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黄昏の囁き

作者: 偽性ミルク

 果たして、あの無慈悲な悪魔とは、普通の人生があり得たのだろうか。私にはわからない。それを詳細に記述すると笑い話になるような気がしてならない。しかし、悪魔は概ね悲しそうにしていたように思う。あの悪魔にだって、人間性はあったのだから。



 

 

 ユアと出会ったのは、僕たちが王立魔術学校中等部2年に通ってた頃、お互いが12歳だった時だ。課題のため向かった図書館に、彼女はいた。


「隣、いいかな?」


 周りが気にならなくなるほど勉強していたときに、彼女から話しかけられた。他に座るところもなかったのだろう。特に断る理由もないので快諾したのを覚えている。

 最初の印象は、長い黒髪が特徴的な、本の似合う女の子だ。別クラスで姿を見たことはあったが、当然話したことはなく、誰かと会話をしているところも見たことがなかった。


「試験の時期はどこかピリピリして嫌だねえ。図書館はもっと落ち着いた空間であるべきだ。アロマでも炊くと良い。そう思わないか?」


 教科書へ視線を向ける僕に、彼女の方から話しかけてきた。見た目の印象だけなら寡黙な少女だが、実は案外喋りたがりなのかもしれない、と思った。


「どうかな。僕は、試験前にはある程度の緊張感が必要なものだと思うけど。みんなリラックスしてたら、ここは昼寝会場になる」


「それでいいじゃないか。そこで起きていられる人だけが求められているのだから」


 これが僕たちの初めて交わした会話だった。

 その日は他に会話を交わすこともなかったと記憶している。お互い黙ってそれぞれの勉強を始めて、さて帰ろうかと顔を上げたら、いつのまにか彼女はいなくなってしまっていた。


 次の日も、ユアは同じ場所にいた。

 

 図書館で時間を重ねるごとに、僕は多くのことを知った。美しい字を書くこと。実は誕生日が全く同じだったこと。海の見える村で育ったこと。好きな本が同じこと。ユアの長く艶がある黒髪は、毎日時間をかけて手入れされていること。

 ユアの成績は非常に優秀だった。僕では全く及びもつかない。特に魔術において、彼女の右に出るものはいなかった。

 幼少から研鑽を積んできた、魔術の名家の子ですら彼女には敵わないというのだから、才能は相当なものだったのだろう。将来を渇望された平民生まれの天才少女。それがユアだった。

 ユアはどこか変わった少女だった。自己認識としてもそうだったのだろうと思う。感性が独特とでも表現すべきか、おそらくはそれが、天才的な魔術の才能と繋がるのだろうと思った。


「私に魔術を教わろうと考える人はいつもそうさ。わかりやすく言えと言うんだ。魔術には魔術の言葉がある。私にはそれがほんの少しわかるだけだが、頑張って教えようとしてもすぐに不満そうな顔をする」


 長い髪を揺らしながら、ユアは口をへの字に曲げながら拗ねていた。寡黙でクールな女の子だと思っていたが、かなり表情変化が豊からしい。


「確かに、貴族の人ってそういうところがあるね。普段は僕たち平民を避ける癖して、いざ教えを受ける段になっても上から目線だ」


「私が理解できないことを言うからと言って、全てが異常な側の人間だとでも思ってるのだろうか。普通でない自覚はあるが、感受性は普通なんだ。人並みに感情はあるし、人並みに傷つく。それが嫌になって、図書室へ行くようになったんだ」


「正直、ユアの言ってることは僕にもよくわからないことがあるけどね。君が言うならそうなんだろう、と思っているけど」


「ああ、我らが教師陣からは知的に誠実でないと言われるだろうが、私は君のその態度が嬉しいよ。案外、君みたいな凡人がこれからの魔術を切り拓くのかもな」


「僕が? まさか。成績を知っているでしょ? どんなに頑張っても、平均ちょっとが関の山だよ」


「いや。成績が理由なのではない。まぁ……覚えていてくれたら、それでいい」

 

 彼女は王国南の生まれだった。たまたま村へやってきた魔導士に魔術の才能を認められ、その人の薦めで入学してきたと聞いた。


「たまたま得意だっただけで、その実は家から追い出されたようなものだよ。魔術なんざ、本当は別に好きでもない」


 お互い本に視線を向けながら、彼女は興味もなさそうに呟いた。


「でももったいないよ、その才能。魔王国でもベルティア相手でも対抗できる。王が今一番欲しい才能だ。神が与えしギフトじゃないか」


「過大評価だ。それなりにいい成績を収めても、由緒正しき血統をもつ貴族の子たちには勝てない。この国ではそうなっているんだ」


 やれやれといった雰囲気を醸し出しながら、ユアはため息をついた。


「僕からしたら、ユアも彼らもそんなに差がないように見えるどころか、ユアが上回ってるようにすら見えるんだけどな」


「それは見える景色が違うだけだね。私はいつも、一生をかけたところで彼らには追いつけないという確信に苛まれているよ」


「……そうだね」


 ただでさえ、この学院で平民は生きづらい。仕方ないことなのだろう、とは思う。

 平均ちょっと上の成績の僕も、平民という括りで見れば相当優秀な部類に入る。何しろ最初の一年で平民階級の八割は学院を去る。学院に入学できる時点でそれなりに選ばれているはずなのだが。

 僕の場合は、たまたま、平民との関係もさほど気にしない有力者の子と仲良くなれたおかげなのだ。それでも最低でも今の成績はキープしないといけないし、良好な関係も維持しなくてはいけない。

 故に、何の後ろ盾もなくトップをひた走る彼女は、僕にとってとても魅力的に映るのだ。ヒーローのようにすら感じる。彼女が歩んできたものが、荊の道であろうとも。


 


 放課後、僕たちの時間は図書館から始まる。特待クラスの彼女は授業の終わりも早い。自己学習の割合が高くなるから、らしい。僕が図書館に着く頃には、たいてい彼女は二人分の席を確保してくれている。


「この図書館のいいところは、貴族が見向きもしない伝奇だったり物語もちゃんと更新されているところだ。『剣聖漂流記』の最新刊は読んだかい? 今回も実に面白かったぞ」


 普段より少しテンションが高くなっているユアから本を受け取る。受け取った瞬間、少し手のひらが触れた。柔らかく、冷たい手だった。


 心臓の鼓動が速くなる。


「もちろん。面白かったよ。剣聖ほどの剣の鬼となると、やっぱり頭を剣にしたいんだろうな。だから頭に剣を植え込む展開はさすが剣聖だと納得したね。作者が剣聖の弟子なあたり、多少の誇張は混じってるだろうけど、概ね真実の剣聖像だと思うし」


 僕がそう言うと、ユアは何やら考え始めるような仕草を見せた。


「どうだろうな。中央による剣聖の権威を高めたい目的も考えられる。我らがアルティアの剣聖はベルティアの剣聖より数段劣ると、貴族が悪口まじりにひそひそ話しているのを聞いたことがある。この剣聖の弟子は実在するらしいが、実際の剣聖のそれとは大きく異なる可能性はある。そもそも、いくら剣聖でも、頭に剣なんて植えるか?」


「剣聖が頭に剣を植えるかはわからないけど、仮に違ったとして、面白ければなんでもいいじゃんと思っちゃうけどね」


 僕がそう言うと、ユアは少し驚いたような表情を見せたが、すぐに目を細めてくすくすと笑う。

 

「時たま、君のそういう大雑把な思考が羨ましくなるな。細かいところを見ないというか。私は細かいことが気になって仕方がないことがある。止まれないんだ」


「ユアの頭の中は、僕では想像もつかないからいつも新鮮だよ。たぶん、そういうところがユアの頭の良さに繋がるんだろうし。素直に羨ましいと思うけど、きっと大変なんだろうな」


「ああそうだ。あまり、幸せにはなれない考え方をしてるんだろう。自分でもそう思うことがある」


 自嘲混じりに話すユアは、その奔放な雰囲気も合わさってどこか妖艶な魅力を放っていた。そうかもしれないね、と返事をした後、本の話題で盛り上がった。




 卒業まで残すは一年と少々。僕たちはこの日十五歳になった。

 学院に入って六年が近付くと、卒業がそろそろ意識され始めてくる。僕たちが一緒の学院にいられるのも、あと一年少ししかない。進路のためにしなくてはならないことを入れると、時間は思ったよりも残っていないのだろう。

 

「誕生日おめでとう、ユア」


「お互いにな」


 誕生日も、お互いに生まれた日を祝福し、プレゼントを贈り合うのみだ。高位の貴族なら学院の会場を借りて大々的なパーティを催しているが、平民がそんなことをやれるはずもない。そもそも目立つことは許されない。二人だけで誕生日を祝い合う。出会ってから毎年続いていることだ。


「ユアに似合うと思って作ってみたんだ」


 僕がプレゼントとして贈ったのは香水だった。ユアの髪はいつ見ても美しい。丁寧に日々手入れをしているのが伝わってくる。ここに好きな香りが追加されたらどれほどのものになるのだろう。そんな考えのもと、作り方を学び、薬草学の研究室にまで足を運んで作ったものだった。


「……君は無意識でそういうことをやってるのかい?」


 香りをかいだユアから、予想に反し少し不満げな答えが返ってきた。おかしい。必ず喜ぶ自信があったのだが。


「無意識というのがよくわからないけど」


「私じゃなければ君はこの学院にいられなくなってたかもしれないぞ、全く……」


「よくわからないけど、受け取ってくれるんだね?」


「ああ。どうしても私にこの香りを付けて欲しいようだからな。ありがたく受け取ろう」


 最終的には喜んでいるのだろう、と判断した。なんだかんだ言ってユアは素直だ。まっすぐなプレゼントを贈れば受け取ってもらえる。


「次は私からのプレゼントだな。受け取ってくれ」


 ユアから差し出されたのは、シンプルなデザインの箱だった。開けてまず、言葉を失った。


「す、すごい……」


「私の故郷で採掘されたパールで作ったネックレスだ。似合うんじゃないか?」


 見事なまでに洗練されたペンダントの付いた、輝くネックレスがそこにはあった。ペンダントには学院の紋章としても採用されている、凛々しいドラゴンの頭部が再現されている。


「……この細かいデザイン、君が作ったのか?」


「そうだ、削る作業は骨が折れたぞ。いくら私が魔術の天才とはいえ、ミリ単位での調整はやったことがなかった。流石に骨だった」


「どれだけの価値があるんだこれは、香水を渡した僕が恥ずかしくなってきたぞ」


「おお、これは驚いた。君がこっち方面でも恥の概念を持っていたとは」


 ユアがニヤニヤしているのが目に入る。悔しいが、ネックレスが素晴らしすぎて何も言うことができない。一目見ただけで途方もない時間をかけて作られたことがわかるからだ。


「ありがとう、ユア。一生大事にする」


「そうしてくれると嬉しい。代わりと言ってはなんだが、定期的にこの香水を作ってくれ。私もこの香りは、好きなんだ」


 そりゃ、君と僕の好みに合わせて作ったからな、の言葉は、恥ずかしくて出なかった。



 魔術学校中等部では、五年の卒業時、容赦無く選別が行われる。王に選ばれ、さらなる研鑽を積むか。選ばれず、他の道を歩むか。

 僕は就職活動を行なった。平均少し上の成績程度、王に選ばれる見込みなど、あるはずもない。

 ユアは魔術大学に進学するだろう。疑う余地もないことだった。


「次の時代は無詠唱魔術さ。理論さえ確立できれば、いくらでも応用が効くだろう。そこで君には実験体になってもらいたい」


 魔術研究棟に呼ばれた僕を待ってたのは、初めて出会ったころよりもかなり女性らしくなったユアだった。特徴的な黒髪は更に艶を増し、昔よりも魅惑的な笑みが増えた。……そんな気がする。


「僕に選択肢はないんですかね」


「君はもう卒業後に魔道具開発局の職があるだろう。この時期にもう内定を得ているとは、優秀なことだ。私に相談もなく終わっているというのも憎たらしい。就職活動がすぐに終わって何よりだが、私はそうはいかない。人手が必要だ。こんな時に気軽に呼び出せる都合のいい存在など君しか知らない」


 香りのする美しい髪を舞わせながら得意げに語る彼女に、僕は大袈裟に身を震わせてみせる。


「僕は都合の良いモルモットということです、か」


「モルモットではすでに実験済みだ。数時間気絶ののち元気に歩き回った。さきほど君が餌を与えそれをモリモリ食べていたのが彼だ」


「え、あの元気に走り回ってたのそうだったの……。というか、うまくいっても僕は気絶するんでしょ? モルモットでは無事でも、人間でも無事とは……」


「頼む。私には君しかいないんだ。必ず成功させる。どうか協力してほしい」


 最近のユアは、僕に頼み事をするときには頭を下げるようになった。出会った頃はもっと顎で使われる感じだったはずなのだが。


「……本当に安全だけは頼むよ? マジで」


「そんなに心配なら論文を読んでくれ」


 ユアの理論はシンプルだった。無詠唱魔術の発生条件と発動方法の二つ。これらを長々と書いてある論文を読んでも、内容はさっぱりわからなかったが。僕とユアの認識している魔力というものは全く別のものではないのかとすら思う。


「いつ見ても美しい字だね。こんなに美しいのに全く何を書いてるかわからないのが悔やまれるよ。でもまあ、君のことだし安全には気を遣ってくれてると信じよう」


「それは了承したということでいいな? ならさっそく発動してみよう。これでうまくいくはず……」


「うん、こっちはいつでも大丈夫……?」


 次の瞬間、腹のあたりに鈍い衝撃が来た。目の前にいるはずのユアの姿がぼやけていく。頭に血が足りていない。全身の力が抜けていく。重心を保てなくなる。後ろに倒れていく。


「やった! やった! 成功だ!」


 意識を失う寸前になっても、聴覚はこんなにもはっきりと作用するんだなと、ユアの心から嬉しそうな声を聞きながら柔らかいベッドに倒れた。





「……おはよう」


「あ、起きた」


 目が覚めたら、夕焼けが差し込んでいた。

 夕焼けの日をバックに、ユアの顔が映し出される。


 とても眩しい。


「身体は動くか? ここがどこで私は誰かわかるか? ……よし、実験は成功だ。あとは何回か繰り返して、データを取れば問題ない」


「だろうな。最高の気分だ。あと何回この気分を味わうことになるかと思うと、君が天使に見えてくるよ」


「君の褒め口上もなかなか様になってきたじゃないか。そこまで言ってくれるなら、早速やってみようか。連続使用のデータも取ってみたい」


「あの、マジで死ぬ気がするんで、やめてください」


 魔術の後遺症なのか、頭の中がガンガンしている。血液が少し前まで沸騰していたかのようだ。思考能力が数段落ちている感覚がある。頭を抑え、少しでも暴れ出そうとするのを抑える。


「ふむ。君の直感は信頼できるからな。しょうがない。……ところで、一つ、話があるんだが」


 こちらを眺めるユアは、不思議な表情をしていた。こんな表情は見たことがない。無表情なのか、動揺しているのか、困惑しているのか。痛む頭で言葉を考える前に、ユアは僕の耳に口を近づけ、ゆっくりと囁いた。


「私と一緒にさ、大学に行かない?」


 思わず、耳元にあるユアの顔をじっと見る。彼女は今まであまり浮かべたことのないような、笑顔なのか誤魔化しているのか、よくわからない表情をしていた。ユアの半分は夕焼けに輝いていた。それがまた表情をわかりづらくしていた。


 再び、彼女は僕の耳元に口を近づけ、先ほどよりもさらに小さな声で囁いた。


「お願い。君にとって辛い道のりなのは解ってる。君が、良かったらなんだけど、ね。私も精一杯サポートする。それだけは約束しよう。ね、だから、お願い……」


 最後の部分は、もう消え入りそうな声だった。ユアの感情が伝わってくる。甘い。頭の中が沸騰しそうだ。


 大学……。僕に行くことはできるのか。ガンガンとする頭で、僕の成績を考える。平均ちょっと上だ。タイムリミットは一年ないぐらい。いけるのだろうか。五年間、僕も遊んできたわけではない。生き残るために、必死に食らいついてこれだった。

 ユアのサポートがあって……? とても魅力的なことだろう。でも結果はどうなる? 自分自身に大学に受かるだけの才覚はあるか? 何故ユアは突然こんなことを? ……。一つだけ確実なことならある。仮にユアの献身的なサポートがあっても、僕に大学は無理だ。王に選ばれることはできない。回らない頭でも、それだけは断言できた。


 僕から視線を逸らしていたユアに、せいいっぱいの笑顔を作って答えた。


「僕の成績じゃ、今から頑張ってもとても無理だよ。ユアもよく知ってるでしょ?」


「そっか……そうだよね」


 その時ユアの笑顔は忘れないだろう。あまりにも場違いだったからよく覚えている。とびきりの笑顔。今まで見たことないぐらいの、とびきりの笑顔。夕焼けに光るユアに見惚れていたからか、あるいは機能の落ちていた脳の処理能力を超えたからか、彼女が小さく発した言葉を聞き取れなかった。


「──。」


「え、何か言った?」


「ううん、何でもないよ」


 気付けば、ユアの表情はいつも通りに戻っていた。柔らかな微笑を浮かべていた。


「数時間後、君の体調が戻ったらもう一度無詠唱魔術を使用する。いいね?」


 ユアは悪戯小僧のような笑い声をあげていた。



 

 卒業の日を迎えた。


 ユアはトップの成績で大学に進学した。平民での魔術大学進学は十数年ぶりのことらしい。学院の歴史でも数えられるほどしかいない。それがトップともなればどれほどのことだろう。


「ユアはさすがだな。おめでとう」


「お互いにね。あの学院で大ヒットした『黄昏の囁き』の香水の開発者にして、魔道具開発局唯一の平民である君の今後の活躍も楽しみにしてるよ」


「ハードルが高すぎるんだよね。せめて数年は待ってくれよ」


「数年でいける自信があるのかい? これは私も負けていられないな」


「いや、絶対ユアが大学で名声を獲得するからだよ……」


 離別の瞬間まで、僕たちはとてもあっさりしていた。お互いに、また会えるという確信があったのだろうと思う。僕たちは見えない絆のようなもので結ばれていて、お互いに気持ちは伝わっている。きっとそうなのだ。


 卒業後は、互いに連絡を取り合うことなく、それぞれの時間を過ごしていた。僕は定期的な文通でもと提案していたのだが、ユアの方から断られた。

 

「次会う時に、積もる話をしたほうが絶対に楽しいと思うからさ。頼むぞ? 私をあっと驚かせるようなことをしてくれよ?」


 引っ越しのための馬車に乗る僕に向けた、ユアの言葉だ。

 絶対の再会を誓って、僕たちは五年間を過ごした学園を後にした。

 別れ間際、ユアは何か言いたそうな表情をしていたような、そんな気がした。そのまま、僕は馬車に乗り込んだ。



 卒業から四年が過ぎた。僕は二十歳になった。二十歳になったからといって、特に何かが変わったわけではない。

 魔道具開発局の仕事は順調だ。たまたま選んだ仕事だったが、相当僕には向いてる仕事だったらしい。ダンジョンで発見された、未知の機構で動く魔道具の解析、再現。新しい魔道具の開発。敵対国が使用する魔道具の解明とその対策。それが僕の今の仕事だった。どういう原理で動いてるのかすらもわからないアイテムとにらめっこし、試行錯誤を繰り返すのは性に合っていた。


 ユアとは卒業後会っていない。そもそも、ユアなら何をせずとも成果を挙げ、耳に入ってくると確信していたからだ。四年経って音沙汰がない今も、まだその情報が魔王国に近い辺境には来ていないだけだと、そう思っていた。

 そもそも、ユアは魅力的な女性なのだから、恋人ができたのかもしれない。前提として僕たちは恋人関係などではないのだから、別にそうなっても咎めるものは何もない。仮に恋人ができていたとしたら、邪魔するわけにもいかないだろう。


 その日は、魔王国より鹵獲した魔道具を再現することに成功したことを称され、局長直々に数週間の休暇を言い渡された次の日だった。

 朝早くに、一回のチャイムが鳴った。妙に透き通った音だったのを違和感に感じることもなく、僕はドアを開けた。


「……久しぶりだね。私のことがわかるかい?」


「ま、まさか……。ユア、なのか?」


 ありえない人に出会った。ここにいるはずのない人に出会った。

 何故ユアの名前が出せたのかわからない。長い黒髪はバッサリと切られていて、服はボロボロで老婆のようだった。食べるものにも困っているようで、身体はひどく痩せ細っていた。

 それでも、間違いなくユアだ。身に纏った雰囲気は変わっていない。こちらを見つめる特徴的な目は、何よりもこの香りは、まさしく、ユアだった。


「私の作ったネックレスをまだ付けているんだな。嬉しいよ。君の『黄昏の囁き』も今や学院を超えて王都で大流行だ。この香りを初めてプレゼントされた私もなんだか誇らしい」


「君からのネックレスを、手放すわけないじゃないか……。積もる話もあるだろうし、とりあえず、家にでも入るかい?」

 

「そうさせてもらおう。それにしても、君はすごいな。立派な家じゃないか。ここまで成功しているとは……」


 自虐的な微笑みは昔のままだった。


「大学に入ってすぐかな、すぐに恋人ができてね。熱烈なアプローチを受けたんだ。あんなにも私に優しく愛を囁いてくれた人は初めてだったからな。精神的にも限界だった私は、彼を受け入れたんだ。最初は楽しかったけど、彼はだんだん粗暴な一面を見せてくるようになった。束縛というやつさ。だんだん暴力を振るうようになった。耐えきれなくて、仲良くしていた研究室の先輩に相談したら、その日のうちに私はクソ野郎……先輩に襲われた。その後はもう地獄。クソ野郎は私を脅すようになった。そしてそれがどういうわけか彼に露見したのが、最悪だったな。私の住んでた寮で本気の殺し合いが起きた。私を襲ったクソ野郎は全裸のまま死に、当時の彼は今も王都の檻の中で臭い飯を啜っている。事件は公表されず、私はスラムに追放された。おまけに私の研究成果は全て教授に奪われた。私が大学に在籍した痕跡はどこにも残っていない。スラムで数年を過ごしながら、君の所在を探していた。家族には全員から縁を切られたからね……。もはや頼れる人は君しか思い浮かばなかった」


 どのように彼女と会話していたのか、何を思いながら聞いたか、覚えていない。生まれて初めて、浴びるほど酒を飲んだ。目が覚めたら、彼女とは似ても似つかない彼女が隣で寝息を立てていた。

 

「このクスリでも一緒にやろうよ。スラムの奴らからパクってきたものだが、偏見を持ってはいけない。存外に気持ちがいいものだぞ。何より幸せな気分になれる」


 壊れていく。


「ごめんね。こんなにも役立たずでさ。どうしてもというなら、身体を売って金を稼ぐよ。大丈夫、それは本当に全然苦じゃないんだ」


 壊れていく。


「髪? ああ、そりゃ、あんな生活を送ってたらね。いつの間にかどうにもならないぐらいボロボロになってて、艶もないし、思い切って切ってしまった。汚れも全然取れなかったしな」


 壊れていく。


「一緒に魔術大学院を目指そうって言ったこと……? うーん……そんなこと言ったっけ? ごめん、覚えてないや」


 壊れていく。


「『剣聖漂流記』か。そんなものもあったなあ。大学に行ってから一度も読んでいない。あれも遠い昔だな。しかし、君の家には全巻揃っているんだな。高かっただろうに。いくらかかったんだ? 私にも読ませてくれないか?」


 壊れていく。


 彼女と再開してから一ヶ月。彼女はずっと隣にいた。僕が出張で家を空けた後も、彼女はずっと家に居てくれた。僕は彼女と違って何一つ本心を曝け出していない。決断の時が近づいていた。


 彼女の今は、その全ては、僕の責任だ。僕は全てにおいて間違えた。愚かな僕が理由を探り続けて、ようやくわかったことだった。僕は彼女を幸せにしなくてはいけない。それが彼女から逃げた……逃げ出してしまった、僕の罰だ。

 

 本当は最初からわかっていた。僕は彼女の、危ういところに惹かれていた。学院時代、彼女に学校での居場所がないことは、知っていた。一言も話さなかったが、特待クラスではいない者のような扱いを受けていたことも、知っていた。出会ってから、彼女がだんだん、僕に依存するようになっていたことも、気付いていた。

 彼女は僕にとって、どこまでも魅力的だった。月日を重ねるほど、魅力的になっていった。彼女の好意には、最初から気付いていた。だから僕は、彼女を手に入れようとはしなかった。魅力が壊れることに耐えられなかった。僕は全てを踏み躙った。

 彼女には自分に対する自信がなかった。だから気絶魔法の後でしか、僕に対して直接的なアプローチもできなかった。本当はあの時も気付いていた。仮に僕が大学に受からなくても良かったのだ。彼女はきっと、夢を見たかったから。僕は、彼女のささやかな願いすらも、躊躇なく踏み躙った。

 賢い彼女は、僕の全てを理解していたのだ。そして、彼女は僕が望むように突き進んでいった。彼女は気付いているのだろうか。あの美しかった学院時代の時点で、全てはどうしようもなく捻じ曲がっていたのだと。別れの時点で、破滅は約束されていたのだと。


 卒業後、彼女がどのように考えていていたかまではわからない。

 だが、彼女は止まれなかったのだろう。彼女の危うさは、彼女の輝きは、当然の結末を迎えることになった。全て気付いていたことだ。僕は覚悟を決めた。彼女と一生を添い遂げる。理由を口には出さない。彼女がこうなってしまったのは、僕のせいに他ならないのだから。この悪魔のような心根を持つ、僕のせいだ。


「何を考えてるの?」

 

 僕に自身の体を押し当てながら、彼女が耳元で囁く。ふと、自分が長い時間考え込んでいたことに気付いた。夕焼けが眩しい。僕の家に来て健康を取り戻した彼女は、記憶の中のそれよりも妖艶で、どこか甘い香りがするようになっていた。香水の香りでは、ない。


「一つ、話したい事があるんだ」


「ん? 何かな?」


 彼女は柔らかな微笑を浮かべる。家に来るようになってから、彼女は僕が話しかけるたび、この顔を浮かべていた。

 安心する顔だ。天使が浮かべるような表情だ。学院時代、ほとんど見たことのない顔だった。


 

「ユア。これからの一生を、僕と一緒に過ごしてくれないか?」


 発した瞬間、彼女の動きが止まる。僕はじっと、彼女の顔を見た。彼女は、困惑したような、動揺したような、笑顔なのか、誤魔化しているような、よくわからない表情をしていた。それも、やがて嬉しそうな顔に変わる。


「嬉しい……ありがとう……」


 彼女はとびきりの笑みを浮かべた。今まで見たことのない、とびきりの笑顔だった。

 そのとき、違和感を抱いた。この笑顔を僕は知っている。この夕焼けに照らされた、眩しい笑顔をどこで見た? そうだ、これは、大学院に行こうと言うユアの誘いを断った、あの時の──。


「!? ユア、やめ」


「ごめんね」


 ユアに向かって手を差し出した僕に、ユアは無詠唱の魔法を放っていた。


 腹のあたりに鈍い衝撃。頭から血が失われていく。伸ばした手から力が失われていく。かろうじて視線をあげる。夕焼けが視線に入った。自由を失った身体が、固い地面に頭を打ちつけたのがわかった。表情の見えない彼女が、僕の耳元に口を近づける。


「さようなら。私の──」


 彼女が何か囁いているのはわかったが、まず目の前の光景が認識できなくなった。途中で音が認識できなくなった。次に声が聞こえなくなった。

 

 もう、何もわからなくなってしまった。


 


 目が覚めたら、もうそこにユアはいなかった。ベッドには、「さよなら」とだけ書かれた置き手紙が残されていた。


 眩暈がするほど、美しい字だった。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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