1-2
「ようこそ、ミーリア嬢。ローエの地へ」
そう言って差し出された右手を前に、ミーリアは全ての言葉を失った。
「……お嬢様、お嬢様、どうしたんですか?大丈夫ですか?」
小声で背後からそう囁いてくるリリーの声をどこか遠くに聞きながら、ミーリアは雷に打たれたようなショックでその場を動けない。
「……ミーリア嬢?」
馬車で一週間をかけた旅路、目的地であるローエの領主館に乗り付けたミーリア達を出迎えてくれたのはローエ当主である辺境伯と、彼の側仕えらしき男性だった。
ローエ辺境伯オーディス・ローエ。淡い茶の髪に黒のように見える濃い茶の瞳をした彼は、ミーリアの記憶する限り、八つ年上の二十六歳。ともすれば凡庸と評されるであろうほどに顔も背丈も普通で、銀縁眼鏡の奥で穏やかな笑みを浮かべる好青年だった。
その彼が、動きを止めたミーリアの前で、差し伸べた手もそのままに困ったような笑みを浮かべる。それを見て、ハッとしたミーリアは現状を思い出した。左手をそっと後ろ手にし、リリーとナタリエに合図を送る。
(プランCよ!)
辺境伯からは死角になる位置、膨らんだドレスのひだに隠して左手の親指と人差し指で丸を作った。社交界という名の戦場において、ミーリアがリリー達と共に編み出したいくつかの作戦。その中でも初めて決行することになる「プランC」の合図を送ったミーリアは、覚悟を決める。後はもう、リリーとナタリエを信じるしかない。
目を閉じたミーリアは額に手の甲を当て、フラリと上体を揺らめかせた。
「あ……」
短い一言を発し、力を抜いたミーリアの身体が背後へ向かって倒れていく。
「お嬢様ぁっ!」
「ミーリア様!」
リリーとナタリエが自分を呼ぶ声がする。次いで、傾いだ身体が地に着く前にミーリアは安心できる腕の中へと抱き留められた。馴染みのあるナタリエの香り。周囲が一気に慌ただしくなるのを感じながら、ミーリアは最後まで目を閉じ続けた。
「お嬢様!一体全体、あれは何だったんですか!?」
オーディスの用意してくれた客室、日当たりの良い部屋のふかふかのベッドの上にミーリアは寝かされていた。勿論、意識はある。腰に手を当て上から覗き込んで来るリリーから逃れるため、ベッドの上で一回転してから、ミーリアはモゾモゾと上半身を起こした。
部屋の中には三人しかいない。ミーリアは掛けられた上掛けを口元まで引き上げ、それを盾にしながらリリーとナタリエを交互に眺める。二人に迷惑をかけたという自覚はあった。
「お嬢様がプランCを発動するなんて初めてじゃないですか!私、心の準備も何もしていませんでしたよ!」
「悪かったわよ。……ナタリエも、ありがとう」
ミーリアは、心配をかけたリリーへの謝罪を口にし、咄嗟の状況にも関わらず的確な対応をしてくれたナタリエに礼を言う。ナタリエは軽く頭を下げて返してくれたが、リリーはミーリアへの追及の手を緩めるつもりはないらしい。
「お嬢様、さっさと説明してください!いつも『敵前逃亡だけはプライドが許さない』と仰るお嬢様が、最終手段であるプランCを発動なさるなんて……」
リリーの声が段々と案ずるものに変わってきたところで、ミーリアはボソリと呟いた。
「それだけ、相手が強敵だったということよ……」
「強敵?え?あの、普通な感じの辺境伯閣下がですか?王太子殿下相手に啖呵切っちゃうようなお嬢様の強敵??」
分からないと首を傾げるリリーに、ミーリアはまたボソリと呟いた。
「だって、素敵だったんですもの……」
「え?」
なにが?と返したリリーに、ミーリアは自身の顔が赤くなるのを意識しながら、必死に言葉を連ねた。
「だって!リリー、あなたが言ったのよ!この恰好では男ウケが良くないって!戦闘力の高い悪女に見えるって言ったのはあなたでしょうっ!?」
「え?いえ、そこまでは言ってませんけど、でも……え?ひょっとして、お嬢様……?」
信じられないとばかりに目を見開いたリリーに向かって、ミーリアはやけくそのような告白を口にした。
「そうよ!オーディス様に一目惚れしたのよ!何か文句でもあるっ!?」