4-8 Side F
フィリップは混乱していた。アーレント公がミーリアと男――アーレント公が辺境伯と呼んでいた――を連れて会場を出て行った後、会場は一種異様な興奮を見せている。滅多に社交の場には現れない辺境伯が、公の場で求婚をし、何かと注目を集めるアーレント公爵令嬢を射止めた。それも、どうやら二人は長いこと想い合っていたらしい。おとぎ話のような恋物語に、女性を中心に盛り上がるその場を、フィリップは苦々しい思いで抜け出す。
探すのは、自分の父の姿だった。父がアーレント公の後を追って会場から出て行く姿を見ている。会場を出て幾ばくもしない内、廊下の奥に見つけた見慣れた後姿に、フィリップは声を張り上げる。
「父上!」
こちらの呼びかけに振り向いた父が、こっちへ来いと手招く。急いで駆け寄りながら、フィリップは怒りに任せた言葉を吐き出した。
「父上!先程のあれはどういうことですか!?なぜ、ミーリア嬢が!彼女は私の……!」
婚約者だと言いかけたフィリップだったが、父にギロリと睨まれて、その先の言葉を飲み込む。父が、深い溜息をついて再び歩き出した。
「フィリップ、散々、逃げ回っていたお前が今更それを言うのか?」
返す言葉のないフィリップは、黙って父の後に続く。
「先程の件に関して、アーレント公より話があるそうだ。……お前もついてこい」
言われて、父に付き従って向かったのは学園の来賓室だった。そこに、ミーリアと辺境伯もいるのだろうと思っていたフィリップは、アーレント公しか姿が見えないことに拍子抜けした。
「やあ、ノイナー伯、わざわざすまないね。フィリップ君も来たのか」
人の好さそうな笑顔でニコニコと笑うアーレント公に勧められるまま、フィリップは父と並んで、彼の正面の長椅子へと腰を下ろした。それを見守ったアーレント公が、「さて、それでは」と口を開く。ミーリア不在のまま話が進みそうになっていることに、フィリップは堪らず口を挟んだ。
「あの!閣下、ミーリアは?」
フィリップの無作法に父が気色ばむのが分かったが、アーレント公に気にする様子はない。どころか、「よくぞ聞いてくれた」と言わんばかりの笑顔で大きく頷く。
「いやぁ、申し訳なかったね、フィリップ君。今回のことは私も想定外。まさか、辺境伯殿があのような情熱的な方だとは思いもしなかったよ」
そう言って、大きな腹を揺らして笑うアーレント公の姿に、フィリップは不快を覚える。
「想定外などと……、私とミーリア嬢との婚約は反故にされるおつもりですか?」
「おや?これは意外だ。私はまた、君のほうがミーリアとの婚約を解消したいのだと思っていたよ」
「っ!それは……!」
アーレント公の言葉が、先程の父のものと重なる。フィリップは返す言葉を失った。確かに、そう思われても仕方がない。ミーリアに対する自身の言動を省みて、フィリップは自身が下手を打ったのだということを理解した。それでも――
「此度の婚約はノイナー、アーレント両家の結びつきを確かにするためのもの。私やミーリア嬢の個人的な感情が優先されるものではないかと……!」
そう苦しい言い訳をしたフィリップに、アーレント公は柔和な笑みを浮かべる。
「フィリップ君は素晴らしいね。個人の感情を捨ててでも、家や国のためにその身を捧げる覚悟ができている。……いやぁ、本当に素晴らしいご子息をお持ちだね、ノイナー伯」
「……恐れ入ります」
アーレント公の言葉の後半は父に向けてのもの。それに無表情で応えた父が、こちらを見る眼差しは厳しい。フィリップは自身の言葉の矛盾――個人的な感情から、散々、ミーリアを拒絶してきたこと――を責められているようで、父の視線から顔を逸らした。
「うーん。だが、すまんね、フィリップ君」
フィリップと父の間に流れる張り詰めた空気を気にした風もなく、アーレント公は笑顔のままで言葉を続ける。
「私も人の子。愛する娘にはどうしても甘くてね。ミーリアが望むならと、つい、二人のことを許してしまった。いやぁ、親バカと笑ってくれても構わないよ」
言って、「ハハハ」と声を上げて笑うアーレント公の言葉に、フィリップはギリと奥歯を噛み締める。彼の言葉は、ミーリアと辺境伯の婚約を撤回するつもりはないということ。謝罪を口にしながらも、フィリップの主張を聞き入れるつもりはないのだ。
「けどねぇ、これはこれで良かったんじゃないかな?ミーリアもフィリップ君も、心を殺してまで家の犠牲にならずに済んだのだからね」
うんうんと自身の言葉に頷いてみせるアーレント公。フィリップは、必死に言葉を探す。彼の決定を覆すだけのもの。そう、例えば、殿下の側近候補としての自身の価値を認めさせれば――
だが、フィリップがそれを口にする前に、父が口を開いた。
「……動かれますか?」
(動く……?)
フィリップがその言葉の意味を理解できずにいる横で、アーレント公は「勿論だ」と嬉しそうに笑う。
「いやぁ!私も最後の最後で賭けに勝てたよ!ミーリアがねぇ、辺境伯閣下からの贈り物を大切にしていてね?」
こちらを向いたアーレント公は、フィリップに「一体、何だと思う?」と尋ねた。話についていけず、質問への答えなど持ち合わせようもないフィリップは、ただ、首を横に振る。そんなフィリップを見て、アーレント公は「ククク」と忍び笑いをした。
「それが、なんと!辺境伯閣下の子ども時代の服だというんだよ!」
「服……?」
「そう!そんなものを贈る辺境伯閣下の意図が分からず、それを大切に手入れして保管するミーリアの気持ちも、私にはさっぱりだったんだが……」
言葉を切ったアーレント公が、ニヤリと笑う。途端、凄みを増した彼の様相にフィリップは気圧された。
「だがまぁ、経緯を聞いてみれば、結局は男の独占欲。男が女に服を贈る理由なんて一つしかない。……だったら、手を引く道理はないだろう?」
その言葉を半分も理解できないまま、フィリップは口を噤む。最早、目の前に座る男の視界に自分は入っていない。事態は、フィリップの手に負えるものではなくなったのだと、否が応でも感じさせられた。
嫌な汗が背中を伝う。
「……フィリップ」
父に名を呼ばれ、フィリップはぎこちなく隣を向く。常と変わらぬ、感情の読めない淡々とした声で告げられた。
「これより、ノイナーはマイルズ第一王子殿下につく」
「っ!」
フィリップは息を呑む。一瞬で、脳裏を様々な思いが巡った。この日まで、傍で支え続けたジークベルト殿下のこと。彼の治世を、それを支える自分を疑っていなかった。彼と、彼の隣に立つ彼女のため――
「お待ちください、父上!何を今更!私は、私の主君はジークベルト殿下ただお一人です!」
「……であれば、ノイナーを出ろ」
「なっ!?」
「お前個人として、ジークベルト殿下にお仕えすれば良い」
凍えるような父の眼差しに、フィリップは言葉を失う。
「あくまで個を優先するというのであれば、ノイナーはハーディに継がせる」
「っ!?」
三つ下の弟の名を出され、フィリップの血が凍る。父は本気だ。本気で自分を切り捨てようとしている。
眩暈がした――
今まで自分が信じてきたもの。足元が崩れ落ちていくような感覚に、フィリップの胸にどうしようもない絶望が広がった。