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結局、ミーリアとフィリップの婚約は内々のままに終わり、発表は二人の卒業を待ってからとなった。卒業までは残り数か月しかない。僅かな時を引き延ばすことにどれほどの意味があるのか。ミーリアには分からなかったが、それがノイナー側の望みであり、父がそれを飲んだ以上、ミーリアもそれに従う。
(……だけど、まぁ、フィリップとの関係をこのまま放置するわけにはいかないわよね)
ミーリアが望むのは、フィリップとの対等な関係だ。男女の仲はなくとも良い。だが、お飾りになるつもりもなかった。今、ミーリアの我儘がある程度通るのは、ミーリアが公爵令嬢であるからだ。フィリップに嫁げば、ミーリアはフィリップの付属物になる。残念ながら、この国で夫の意志を無視してその妻が何かを成すことは難しい。だから、ミーリアはフィリップとの仲をある程度改善しながら、彼にミーリアの有用性を認めさせるつもりでいた。そうでなければ、ミーリアの望みは叶わない。
(見ていなさいよ……!)
ミーリアには、完璧な伯爵夫人になる自信があった。ミーリアは王妃となるべく育てられてきたのだ。加えて、ローエで新たな経験も積んだ。その全てを以てフィリップに取り入って見せる。
そう決意したミーリアは、鼻息も荒く、学園の中庭、その中央にあるガゼボで昼食を摂る集団へと突入していった。
「ごきげんよう、皆さま!」
ニッコリと笑って挨拶をするミーリアに向けられる視線は冷たい。それもそうだろう。彼らの内、一人は婚約を解消してきた元婚約者、もう一人は関係の冷めきった現婚約者。元婚約者の護衛が我関せずと佇み、元婚約者の現在の婚約者は困ったように、ミーリアと彼らの間で視線を行ったり来たりさせている。
「……ミーリア嬢、何をしにきた」
元婚約者である王太子殿下の問いに、ミーリアは笑みを崩さずに答える。
「それはもちろん、フィリップ様と昼食をご一緒するためですわ?」
そう言って、ミーリアは手にしたバスケットを掲げて見せる。無表情のまま、殿下の視線がフィリップを向いた。
「フィリップ、どういうことだ?」
「……申し訳ありません。私にも彼女の思考は理解できません」
殿下の問いに首を振って答えたフィリップに、ミーリアは「あら?」と口を挟む。
「折角、縁を結んだのですもの。婚約者同士、仲良くするのは悪いことではないでしょう?」
ミーリアの一言に、殿下とフィリップは白けた視線を向ける。驚きを示したのはノーラだけだった。
(ふーん。やはり、王家はアーレントとノイナーの婚約は把握しているのね)
貴族同士の婚姻に王家が口を挟むことは滅多にない。ただ、婚約時には王家への届け出が必要なため、そこでよっぽど問題があると判断されれば、王家の許可が下りないということもある。この様子では、ミーリア達の婚約が反対されているわけではないようだが――
「……ミーリア嬢、ここに君の居場所はない。早々に立ち去れ」
王太子にそう不機嫌に命じられ、ミーリアは少しだけ悩む。建前上、学園内では皆が平等、王太子の命に逆らったところで、大した咎めがあるわけではない。だが、ここまではっきりと拒絶されて居座るのも悪手。「フィリップとの仲を深める」というミーリアの目的から外れてしまう。
ミーリアは、手にしたバスケットに視線を落とした。
「……手作りですの」
「は?なにを仰っているんです?」
ミーリアの呟きに反応したのはフィリップだった。眉間に皺を寄せたまま、訝し気にミーリアを見る。ミーリアはバスケットの蓋を開け、彼に中身を見せた。整然と並ぶのは、ミーリアが手ずから作ったサンドイッチ。彩りもよく並べられたそれは、ミーリアの自信作だった。
「フィリップ様のために手作りのランチをお持ちしたのです。せめて、受け取ってはもらえませんか?」
「……」
一瞬だけ、驚いたような顔を見せたフィリップだったが、チラリとバスケットの中を確認すると、フンと鼻を鳴らして笑った。
「なんのつもりかは知りませんが、要りません。こんなもの、受け取るはずがないでしょう」
冷笑を浮かべる男に、「こんなもの」と言われてしまったバスケットの中身を確認したミーリアは、フィリップに受け取ってもらうことを即座に諦めた。
(まぁ、始めから駄目で元々ではあったから……)
ただ、困るのはこの量のサンドイッチの処理だ。自分一人で食べるには多すぎる。ミーリアはその矛先を、この場で一番体格のいい男へと向けた。
「デニス様、手作りのサンドイッチなんです。フィリップ様は不要とのことですので、代わりに受け取ってもらえませんか?」
「……なぜ?」
自分に矛先が向くとは思っていなかったのだろう。無表情に片眉だけ上げて疑問を呈した男に向かって、ミーリアはずいとバスケットを差し出した。
「騎士の方々は鍛錬の後に食事を摂られることもあると伺っています。鍛錬後にでも召し上がってください」
「……」
「手作りなんですのよ?このまま廃棄では、あまりに憐れだとは思いませんか?それに、食事を無駄にするなど……」
言って眉尻を下げて見せたミーリアの姿に、デニスの手が思わずと言った風に動いた。それを咎めるように、殿下が彼の名を呼ぶ。
「デニス……」
途端、彼の手が止まってしまった。内心で舌打ちしたミーリアだったが、目の前で止まったデニスの右手、その袖のボタンが取れかかっていることに気付く。
(あら?)
巡ってきた好機に、ミーリアはバスケットを目の前のテーブルに置き、ドレスのポケットから裁縫道具を取り出した。
「デニス様、上着をお脱ぎください」
「……なぜ?」
「ボタンが取れかかっているからです。私が縫って差し上げましょう」
ミーリアの言葉に、デニスは手首を返して袖口を確かめた。ミーリアの言葉が嘘でないと分かったデニスは、左手で右の袖口を押さえ、首を横に振る。
「要らん」
「要らんではありません。それを決めるのはあなたではなく周囲だわ。あなたのお役目は?」
ミーリアの言葉に、デニスは無言のままミーリアを見下ろす。質問の意図が読めないのであろう。ミーリアは大仰にため息をついて見せた。
「あなたは殿下の騎士。将来は殿下の近衛になられるのでしょう?殿下のおそば近くに侍るあなたに、そのような恰好が許されると思って?」
「……」
勿論、許されるはずがない。デニスは沈黙してしまったが、だからと言って大人しく上着を差し出す気配もない。諦めたミーリアは、裁縫用のハサミを取り出した。
「動かないでくださいましね?」
言って、デニスの右手を問答無用で掴み取る。彼がミーリアの行動を理解するより先に、さっさと取れかけのボタンの糸を切った。ミーリアの手の内に、コロンと黒のボタンが転がる。
「……大人しくしていて下さいませ。そうすれば、直ぐに解放して差し上げますわ」
悪役のような台詞を吐いて、ミーリアは糸の通った針をデニスの上着の袖口に刺した。
「ご安心ください。痛い思いはさせませんから」
「……」
デニスだけでなく、周囲で見守る誰もが沈黙したままという微妙な空気の中、ミーリアはさっさとボタンを縫い付けてしまう。この程度であれば、着衣のままでも問題ない。最後にボタンを軽く引っ張り、その出来栄えを確かめてから、ミーリアは糸を切った。
(なかなかの手際ではなくて?)
思わず胸を張りたくなるが、あくまでも謙虚に「出来ましたわ」とほほ笑んだミーリアに、デニスが口の中でモゴモゴと礼らしきものを口にする。それに「お気になさらず」と答えたミーリアは、裁縫道具をしまうと、もう一度バスケットを手に取ってデニスへと押し付けた。
「お礼は結構ですわ。ですが、お礼替わりに受け取って頂けます?」
「……」
笑顔で押し付けるミーリアに、デニスが初めて表情らしきものを見せる。困り顔でミーリアとその背後に交互に視線を向ける彼に、ミーリアの背後で殿下のため息が聞こえた。
「受け取れ、デニス」
「ですが……」
「構わん。……お前が受け取らねば、この女はいつまでもここに居座るだろうからな。受け取って、さっさと追い払え」
殿下の言葉に、デニスの大きな手が、躊躇いがちにバスケットを受け取る。それに満足したミーリアはニコリと笑った。
「ありがとうございます、デニス様。バスケットは放課後にでも受け取りにまいりますね」
言って、他の三人にも「ごきげんよう」と挨拶したミーリアだったが、フィリップがもの問いたげな視線を向けていることに気付く。
「フィリップ様?」
「……あなたは、裁縫ができるのですね」
どうやら、ミーリアが裁縫ができるということが驚きらしい。この分ではやはり、サンドイッチが手作りだというのも信じていないのだろう。
ミーリアは、フィリップに向けてとびきりの笑顔を向けて答える。
「ええ。刺繍は得意なんですの。今度、フィリップ様に刺繍入りのハンカチをお持ちしますね?」