第三話 盤面の駒
どうも皆さま、初めてお会いする方は初めまして。以前にお目にかかられた方は、お久しぶりです。ヌイヴェルでございます。
私は高級娼婦を生業としておりまして、いわゆる上流階級の皆様方に寄生して生きている女吸血鬼でございます。皮肉めいた自己紹介となりましたが、実際のところ、私は魔術を行使できる魔女なのでございます。
どのような魔術なのかと申しますと、触れ合った相手から情報を抜き取る《全てを見通す鑑定眼》という魔術でございまして、触れ合う肌や時間が長ければ長いほど抜き取れる情報も多くなってまいります。
しかも、相手からは抜き取られないという防諜まで備わっておりまして、《永続的隠匿》という情報遮断の魔術まで身に付けてしまいました。つまり、私は自身の手の届く範囲ではございますが、身近におられる方々から断りもなく気付かれることもなく情報を吸い上げてしまうのです。
魔女にして、吸血鬼。ああ、なんと罪深い存在なのでしょうか。神様、ああ、今日も罪深い私をお許しくださいませ。
先日、司祭様の奨めで、贖宥状なるものを買わせていただきました。司祭様が仰るには、犯した罪を反省し、神と神の代弁者たる司祭様に罪を告白して“ゆるし”を得て、罪に応じた償いをすれば、罪が消えると伺いました。その証である贖宥状は神のゆるしを得た証。金貨を何枚積もうが惜しくはございませぬ。
これにて罪が洗い流され、我が身を清めていただけるのでしたらば、安いものにございます。
司祭様も神は真摯な振る舞いに喜ばれていると告げてくださり、天国の席次を優遇しようと教えてくださいました。
ああ、天国へ行く道を示してくれたのみならず、席次に御配慮していただけるとは、望外のことに存じます。神よ、どうか罪深い私をお見捨てなきようお願い申し上げます。
さて、罪が贖われたと清々しい気分のまま、今日もお仕事の時間がやってまいりました。
お客様に対して平等などというものはございません。なぜなら、一人一人の好みや性格が違いますから、画一的なもてなしなどないからです。何をお求めなのかは容易に把握できます。何しろ、私は魔女なのですから、軽く腕を回しただけで読み取ってしまいます。こういうときに、魔術というのは便利なものにございます。
それでもなお、特に大事なお客様という方がおられます。なにせ、その方に一睨みされただけで、我が家など跡形もなく消しとんでしまいますから、特に注意して、特に念入りに、一切の不快感なく、悦楽と平穏を与え、ご満足していただかなくてはなりません。
さて、その方が参られたようで、部屋の扉が叩かれました。
「お待ちしておりました。中に入られて下さいまし」
私は扉の向こうにおられるお客様に部屋に入るよう促しました。本来ならば、娼館の玄関先までお出迎えするのが常なのでございますが、今日来られる方は常を外されます。私との関係はこの部屋の中だけ。一歩でも部屋の外には持ち出さぬと仰せられ、このような形と相成りました。
部屋の扉が開かれ、お客様が入ってこられました。私は恭しく頭を下げ、お客様をお出迎えしました。
「ようこそいらっしゃいました、公爵閣下」
「うむ、魔女殿も息災でなによりだ」
私を魔女と呼ぶ者には二種類ございます。恐れと嘲りを込めて呼ぶ者、親しみと敬意を込めて呼ぶ者でございます。目の前におられるフェルディナンド様はもちろん後者にございます。
フェルディナンド様はこの国でも一、二を争うほどの大貴族ジェノヴェーゼ公爵家の当主であられます。年は私よりも少し年下で、快活な貴公子然とした立ち振舞いに、いつも宮中の女官達が噂話を賑わせているとか。
「さあ、魔女殿、今宵もとことん楽しみましょうぞ!」
そう言って、フェルディナンド様がお持ちになられたカバンから取り出されたのは白黒のモザイク柄の板と六種十六個の駒が白黒それぞれ一対ずつ。要するに、“チェス”にございます。
盤面で六種十六個の駒を使い、それぞれの駒の特性を活かし、王を先に倒すという遊戯にございます。三年ほど前から貴族の皆様の間で興じられて人気が出て参りました。社交場でも皆々楽しまれ、私も知人の方々が熱中しておられるのを何度も目撃いたしております。
昨年などはチェスの大会まで開かれ、私も飛び入りで参加いたしました。女にまともにできるのかと思われましたが、フェルディナンド様が面白そうだからと参加をお認めになられ、準々決勝まで勝ち進むことができました。
それでフェルディナンド様と対決することとなり、惜しくも敗れてしまいました。とはいえ、女でもここまでやれるのだなと皆様の認識を改めさせることができましたので、まあ、成功であったと自負しております。
その後もチェスの人気は熱を上げていく一方で、私も数少ない女の指し手としてお呼ばれされることも多々ございました。
フェルディナンド様もその例に漏れず、チェスをよく興じておられます。私の下へやって来て、こうしてチェスのお誘いを受けるのは何度目でしょうか。指では数えられません。
私は笑顔で机へと招き入れ、盤面と付随する駒を並べて参りました。椅子の横には葡萄酒を始めとする飲み物や、摘まめる食べ物をすでに用意してございます。フェルディナンド様が来られる日は最近いつもこうなのですから、手慣れたものです。
これにて、準備万端。さて、今宵も始めましょうか。
***
「チロールの件は本当によくやってくれた。感謝する」
コツン!
「いえいえ、滅相もございません。今少し穏便に終わらせれたかもしれませんのに、余計な手間をお掛け致しまして申し訳なく思っておりました」
カチッ、コツン!
「あれでよい。あの“ドラ息子”がゴタゴタを起こして、伯爵領がめちゃくちゃになるやもしれなかったからな。おかげで、程よく首輪を着けるための丁度よい口実になったわ」
カチッ、コツン!
「それにございます。あの時はうっかり失念しておりましたが、チロール伯爵家の分家筋が色々と騒がれましたとか。なにぶん、時間がありませんでしたので、そちらの方まで手が回らず、公爵閣下に動いていただくことになりまして、我が浅慮の不甲斐なさを恥じておりました」
コツン!
「あの程度で伯爵家の財を搾りあげれたのだ。得た物のことを思えば、手間暇の対価としては破格だよ」
コツン!
「そう言っていただければ幸いにございます。では、兵士をC5で王手でございます」
「んん~!?」
フェルディナンド様は身を乗り出され、舐めるように盤面を眺められております。駒の位置やこれから考えられる駒の動きを指で確認し、そして再び椅子に腰かけられました。
「あぁ~、これはいかん。詰んでる」
フェルディナンド様は降参とばかりに両手を上げ、それから駒を元に戻し始めました。
「ほれ、もう一回! あと一回だ!」
フェルディナンド様は人差し指をピンと立てられ、私に再戦を促されました。まるで無邪気な子供のようでございます。普段は張りつめた空気の中、魑魅魍魎渦巻く宮中や、血飛沫が舞う戦場を渡り歩いておられるのがフェルディナンド様なのです。唯一安らげるのが、ここか、もしくは奥方様の部屋しかないというのが憐れでなりません。
「またでございますか。公爵閣下、これで今宵は次で五回目でございますよ」
「ええい、勝ち逃げは許さんぞ。というか、以前の大会以来、私は一向に勝てておらんではないか。今宵こそ、勝つぞ。絶対に勝つぞ。勝つまでやるぞ」
むきになって勝負を挑む姿が、なんとも微笑ましく思えます。フェルディナンド様は若いながらも、立派に公爵家を切り盛りなされ、国政にも精を出されるお方。当然、敵も多く、隙を見せまいと毅然とした態度でいついかなるときでも応じられております。
しかし、この部屋の中だけは別。まるで純真無垢な少年のような瞳で、楽しい一時を過ごしていただけて、私としては仕事冥利に尽きるというもの。
「まったく、魔女殿はいつこのように腕前をあげられたのか。大会のときは五分であったのにな」
「いずれは優勝を目指してみようかと、研鑽を積みましたゆえ」
「う~む、見ておれ。今度は勝つぞ! ほれ、兵士のD4だ」
さて、先手後手を変えまして、勝負が再び始まりましたが、まあ、また私が勝つでしょう。むきになって突っ込んでもろくなことにならないのが、世の常にございますれば。
それに、私は相手の情報を抜き取る魔術を使えます。相手の癖や性格、頭の中にある棋譜さえ読み解けます。試合前に握手でもすればそれでおしまい。相手の情報を手にした状態で勝負をすれば、有利に展開できるのは必定。
一番確実なのは手を握ったまま試合うことでしょうが、色仕掛けは反則だ、とても言われかねませんので控えております。
今日はフェルディナンド様に触れてはおりませんが、今まで散々触れて触れられてを繰り返しております。それは舞踏会での舞踊から、床に入っての“合戦”まで、それはもう何度も何度も。ですので、特に問題もございません。最新のものではござしませんが、情報はもう仕入れてございます。
以前の大会の時はわざと負けたのですから。公衆の面前てフェルディナンド様を打ち負かしましては、相手の自尊心を傷付けるのみならず、顔に泥を塗りかねないことです。かといって、簡単に負けては手を抜いたと思われ、不快に感じられるでしょう。ギリギリで負ける演出には苦労いたしましたわ。
「公爵閣下はチェスが本当にお好きでございますね」
コツンッ!
「うむ。実際の戦場と違って、駒が予定外の動きをすることもないからな。分かりやすくてよい」
カチッ、コツンッ!
「人の感情は揺れ動くもの。その機微を読んでこその将ではございませぬか」
カチッ、コツンッ!
「まったくもってその通りだが、いつもそれでは気が滅入る。まして、いつも回りにおるのは、むさ苦しい男ばかりであるからな。美女と敵とは言え、戦場で相対するのは、華があってよい」
何気ない会話からも、公爵家当主としての激務とその徒労がうかがい知れるというものです。私としましては、その癒しの場として私の部屋を選んでいただけるの光栄であります。
それに、先程のまるで謀議をしているかの一幕。私がそれを聞いても問題ない相手、むしろ積極的に聞いてほしいと認識していただけるのは、信頼の証としては最上のものでございます。
「戦場に華が欲しいのであれば、奥方様と興じられてはいかがでしょうか? わざわざここにお運びにならずとも、御自身の邸宅にて美女とチェスを楽しめますよ」
コツンッ!
「あれはダメだ。良き妻であり、いい女ではあるのだが、頭の良い女ではないからな。前にチェスをやらせてみたが、全然ダメであったわ。一向に上達もせん。まあ、魔女殿がやはり、世間の女性とも貴族の御令嬢方とも一線を画す鋭敏な頭をお持ちなのだろうが」
ここまで評価をしてくださるとは、望外のことでございます。色々と骨を折って公爵家に取り入った甲斐があったというもの。フェルディナンド様個人への心証も良好。申し分ない状態でございます。
「お褒めいただき光栄ではございますが、奥方様も大切になさいませ。折角お世継ぎをもうけられましたのに、夫がこうして夜遊びに興じられていましては、私から申し上げるのも僭越ではございますが、不憫でなりませぬ」
コツンッ!
「ぬぅ、魔女殿に言われると、返す言葉もないわ。妻の事は気を付けるとしよう。明日からな」
「あらあら、まあまあ。公爵様が女遊びに未練タラタラにございますわ」
「むむ、なにやら、魔女殿は不機嫌であられるな」
「いえいえ、勝ち戦続きで傲慢になっているだけでございます。どなたか、私に敗北を味あわせてくれませんでしょうか?」
などと言っても、負けるつもりはございません。とことん追い詰めて、失意の撤退をしていただきましょう。お客様相手に不本意ではありますが、私は奥方様とも昵懇の仲。今宵は奥方様の肩を持たせていただきます。
「魔女殿がいつぞ、負けたなどと聞いたことがありませぬが」
「私とて未熟な時期もございました。若い時分にはよく泣かされたものでございますよ」
「ほほう。それは興味深い。その頃に出会っておれば、魔女殿の貴重な泣き顔や素顔を拝めたやもしれぬな」
カチッ コツンッ!
「涙はとうに枯れ果てました。魔女は泣いてはならぬのです。素顔は家族以外には見せませぬ。魔女とはそういうものなのです」
カチッ、コツンッ!
「ふむ。では、これから一生、拝むことはなさそうだな」
それを聞いて一安心。下手に求婚でもされようものなら、火消しにどれたけ労力を割かねばならぬか。その気が更々なくて安堵いたしました。
フェルディナンド様とは、あくまでこの部屋の中だけの関係。そう割り切っていただけるのが一番でございます。
情報を盗み出し、精を搾り上げ、金を頂戴する。悦楽を捧げ、平穏を渡し、ご満足いただく。それだけの関係です。親密に、それでいて程よい距離感を。私もフェルディナンド様も、それをわきまえての関係なのでございます。
「私をこれでもかと負かすことができましたら、案外涙のひとつは拝めるかもしれませんわ。では僧正をE2にて王手にございます」
「んんん~!?」
フェルディナンド様はまたしても身を乗り出して、盤面を眺められております。先程の女王を捨て駒にして引っかけたのが、余程堪えたようでございます。
フェルディナンド様、女に釣られてホイホイ前に出られては危のうございますよ。
「ああ、また負けた!」
「ホホッ、フェルディナンド様、これで私の五連勝にございます。いかがでしょう。場所を変えて、もう一合戦と参りませんか? 気持ちの切り替えと厄払いを兼ねまして。先頃の戦場にて、見事な槍捌きにて奮戦なさったと聞き及んでおります。ぜひ、こちらの戦場でも私に披露していただきたいものですわ」
私は視線を横にある寝台に向けました。もちろん、床の準備も万端整ってございます。娼館に来られましたら、遊びや会話も程々に、早々と床入りされる方も多いのでございますから。
そして、再び視線をフェルディナンド様に戻しまして、両肘を机の上に乗せ、手を頬に添え、目を細めてジッと見つめる。そして、いたずらっぽく、微笑みかける。はてさて、どう反応するのでありましょうか。
「う~ん、今日はどうも流れが悪い。潔く撤兵するとしよう。戦場を変えたところで、負け戦になりそうな流れだ」
「あらあら、それは大変でございますね。戦場にて負け知らずの公爵閣下が、よもや得意の槍捌きにて女子に後れを取ったとあれば、沽券にかかわると言うもの。無理な戦は避け、兵を安んじるのも名将たる資質にございますれば」
「はっは、よく言うわ。その名将相手に、一方的に打ち負かした魔女がここいらに住んでおるぞ」
「まあ、怖い。私、その方とお会いしたことがございませんので、是非お引き合わせくださいまし」
「鏡を見ろ、とだけ言っておこうか、魔女殿」
さて、これで今夜はおしまいにございますか。いささか物足りませんし、情報の吸い上げもできておりません。いくつか知っておきたい事件や出来事の真相や裏側を覗けるかと思いましたが、まあ次の機会といたしましょう。
それより今は奥方様の下へお帰りください。お世継ぎが生まれて日も浅いと言うのに、女遊びは関心致しませぬ。気分転換は必要でしょうが、どうか奥方様を大切になさいませ。
「では、お見送りを」
「不要だ。私と魔女殿はこの部屋の中だけの関係。外には決して持ち出さぬ」
これもいつものやり取りです。玄関先までお出迎え、帰るときは馬車が走り去るまでお見送り。これが普通なのですが、フェルディナンド様はこの部屋の扉でそれを済ませてしまうのです。決して見せない、私との二人だけの姿。私とフェルディナンド様の関係はこの部屋の中だけ。
「と仰る割には、舞踏会に私をお呼びくださいますわね」
「男爵の姉君、という名目で招待しているからな。娼婦や魔女として呼んでいるわけではない。なにより、煌びやかな舞踏会には華がいくつあってもよいではないか。凛と咲く白薔薇は美しい」
美しさをお褒め頂くのは喜ばしいことですが、白薔薇は好みではありません。
「白薔薇の花言葉は“純潔”でございます。魔女にして娼婦たる私には、最もふさわしくない花にござまいます。なにより、薔薇には棘がありますゆえ、うっかり触ると痛い目に会われますよ」
「薔薇には棘のない種類もあるぞ。なにより、美しけれれば、むしろ棘などそれを引き立てる飾りのようなもの。美しいだけの花よりも、余程刺激的でよい。毒さえなければな」
「まあ、それでは必死で毒を隠さねばなりませんわ。ですが、私の花は薔薇ではなく、野薊でございますわよ」
「結局、棘のある花ではないか!」
思わず私もフェルディナンド様も笑ってしまいました。棘があろうと愛でてやる、とは嬉しいお言葉ではございますが、やはり痛いものは痛いのでございますね。
「ああ、ファルス男爵の紋には野薊が使われているのであったな。花言葉はたしか、『素直になれない』であったか?」
「その下に『恋』が添えられております」
「おお、『素直になれない恋』か。棘が邪魔して、誰も摘んではくれぬ。棘が邪魔して、自分から抱き締めに行くこともできぬ。はてさて、魔女殿はどなたに対して素直になれないのであろうかな?」
「私はいつでも素直で正直に生きてございます」
もちろん、嘘でございます。私は何枚もの仮面を被り、その場面場面で姿を変えてございます。
今この場では、娼婦にございます。部屋を訪れた方をもてなし、ひと時とはいえ安らぎと楽しみを与えるのが私の仕事でございます。この場限りではございますが、私はあなた様の恋人なのです。
「ああ、公爵閣下、こちらをお忘れでございますわ」
部屋を出ていかれようとするフェルディナンド様を呼び止め、机の上に置かれたままのチェス盤を見つめました。先程の盤面そのままに。女王に釣られて飛び出した騎士が、裏をかかれて僧正に王様の寝首をかかれるドロドロした盤面。ああ、現実でこのようなことが起これば、さぞや大騒ぎとなることでしょう。
「いや、それはここに置いていこう。次にここを訪れるときまで、それは魔女殿が預かっておいてくれ。そして、次こそは勝ってみせるぞ」
「かしこまりました。次なる来訪をお待ちいたしております。ですが、これだけはお持ちくださいませ。本日唯一の戦利品にございます」
私は数ある駒の中から、“黒”の女王を摘まみ上げました。先程、誉れ高き騎士様を誑かしました、悪い女にございます。
私はそれをフェルディナンド様に差し出しまして、フェルディナンド様は笑いながらそれを受け取り、手にした“黒”の女王を見つめられました。
「指し手は白でも、駒は黒。魔女殿の本来のお姿は、いったいどちらなのでしょうかな?」
「どちらも私にございます。強いて申さば、この部屋にては白、外では黒にございます」
「それはそれは。私も悪い女子に引っかからぬよう、今後は気を付けるとしよう」
「公爵閣下、すでに悪い女子に引っかかってございます」
「ハッハッハッ、全くだ! ではまたな、魔女殿」
頭を下げた私を見ながら、フェルディナンド様は愉快に笑われながら扉を開け、そして部屋を出て行かれました。パタリッと扉の閉まるのを確認してから、私は頭を上げて姿勢を正しました。
いささか物足りなさを感じてはおりますが、本日のお仕事はこれにて終わりにございます。
***
私の部屋には私が一人。暖炉から漏れ出る音だけが、部屋の中に響いております。
物悲しさが広がる中、私は先程腰かけていました椅子に座ります。目の前の机には、先程のままのチェス盤と駒が並んでおります。ですが、“黒”の女王は部屋を出ていき、残っているのは“白”の女王。外の私と、ここの私。はてさて、それは本当なのでございましょうか?
魔女は黒で、娼婦は白。誰かが定めたことなどではございませぬ。それは勝手なる思い込み。もしやすると、逆なのかもしれませぬ。
花を手折る殿方の前では仮面を被りてしおらしく、心を秘めたる娼婦はあるいは“黒”か。
魔術を操り皆をだまして己の欲を満たす、心をさらけ出したる魔女はあるいは“白”か。
それはお話を聞いてくださいました皆様のご想像にお任せするといたしましょう。
しかし、皆様方、努々お忘れなきようお願い申し上げます。女子は迂闊に動かぬのが定石にございますが、生き残った女子は誰よりも早く、誰よりも強くなるということを。
長年連れ添われた伴侶のことは、どうか大事になさいませ。物言わぬ秘めた方ほど、棘が鋭いやもしれませぬ。
名残惜しくはございますが、今宵はこれにて終わりとさせていただきます。
寄らば大樹の陰と申しますが、私は誰かに寄り添い生きねばならぬ哀れな樹木。宿木にございます。今宵は私の寄り添う大樹のお話でございましたが、まだまだ伸びていかれるご様子で、寄生する樹として安心いたしました。
どうか、私が太陽に触れるまで、神の御許に辿り着くまで、存分に大きくおなりませ。私もそれに乗じて大きく高く上り詰めれますゆえ。
大層な物言いでございますが、私はあくまで高級娼婦。魔女で、女吸血鬼で、神に救いを求めて天を目指す哀れな一本の宿木でございます。
さてさて、次のお客様はどちらの方になるでしょうか。
チェスを伊語で“scacchi”と書こうとしましたが、分かりやすさ重視でチェスのままで書きました。
各種駒の呼び方もそのままです。