表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

非表示作品

脱理想、脱完全、脱観念、及び前記に関連した女性美 論

作者: 恵美乃海

以前投稿した作品の一部改訂版です。

理想は、本当に好きなものは何かを見定めてから設定すべきこと、と痛切に思う。


 少年時代(一部は幼年時代)から青年時代にかけて、私の精神のあり方として特徴的だったのは、様々な物事について「理想」を、さらには「完全」 なものはなにかを設定していた、ということだ。  


 そして、その設定した「理想」「完全」以外のことについては、「現実」「普通」「卑俗」といったような観念をそこにあてはめ、安心して心を安らがせていた。  


 私にとって、何が「理想」であり、何が「完全」であったか。


 宗教的、哲学的には、この現実にある宇宙を超えたものを観念的に考え、 理想の世界、完全な世界を設定し、この現実にある宇宙を卑俗化した。  


 美においても、理想の美、完全な美を設定したわけだが、それもまたひどく観念的な美、ということになる。


 色彩においては、少年時代は、「青」「紫」。

長じてからは「茶色」あるいは「黒」「グレー」を、理想、完全を象徴する色と考えた。


 歴史においては、天才、英雄 と呼ばれる人物を理想化した。


 そして、若くして偉大な業績をなしとげ、夭折した人物を最高とした。  


 スポーツの世界においても、同様の人物を最高であると思い描いた。  


 現実の歴史において、理想そのものの人物というのは、なかなかいないから おのれの想像の世界で、そのような人物を創造していた。  


 生きていく上での心のあり方にも理想を設定していた。


 上記のようなもの そのものの人物に自分がなれるとは、いかに厚顔無恥な少年時代の自分であっても思えなかったので、せめてそのような理想的な人生、そのようなイメー ジにつながる人生を送りたい、 と思っていた。 


 が、そういう人生であったら自分の心が安らがない、ということも分かっていたので、上記に分類されるようなこと、それにつながっていく自分がやらなければならない、と考えていたことは若いうちに済ませて、あとは理想ならざる物事に自分の心を置いて、 以降の人生はのんびり過ごそう、などと考えていた。


ゆえに私は少年時代から、「隠居生活」というものに憧れていた。


 また別の理想として、心のあり方として「欲のない人間」こそ、人として最高の人間ではないか、と思った。名誉も権力も富も求めない人間こそ最も素晴らしい人間であり、そういう人間になりたい、と思っていた。


今の私が思う「最高の人間」は、こころの中が、この世界に対する愛で満ち溢れていて、とにかく世のため、人のために、なにかせずにはおれない、という人、すなわち、そのような種類の欲望を持っている人かな、と思います。   


 いずれにしても、私には無縁の境地です。  

自分自身の座右の銘として


「自分が人のために何ができるかを考えるな。 人が自分のために何ができるかを考えよ」というのもいいな、などと思っていましたから。


 しかし、私の設定した「理想」というものは、あまりにも観念的であった。 そして求めるものが高すぎた。


 さらには、その「理想」は、自分にとって、「好きなもの」 ではなかった。

 心の中で勝手に「義務」として定義づけ、いうなればさっさとすませて早くそこから逃れたいと思う。そういう対象であった。 


 では、私にとって「好きなもの」は何か。


 簡単だ。前記の「「理想」ではないこと」。

前記の「「理想」ではない人物」

が、私が好ましいと思う対象だ。  


 私は自分の理想を設定するにあたって、自分の観念的な精神とだけ対話して、心の奥底から求めていたもの、おのれの肉体から生まれる自然な感情と対話しなかった。  


 前記の「欲のない人間」という理想だが、普通の人間であれば、名誉、権力、 富。 おのれの器量で手に入れることの可能なできるだけ多くのそれらを求めるというのは自然な感情である。


 私にそのような感情が無かったわけではない。

いや、むしろ私はそういったものを求める気持ちというのは平均以上に強かったと思う。  


 そういう自分であるということを自覚的に思っていたからこそ、私にとっての 「理想」は、その対極である「欲のない人間」となったのであろう。 


 だが、「欲のない人間」などというものは、本当にそうなれたら、それはあるいは素晴らしいことなのかもしれない。しかし、普通の人間が目標とするには、あまりにも高い 存在だ。


 また「欲のない人間」というのは、賛嘆の対象にはなるかもしれないが、付き合って面白い人間ではないであろう。


(「自分が人のために何ができるかを考えるな。 人が自分のために何ができるかを考えよ」が座右の銘という人も、付き合って面白い人間ではないかも。)  


 女性に対しても、私の中にはこの「理想化」という観念が働いた。


 当時の私にとって、最高の女性美は、華麗で、かつ高貴で気品があり、超絶的な至高の美を感じる容姿。

現実の世界には存在しないレベルの、理想世界にのみ存在するイデア。

すなわち観念的存在としての女性美。


(こうやってあらためて書いてみると、面倒な奴だなあ、いちいちうるさいわ、とつくづくと思う。

まあ、女の子に対して常にそういうことばかり考えていたというわけではもちろんありません。

時にそういう気持ちが盛り上がったときに、そんなことも考えていた、ということです。


日常的な主たる関心は、好きだった女の子であり、身近にいた女の子たちであり、ファンだったアイドルであったわけではありますが)


言い換えれば、私にとっての理想は、官能の対象とならないタイプの美を持った女性であった。

女性に対しても、官能性よりその当時の私の観念的価値階梯による美を優先させたのである。


 ゆえに官能につながる美というのは、私にとっては卑俗なものであった。


  

 年齢を重ねて、「理想」とか「完全」とか、そして「至高」さらには「純粋」などという観念に 、うとましさ、 うさんくささを感じるようになったが、それはまた人生経験を重ねることによっ て、本来の自分が、 ようやく、肉体から精神にまで浸透してきた、ということであろう。  


 自らが楽しいと思うことを考え、自らが楽しいと思うことを行う。そして、自らが好ましく思い、 心が安らぐものに心をひたす。

 その楽しさを知り、その楽しさを味わってしまう と、 もう、あの少年時代に思い描いていた「観念」になど、戻りたくはない。それは もはや、 後悔の対象でしかないし、極言すれば、嫌悪の対象ともなり得る。   


 少年時代の自分が、観念に支配されていた、頭でっかちの少年であったという のは実に、実に、残念なことだ。  


 何らかの理想を設定するということは、人生に向き合おうとする少年にとって決して悪いこと ではない。


 しかし、その理想は自分の肉体と対話して設定すべきだ。


 自分が本当に好きなことは何なのか。それを見定め、そこから生まれた理想であれば、それは強い。  


 そして、若いうちにそのような理想と出会い、人生の目標に設定することがで きた人が、 この世の中で、大きな仕事ができるのであろう。 


そして、女性に関して。


官能性ではなく観念的価値階梯により女性美を判断するというのは人工的な概念であり、意味のない不要な概念であったと思う。


女性の美というのは、それぞれの個々人が持つ生命、本能、感覚、感性に拠って認識するものであろう。


 観念の支配から脱却してあらためて心を静めてみれば、自分が好きな女性、 目にしてみて心が安らぐ女性は、 私が「色っぽい」「セクシー」と感じる女性である、ということが分かる。 

要は世の多くの男性と比べて、特に変わった好みを持っているわけではない。


「セクシー」というのは主観でそう感じる女性ということであって、個々の女性の客観的な評価とはそのまま重ならないであろう、という部分に多少なりとも個性があるのかもしれない、というくらいである。


 実のところは、少年時代から自分の中にあるそういう気持ちも認識していたのだが、少年時代の自分であってみれば、その価値観がもたらす美意識により、心の中でそれを認める訳にはいかなかった。 


 少年時代に自分が好きだった女の子は、今でも憧れの対象だ。だがそのように心の中で 祭り上げてしまうのではなく、少年時代、同じ地平に立って向き合ってみたかっ た。そういう少年でありたかったと思う。 


 今のこの気持ちでそのまま少年時代に戻ったとしたら、どういう人生を送ったか。かなわぬことながら 時々想像してみる。  


 そして、では周りにいたどの女の子を、あるいは女性を好ましいと思っただろう、などということも 時々想像する。なかなか楽しい。



超越的な宗教、超越的・観念的な哲学。


人間の認識可能なことを超えた概念を語る宗教、哲学。


超越的、観念的な思いに導く芸術。


歴史、スポーツにおけるヒロイズム。


観念のベール、感性以外のバイアスをかけて女性をみること。


前記ジャンルにおける理想主義


愛、優しさ、夢 等の言葉でイメージされる概念を

至上の価値として、そこで思考停止すること。


これまで生きてきて、上記については、無駄、不要、時間の使い方として勿体なかったと思う。

無駄という以上にマイナスである。


が、人生の早い時期に否定することが出来れば、その後、より意義深く、充実した人生が送れるのではないかと思う。


そして、既述したことに関して止揚する。

生活していく中で、拘り、関心を持たなくなる領域にまで移行すれば、さらに望ましい。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ