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カツカツと長靴を鳴らしながら、大股に歩み寄ってくる長身の男性の姿。彼の纏う純白の外套、翻る深紅に映える金糸に、ミーリアの目に薄い水の膜が張った。
泣かなかったのに――
別れの時さえ、彼の前では我慢できた。今にも零れ落ちそうな涙を流すまいとするミーリアの前で、男が足を止めた。いつもは無造作に下ろされていた茶色の髪が、今は綺麗に後ろに撫でつけられている。深い茶の瞳がミーリアを見つめる。そこに映る感情が何なのか。知りたくて、だけど怖くて――
「……オーディス様」
彼の名を呼ぶミーリアの声が震える。オーディスがミーリアの前に跪いた。
「……申し訳ない、ミーリア嬢。私は、あなたの決意を、国を思う心を踏みにじろうとしている」
言って、オーディスはミーリアの右手を取った。
「だが、それでも。……どうしても、あなたを諦めることができなかった」
許してほしいと続ける彼に、ミーリアは声もなく、ただ首を横に振る。ミーリアとて、思いは同じだ。彼の手を取れば、国が荒れる。分かっていてもどうしても諦めきれぬ想いに、ミーリアの頬に一筋の涙が流れた。
「……ミーリア嬢、どうか、私の妻に。……共に生きてはくれぬだろうか」
言って、爪の先に唇で触れたオーディスに、ミーリアの指先に甘い痺れが走る。魅入られたように、ハラハラと涙を流しながらオーディスを見つめたミーリアは、やがて、その視線を別の場所へと向けた。
二人に近づいて来る人の姿がある。立ち上がったオーディスが、ミーリアを守るように、その肩を抱いて隣に並んだ。
「ミーリア、これはどういうことかな?」
「お父様……」
二人の前に立つ人物、父の問いかけに何と答えるか、ミーリアの胸の内は既に決まっていた。
「お父様。私はオーディス様に嫁ぎます。どうか、お許しください」
「ふむ……?」
顎に手をやり、考える様子を見せる父に、オーディスが一歩前に出た。
「アーレント公、突然の無礼、お許しを。このような場での求婚になったことをお詫びします。ですが……」
言って、オーディスがミーリアを見下ろした。
「……申し訳ない。ミーリア嬢だけは、誰にも譲れない」
(オーディス様……)
ミーリアは、オーディスの瞳に初めて獰猛な光が浮かぶのを見た。眼鏡の奥、獲物を捕らえんとする獣の眼差しに、ミーリアの身体がカッと熱く燃え上がる。顔が赤い。どころか、全身、指の先まで熱い気がして、ミーリアは震えた。
二人の様子を黙って見ていた父が、不意に笑った。
「……お父様?」
ミーリアは、父のこの笑みを知っている。柔和な笑み、その肉付きの良さも手伝って、人の好さが滲み出たようなこの笑みに騙されてはいけない。父がこんな笑い方をする時は――
「いやぁ!良かった、良かった!ミーリア、お前が辺境伯閣下に長いこと恋煩っていたことは、私も分かっていたんだよ!」
言って、父はオーディスへと視線を向ける。伸ばした手で、彼の空いた手をとり、ブンブンと大きく上下に振った。
「辺境伯閣下も、我が娘のためによくぞ決断してくださった!幸いにも、娘は未だ婚約者をもたぬ身、閣下が望んでくださるのであれば、娘を愛する親としてこれ以上の喜びはない!」
大袈裟な身振りに、周囲に響く声。場を弁えぬ言動だが、これが父のやり方なのだ。親バカが感激したあまりの暴走を偽って、勢いでごり押しする。ミーリアと目が合った父は、目線だけでニヤリと笑って見せた後、国王陛下に向かって頭を下げた。
「陛下!御前を乱しましたこと、どうかご容赦を!就きましては、未来の息子と少々、語り合いたいことがございます!この場を離れる自由をお許しいただきたい!」
父の言葉に、陛下は僅かに苦い顔をしながら、鷹揚に頷いて見せた。それに頭を下げた父に連れられ、ミーリアはオーディスと共に会場を後にする。突き刺さるいくつもの視線、これから先に起こるであろう権力闘争の激化を思えば、心安らかではいられない。けれど――
「……ん?」
隣を見上げると、甘く優しい瞳に見下ろされる。先程までの苛烈さはないが、包み込むような温かさに触れて、ミーリアの心は凪いだ。彼の腕に掴まる手に、僅かに力が入る。
この人となら――
例えどれほどの修羅の道であろうと歩んで行ける。そう確信して、ミーリアは笑った。笑い返す彼の瞳に、再び泣きそうになりながら。