3-5 Side O
「……引き留めなくて良かったのですか?」
「うん?」
執務室、不意に聞こえたケヴィンの声に、オーディスは机の上の書類から顔を上げた。
「……ミーリア様のことです。帰してしまわれて良かったのですか?」
「良かったも何も、アーレント公から帰還の指示があったからね」
ミーリアは帰るしかなかったし、オーディスは見送るしかなかった。
「……新たな婚約を結ばれるそうだよ」
言わずともよい一言。ケヴィン相手とは言え、それを口にしてしまうほどには、オーディスの心も弱っている。胸の内一つに留め置くことのできなかった言葉に、ケヴィンが「え?」と驚きの声を上げた。
「しかし、アーレント公は、ミーリア様のローエへの輿入れを望まれていたのでは?」
「うん。望まれてはいたんだろうけど、『それでも良かった』という感じかな?」
言って、オーディスは小さく息を吐いた。
恐らく、アーレント公はいくつかの家に対して同様の打診を行っていたのだろう。ミーリアの相手は、必ずしもオーディスである必要はなかった。事実、公からの手紙には「オーディスが望むなら」という前提がある。それに対して、オーディスは何ら反応を示さなかったのだから、公の決定に異を唱えることなどできようはずもない。
(……異を、唱えたかったのか、私は)
自嘲して、オーディスは自身の想いを認めた。
ミーリアに帰って欲しくはなかった。このままずっと側に居て欲しかった。側に居て、あの輝くような瞳をオーディスに向け続けて欲しかった。
なのに、あまりにもあっさりとミーリアはオーディスを置いて行ってしまった。
――オーディス様、私はあなたをお慕いしております。
オーディスの胸の内に、消えない甘い傷跡だけを残して。
(……だけど、当然か)
オーディスはミーリアに望んでばかり。オーディス自身は何もしていない。彼女の気持ちに応えようとはしなかったのだから。
(礼の品さえ、まともに返せていないしな……)
オーディスが彼女に贈ったものと言えば、自身の子ども服一つ。何を考えてそんなものを贈ったのか。贈った時の自身の思いに、オーディスの口からため息が漏れた。
眼鏡を外し、椅子の背もたれに体重を預けて天井を見上げる。ぼやけた視界に、ミーリアの赤い瞳がチラつく。目を閉じてみても、瞼の裏に彼女のはにかむような笑みが浮かんだ。どうしても消えないそれにユルユルと首を横に振って、オーディスは眼鏡に手を伸ばした。明瞭になった視界で、再び書類に視線を落とす。
諦めなければならない――
自分が動けば、国が動く。だから決して、オーディスはミーリアを望んではならなかった。