのだ。
形だけだ。軽く許しを与えて…… まあ、学院に通うくらいは目溢しを……
とつとつと自分がやるべきことを脳裏に描きつつ、必死に落ち着ことするバーナード。しかし、その上をいくスウフィスが、彼の努力を無にすべく行動した。
「承知しております。わたくしは庶子ですから。このような学院に通うだけでも烏滸がましいのでしょう。即座に立ち去りますわ」
ペタンと座り込んで、彼女が深々頭を下げる。
平民に有りがちな土下座。高貴な貴族らには見慣れた光景だ。ここが貴族学院でなくば、誰も顔をしかめなかったことだろう。
一斉にザワリとどよめく周りの野次馬達。
「おま…っ! いや、そ……な…… う…っ、何をしているのだっ!!」
「……? 何をって。いつものことではないですか。今日は頭を踏みつけないのですか?」
きょんっと惚けた顔をするスウフィスを、信じられない面持ちで見つめる新入生ら。
それに狼狽え、バーナードがスウフィスを怒鳴りつける。
「そんなことをしたことはないっ! 嘘ばかりを吐くな!!」
「……はあ? ……左様で。まあ、そういうことにしておきましょうか。……いつもなら矢を射掛けたり、剣の試し斬りなど色々おやりになるのに。今日は機嫌が宜しいようで」
バーナードの顔が血の気を下げ、色を失った。
「そんなことは……やってないっ!」
衆人環視で暴露されるには不味いことの羅列。流石のバーナードにも、それを恥じ入る程度の羞恥心がある。
けれどスウフィスの滑らかな口は止まらず、形の良い薄い唇が優美な弧を描いた。
「またまた。全身に傷跡が残っておりますのに。ほら、これも」
貴族にしては短いセミロングの髪を掴み、彼女が引っ張る。するとその髪が、ズルリと地面に落ちた。
周りの婦女子から小さな悲鳴があがり、驚愕の面持ちで目の前の光景を凝視する。
地面に落ちたのはカツラ。スウフィスの髪はショートヘアで、ようよう襟足にかかる程度しかない。
「火炎魔法で焼かれた髪です。……火傷の跡も残っていますのよ? やっておられないと?」
「……っ!! 泥棒猫の娘がえらそうにっ!」
「……前々から気にはなっていたんですけど。泥棒猫って、わたくしの母のことですか? 母と伯爵様が関係を持ったのは前の奥様が亡くなって三年もたった頃と聞いております。どうやって既に亡くなっている奥様から伯爵様を奪ったと?」
何気に呟くスウフィス。その呟きを耳にして、バーナードが愕然と黙り込む。
……三年? いや母上が死んだのは、こいつらのせいで……? え……?
みしりと脳幹を軋ませる虚影。夢現の狭間で上書きした彼の虚像が崩れていく。肖像画でしか知らない母親。伝え聞きでしかない生前の思い出話。
そんなバーナードの変化にも気づかず、スウフィスは話を続ける。
「まあ、親の馴れ初めとか、どうでもいいですけど。こうして、わたくしが冷遇を受けたのは事実ですし? わたくしに対する気持ちは今も変わらないのでしょうしね。魔法で髪を焼くくらいに」
火炎魔法はレガート家の特色だ。戰場以外で人に向けて魔法を放つことは御法度とされている。それを妹にやっていたという事実。
瞠目した眼を大きく揺らし、バーナードは過呼吸に陥ったかのよう息を荒らげた。そして力無く首を振りながら、徐々に後退っていく。
「知らない…… 俺は……、俺はやってないっ!!」
「……左様で。分かりました、そういうことにしておきますか? はあ…… これだから御貴族は」
スウフィスの達観まじりな呟きを耳にした周りが、音をたてて眼を見開いた。
そんな奴と一括りにしてくれるなっ!
御貴族様と十把一絡げにされ、思わず狼狽える周囲の新入生達。
あわあわする周りの焦燥を余所に、カツラを元に戻したスウフィスは、しれっとバーナードを見上げる。その無感動な眼を見て、バーナードは背筋を凍らせた。
なんの感情もない瞳。どこまでも透き通るガラスのような瞳は、彼に心に虫けらのごとき気分を喚び起こした。相手にする価値もない男だと、その鋭利な瞳が雄弁に物語っている。
……泥棒猫の娘なくせにっ! なんて目で俺を?!
居た堪れなくなり、その場から足早に逃げ出すバーナード。それをぼんやりと見送って、スウフィスは立ち上がると踵を返した。
森番の小屋に戻るべく、貴族学院の門へと。
驚きに声も出せない新入生らが、無意識に彼女へと道を空ける。それにさしたる感慨もなく、スウフィスはぼんやりと考えていた。
思わぬ時間が出来たわね。学院に通わなくて良いなら、何か仕事でもやろうかしら。この年齢で地見屋も何だし、ギルドに登録して仕事を回してもらうか…… 元手もあるし、何か商売を始めても良いかもしれないわね。
明後日なことを真剣に思案するスウフィスの背中。それをじっとりと見つめて、言葉もなく立ち竦む新入生ら。
今日この日、伝説が生まれた。
某伯爵家の令息が、入学式に訪れた妹を土下座させたという汚名が。
それに付随する虐待の数々や、冷遇の噂が尾びれ背びれ、胸びれ腹びれまで付けて巷を泳ぎ回る。
長く学院に蔓延る噂は、この先、多くの貴族庶子達を救うことになるのだが、今のスウフィスやバーナードは、それを知らない。
後日、スウフィスの武勇伝を聞いたベンガルが、その場に居合わせたかったと大笑いするのも御愛嬌。
「あんな場所で……っ! 俺は、どうしたら?」
貴族学院裏庭まで逃げてきたバーナードは、悔しそうに顔を歪めた。
本来なら何の問題もない。家の汚点でもある庶子を冷遇するのは、貴族として正しい行動だった。なのに今になって…… アレを妹などと。
最初からそのように聞いていたなら、バーナードとてあそこまでやりはしなかった。なぜに、あんなことをしてしまったのか。
分かっている。母上を苦しめた女の子供だからだ。当時のバーナードにとって、許せない存在だったからだ。
しかし先程聞いたスウフィスの説明が、彼の心の中の虚影にヒビをいれる。
……三年も後。スウフィスとバーナードの歳の差は四つ。彼女の説明は信憑性があった。
さらには父伯爵から受けた叱責。スウフィスの母親とは一夜限りの過ち。それで彼女を身籠ってしまった母親は長く行方をくらましていて、見つけた後も伯爵家の援助を断ったと言う。
己を弁えていたのだなという感想しか持たなかったバーナードだが、父伯爵の言葉が正しいのであれば、スウフィスの母親はバーナードの母親から父伯爵を奪ったわけではない。
……俺の勘違い?
己の生み出した夢から現へと戻ってきたバーナードは、新たな夢を紡ぐ。
……自分は妹を可愛がっていたと。
一端の貴族である自分が、正式な養女となった妹を虐待などするはずがない。ああ、そうさ。俺はスウフィスを…… 可愛がっていたはずだ。
父伯爵からも頼まれたではないか。俺が父上の言葉に逆らうわけないんだ。
柔らかく温かな嘘で己の心を満たし、彼は受け入れ難い現実から目を背けた。
己の嘘を信じ込む精神的病を持つバーナードが、後のスウフィスに付きまとう愉快な未来を誰が予測出来ようか。
「スウフィスっ! 兄の言う事を聞けっ!」
「誰が兄か、誰がっ! 近寄るな、気持ち悪いっ! あと名前を呼ぶな、悍ましいっ!!」
掌を返した次男、に目を丸くするレガート伯爵とジョセフ。そして初志貫徹で、蛇蝎を見るがごとき眼差しをバーナードに向けつつ逃げるスウフィス。
がらりと様相の変わる伯爵家の愉快な未来を、今は誰も知らなかった。