第十一話 貴族の戦場
どうも皆さま、初めてお会いする方は初めまして。以前にお目にかかられた方は、お久しぶりです。ヌイヴェルでございます。
私は高級娼婦を生業としておりまして、いわゆる上流階級の皆様方に寄生して生きている女吸血鬼でございます。皮肉めいた自己紹介となりましたが、実際のところ、私は魔術を行使できる魔女なのでございます。
どのような魔術なのかと申しますと、触れ合った相手から情報を抜き取る《全てを見通す鑑定眼》という魔術でございまして、触れ合う肌や時間が長ければ長いほど抜き取れる情報も多くなってまいります。
しかも、相手からは抜き取られないという防諜まで備わっておりまして、《永続的隠匿》という情報遮断の魔術まで身に付けてしまいました。つまり、私は自身の手の届く範囲ではございますが、身近におられる方々から断りもなく気付かれることもなく情報を吸い上げてしまうのです。
魔女にして、吸血鬼。ああ、なんと罪深い存在なのでしょうか。神様、ああ、今日も罪深い私をお許しくださいませ。
さて、皆様。私などが口にするのも今更でございますが、順番や手順というものは非常に重要なものでございます。ここぞという場面にてそれを疎かにしたばかりに、全てが台無しになってしまうなどままあることでございましょう。
特に、わたくしが身を置きますのは貴族という名の人の皮を被った魑魅魍魎が跋扈いたします、上流階級の社交界にございます。醜悪な噂が、口外できぬ金銭が、ときに血生臭い一刺しが、舞台の表に裏に繰り広げられる場所。悲劇と喜劇が幾度となく繰り返される、そういう世界にございます。
普段は娼婦として、ごく一部の貴族や富豪の相手をしていればよいのですが、ごく稀に社交界へと呼び出されることがございます。私自身は爵位などは持ち合わせておりませんが、従弟のディカブリオが男爵位にあり、その姉もということでお招きに与るのでございます。
さてさて、今日はそんな華やかな宴の席での一幕をお話いたしましょう。
***
その日はジェノヴェーゼ公爵フェルディナンド様の奥方様であられますジークリンデ様の御生誕日ということで、お屋敷で宴が催されるとのこと。我がイノテア家もその招待を受け、公爵様のお屋敷に向かっております。
走る馬車の中には三人。私と従弟のディカブリオ、従者のアゾットでございます。
招待されましたのは男爵位にありますディカブリオのみでございますが、従者、付き人名目で二名の随伴を認める旨も、招待状に記されてございました。
知己であるフェルディナンド様であるならば、この二名に誰を入れるか知れているのでございましょうし、実質私とアゾットも招待されたということでございます。
もし、ディカブリオの妻であるラケスが身重でなければ、私の席を譲っていたでしょうが、今は体を大事にする時期でありますし、今回は自邸にて身を安んじております。
「さてさて、今日はかなり深みにはまる要素がございますからな。なるべく、穏便に終わってくれればよいのですが」
揺れる馬車の中、面倒くさそうにぼやくディカブリオ。気持ちは分からぬでもないが、男爵家当主として、覇気ある姿を皆に見せて欲しいものです。
「アゾットや、おぬしはこういう席は初めてであったな?」
「はい。貴族の邸宅には往診で訪問したことはございますが、宴席に入り込むのは初めてでございます」
緊張した声から、やはり物怖じしているのが分かります。普段の医者の装いや道具はなく、今はそれ相応の着飾った姿をしております。素材は悪くないゆえ、今少し平静を装えるようであるならば、貴族の三男坊くらいで通すことはできそうですね。
「よいか、アゾット。これから赴く先は“戦場”じゃ。招待状には生誕日を祝う宴じゃと書いてあるが、そんなものは人を集めるための適当な名目。そのことを頭に入れておきなさい」
「はあ、“戦場”にございますか」
いつもの機微を感じられぬ間の抜けた声。まあ、初めて赴く空間に、多少の警戒や恐怖を抱くの無理はないでしょう。
「そうじゃな、アゾット。例えば、おぬしが王様としよう。新しい制度を設け、法律を発布しようとしていると仮定する。さて、どうするのじゃ?」
「そのまま法務官を通じて、御触れを出せばよいのでは?」
「それではダメじゃ。もし、その新制度において、貴族の権益を損なう内容であったならば、当然反発が出るであろう」
「・・・つまり、事前の根回しが必須であり、それが宴席の真の目的であると?」
私は頷いてアゾットの問いかけに応えました。そう、それこそ真の目的。
宴の席とはそういうことをする場なのでございます。どういう法案が出され、どういう内容のものなのか。それに対して、そのまま出させるべきなのか、修正を加えるべきなのか、それを決めるのが宴会場というわけなのでございます。
北の国では“議会”なるものが存在し、選出された有力者が話し合い、その際に合議によって取り決めがなされると聞いておりますが、そのようなものは私共の国にはございません。すべては王族貴族の間で行われます“綱引き”で決するのです。
それが宴の席というわけです。宴会場こそ、我が国の“議会”であり、財力、人脈、人望、武力が絡み合うあの空間こそ、最高決定機関なのです。
「招待する側が見せつけてくるのじゃ。どういった人物を招待したのか、どれだけの人数を集めたのか、どれだけの豪勢な酒や料理を用意したのか。そして、見せつけた上で圧をかけてくるのじゃよ。『もちろん、こちらの意に従ってくれるのであろう?』とな」
「なるほど。それは難儀にございますな」
ええい、こやつめ。従者であるから意思決定には関係ないとはいえ、今少しこっちの気苦労を気遣わぬか、まったく。
「しかも、今回はチェンニー伯の一件から日が空いておりません。あれの後始末、いえ、死骸漁りとでも申しましょうか。それの争奪戦でしょうな」
ディカブリオの申す通り。それこそ今回の懸案事項。できれば、関わらずに終わらせたい。
「そうでございますね。あの一件で新派閥の立ち上げが消え去り、チェンニー伯に近いし方々が浮いている状態。それを自派閥に抱え込むというわけですか」
「アゾットや、理解が早いのは結構じゃが、それならもう少し気遣わぬか。公爵閣下に揉み手をするのはいつものことじゃが、勧誘作業までよろしくとなるとさすがにな」
頭が痛くなってまいりました。こうも陰鬱な宴の席も例はありますまい。見た目は華やかでも、一皮むけばそこは悪魔と魔女の集会場。魔女たる私が言うのもあれでございますが、近寄らない方が心を平静で保てましょう。
「まあ、ぼやいても仕方はあるまい。ディカブリオ、おぬしは公爵閣下の御機嫌取りを任せる。私は奥方様の方を篭絡して参る。アゾットは私の供をせい」
そうこうしているうちに馬車はお屋敷に到着。そして、門前での馬車の待機列に巻き込まれました。まったく、フェルディナンド様もとにかく呼べるだけ呼んだといった風情。とんでもない数の客でございます。
「なんと申しますか、とんでもない数でございますね」
「威を示す、数はすなわち力じゃよ。これだけの客人を招いておれば、誰でも驚くじゃろうて」
長々続く馬車の列を見て、私は改めてフェルディナンド様の実力を思い知らされました。自身の智謀には多少の覚えはございますが、そのような小細工など必要のない圧倒的な力。これが公爵家と男爵家の格の違いなのでございます。
「っと、あれはまさか、ヴォイアー公爵では!?」
外を眺めておりましたアゾットが、列を追い抜いていく大きな馬車を見て驚きの声を上げました。印された家紋がヴォイアー公爵家のそれであったからです。
まあ、驚くのも無理はありません。ヴォイアー公爵と言えば、フェルディナンド様のジェノヴェーゼ公爵派最大の政敵。つまり、政敵の招待に応じ、足を運んできたというわけですから。
「先程も言うたが、威を示す、じゃぞ。最も見せつけてやりたい相手を呼ばずにどうする?」
そう、威圧するのはヴォイアー公爵派の面々に対してが主目的。自派閥の結束を誇示する一方で、政敵相手には威圧する。今宵の宴にはこちら側の面々は当然として、あちら側の人間も数多く招待されてございます。
例え、敵対する派閥であろうとも、宴の席には呼ぶのが礼儀にございます。呼ばねば無礼だと思われ、逆に招かれて行かねば肝が小さいと嘲られる。裏で暗闘を繰り広げていたとしても、そう言った嫌な評判は避けるべきなのです。
「アゾットも覚えておくがいいぞ。貴族の付き合いとは、“表面的”には皆、仲良しなのだ。余程の事がない限りは仲間外れなど作らない。誰とでも握手する。だが、忘れるな。右手で握手をしながら、左手で相手の杯に毒を入れるのが貴族という生き物だ」
ディカブリオの忠告にアゾットはわざとらしいくらい身震いして、恐ろしいものですなと呟いた。まあ、元いた貧民街とは違う怖さがあると思い知ったのでしょう。貴族の住まう上流階級の社交界とはそういうものなのです。
***
ようやく馬車の渋滞を抜けまして、宴の会場となる城館の大広間へとやって参りました。
会場に入ると、そこには煌びやかな衣装に身を包んだ人々があちらこちらで輪を作り、方々の人々を眺めては品定めの最中にございました。無論、入って参りました私にもいくつもの視線が突き刺さって参ります。
私は全身白一色の特異な容貌ゆえに、顔と名前を知らぬ者がおらぬほどの有名人でございます。もっとも、視線の半分は魔女風情がと嘲りや嫌悪を向けて参りますが、そんなことなど手慣れたもの。にこやかな笑みでご返答です。
そのような輩をいちいち相手にしていては、朝日を拝むまでに終わるかどうかも怪しいものでございます。
「では、そちらは任せたぞ」
ディカブリオは承知しましたと無言で頷き、遠目に見えるフェルディナンド様の方へと向かっていきました。そして、私は従者たるアゾットを連れ、奥方様の方へと進み出ます。
「ほれ、アゾット、あまりキョロキョロするでない。始めて来ました感が出ておるぞ。物珍しいのも分からんでもないが、大の大人が羽目を外し過ぎるてはなりませんよ」
少々落ち着かないアゾットを窘め、奥方様のいる場所から少し離れた壁際に立ちました。
「挨拶に参られないのですか?」
「馬鹿者。正面から挨拶に行けるほど、私が上の立場かと思うておるのか!?」
これは失敗。どうせ私の後を付いてくるだけと思うて、そこまで熱心に社交界での作法を教えておらなんだのが悪かったわ。
「使番などの一部のお役目持ち以外は、“目下”が“目上”にいきなり話しかけるのは無礼なのじゃ。おぬしは医者であるから、人目を憚る必要のない寝室などでの診察をしておるが、今この場のように人目のある場所では序列が何より優先される」
私は顎を軽く動かし、ジークリンデ様の方を見るよう、アゾットに促しました。
「よいか。今、ジークリンデ様の周りにいる方々を見てみよ。皆、ジェノベーゼ公爵派の重鎮の御身内ばかり。夫人ないし御令嬢じゃな。それに対して、私は爵位なしの“付き人”。男爵の添え物扱いなのじゃ」
むしろ、こうして会場に入れているだけで、公爵様に御配慮いただいていると考えねばなりません。
「そうなりますと、私は添え物の添え物になりますか」
「また軽口を叩きおるが、まあ、そういうことになるかのう。であるからして、あのお喋りが終わるまで、こちらはひたすら待機なのじゃ」
派閥の上の方々もその辺りは心得ておりますので、順々にお声がけをして参ります。集まっている方々へなんの挨拶もなしでは、上に立つ者の器量を疑われてしまうからです。
「まあ、それにも順番というものがある」
「爵位持ちが他にもいらっしゃいますからな」
「うむ。爵位の高さや、派閥への貢献度は言うに及ばず、公爵閣下や奥方様の好み、果てはその場の気分で、話しかける順番が前後する。見たところ、我らに話しかけてくるのは、まあ二十番前後かのう」
そんな理由から、壁際での待機でございます。正面から話しかけるのは失礼でございますから、さりげなく見えそうな位置に陣取り、話しかけられるのを待ちます。
こういう時には、私の得意な容姿が役立ちます。こんな姿の者はおりませぬゆえ、会場のどこにいようとすぐに見つけることがてきるのです。
「ヌイヴェル殿、ヌイヴェル殿ではございませんか」
不意に声をかけられましたので、声の方を振り向きますと、そこには見知った顔がございました。
「これはこれは、ボーリン男爵様。お久しぶりにございます。クレアお嬢様のお加減は、その後いかがでありましょうや?」
「すっかり良くなって参りました。それもこれもヌイヴェル殿の御助力あればこそ。改めてお礼を申し上げます」
相も変わらず、礼儀正しく腰の低い御仁でございます。まあ、娘二人が世話になったと思えば、頭の一つも下げて参りましょうか。
「クレアお嬢様が元気になられたのはなによりでございます。リミアお嬢様も歌の方がメキメキと上達なさっておいでとか」
「まさか、ヌイヴェル殿からの勧めで、歌劇歌手を目指すことになろうとは。しかも、公爵閣下までお口添えいただいて・・・」
「才ある者にはそれに相応しい舞台を、と思っただけのことでございますわ」
実際、リミア嬢は極上の才覚をお持ちでございました。魔女の使い魔などでは収まり切らぬほど恵まれた才覚。捨て置くのはもったいないことでございます。
さて、そのようなことがございましたので、社交界ではボーリン男爵家が密やかに噂に上がるようになってございました。というのも、公爵閣下が直々に口添えして、リミア嬢を歌劇歌手の下へと弟子入りさせたと言うのでございますから、相当なお気に入りか、あるいは余程の才能があるのか、そう人々は噂しているのでございます。
無論、これを狙って、わざわざ公爵閣下に口添えを頼んだのでありますから、狙い通りに事態が動いてくれて心の中では思わずニヤけております。巣立った小鳥は、いずれ太陽のごとく輝くことでしょう。
その余波と申しますか、ボーリン男爵様もすっかりジェノヴェーゼ公爵派の一員とみなされるようになったのでございます。誰も誘いに来ないほどの小領主が、今や人々の話題に出てくるほどに注目を集めてございます。
もし、よければ、姉妹揃って私が縁談を取りまとめてみるのも面白いやもしれませぬ。その機会があれば、全力で貴公子との良縁を取り持ちましょう。
姉の方は傷物ゆえ、その辺りの事を気にせぬ、寛大なお優しい御仁を探さねばなりません。
妹の方は、うむ、できるだけ長引かせたいものです。そう、“お馬さん遊び”の件が時間によって忘却の彼方へと追いやられるその日まで。
「ああ、男爵様。そういえば、ご紹介したい御仁がございます。よろしいでしょうか?」
「ヌイヴェル殿のご紹介ならば喜んで」
ボーリン男爵様をお連れして、音楽を奏でる奏者の一団の脇で談笑されている一人の女性の所へと足を運びました。
「アイラ様、よろしいでしょうか?」
私は女性に声を掛けますと、相手はにこやかな笑みと共に私の手を握って参りました。
「おお、誰かと思えばヌイヴェル嬢か。お久しぶりですね」
アイラ様は五十に届こうかという齢を重ね、年を感じさせぬ圧倒的な歌唱力を誇る我が国でも一、二を争うほどの女性の歌劇歌手でございます。
「私が預けました小鳥の様子はいかがでございましょうか?」
「非常に良い声で囀るものじゃ。公爵閣下直々のお声がけゆえ、どのようなものかと思っておったら、推挙に納得するほどの声量でしたわ。今少し研鑽を積めば、舞台にも上がれましょう」
「それはなにより」
私としても、師であるアイラ様よりリミア嬢の現状を聞けて大満足にございます。お預けして正解でございました。早くあの歌声が皆を魅了する姿を見てみたいものです。
「ただ、少し気になることが」
「どのようなことにございましょうか?」
「熱心に練習に励むのはよいことなのですが、自主的な練習で歌う際には、なぜか魔女か銭に関する歌ばかり歌っているのですよ」
すみません。本当に申し訳ありません。どう考えても、私の影響でございます。魔女はともかくとしても、私はそこまで銭に執心というわけではないのでございますが、これは困りものです。そのうち、修正してやらねばなりませぬか。
「それはさておき、本日はその可愛らしい小鳥の親鳥をお連れ致しましたわ」
話題を逸らしましょう。妙な詮索でも入りかねません。
「アイラ殿、御高名はかねがねお伺いいたしております。リミアの父で、オデロ=セヴァスト=デ=ボーリンと申します。いつも娘が世話になっております。中々挨拶にも伺えず、こうしてお話しできましたことに感激いたしております」
やはり腰が低いですわね、この御仁は。アイラ様は元は男爵家の末娘で、いわゆる相続から漏れた“あぶれ者”。親戚の紹介で歌の世界に飛び込んで、ここまでのし上がってきたのです。有名人ではございますが、爵位無しの平民扱い。この場にいますのも、私同様、フェルディナンド様のお気に入りでありますからです。
それでも、男爵家の当主が丁寧に接しますは、やはりその温和のお人柄でございますね。爵位、家柄がすべてと思っている俗物などよりかは、余程好感が持てますわ。
「おお、ボーリン男爵様、これはご丁寧な挨拶、痛み入ります」
アイラ様も笑顔で応じられ、お二人で話され始めました。
宴の席では、普段は顔を合わせぬ者同士が繋がりを持つ良い機会なのです。こうして縁繋ぎをして、仲を取り持つのも重要な案件。いざ、自分が誰かしらとお近付きになりたい際には、こうした積み重ねが活きてくるのでございます。
貴族社会は人脈がものを言う世界。縁結びの天使を演じる魔女というのも、一興にございましょうか。
「ヌイヴェル殿」
私は声をかけられましたので振り返りますと、そこに立っておられましたのはジークリンデ様でございました。数名の侍女を引き連れて、私に微笑みかけて参りました。
バカな、早すぎる。あれからさほど時間が経っていないと言うのに、私にお声掛けなど。時間の事を考えますと、五番手にも届いていないはず。予想していたよりも明らかに早い。
しかも、ボーリン男爵様をアイラ様にご紹介するため、場所的には離れておりました。近くを通りかかって気まぐれに話しかけたというのでもありません。確実に狙いを定めて話しかけて来られたということ。目立つ容貌が役に立ちましたか、はたまた事前にフェルディナンド様に言い含められておりましたか、いずれかでありましょう。
「これはこれは、公爵夫人、わざわざのお声掛け恐縮にございます。このようなめでたい席にお呼び下さりましたことを、まずはお礼申し上げます」
私はジークリンデ様に恭しく頭を下げ、また近くにおりましたボーリン男爵にアイラ様、アゾットもそれに続いて頭を下げました。
近くで音楽を奏でておりました奏者達も、気を遣って音調をゆったりとした静かな曲に変えてまいりました。さすがはアイラ様お抱えの楽団。その辺りの機微には聡い。
「アイラ殿にボーリン男爵、それにアゾット医師も息災でなにより」
再びのお声掛けに、私も皆も一斉に頭をもう一度下げました。
実を申しますと、こういう“裏道”もあるのでございます。自分だけではお声掛けの順番が遅い場合、早く回って来る有力者の“腰巾着”になるのです。なにしろ、近くにおりますれば“ついで”で話しかけられる場合が多々ございますので、こういう場面ではそれとなく有力者に近付いてそれとなくお喋りをして、さり気なく御相伴に与るのでございます。
よくよく考えてみれば、今この場におりますのは、公爵閣下のお気に入りの面々。私は愛人兼“裏仕事”のお手伝い係。アゾットは腕利きの医者。アイラ様は歌劇の歌手。
ボーリン男爵は娘の七光り。とはいえ、その娘はまだ天へと上がってはおりませぬが、太陽となる存在。さらに輝きが増すことでございましょう。
「アゾット、前は大変苦労をかけましたね。おかげで、体に翼でも生えたかのように軽くなりました。また何かあったときは頼みますね」
「ハハッ。一声おかけ下されば、直ちに馳せ参じます」
以前、ジークリンデ様は熱病にかかられ、危うく命を落としかけたことがございましたが、それを救ったのがアゾットでございました。それ以来、アゾットは貴族の間でも類稀なる名医として、方々に往診に出かけるようになりました。
それからというもの、医学薬学の後進国であります我が国において、医者の地位が少しずつ上がってまいりました。貴族の中には相続が少ない三男坊などを大学に通わせ、医者に仕立てようかという動きが見られるようになりました。
それは結構なことでございますが、我が家のアゾットの引き抜きだけは御勘弁ねがいたいものです。アゾットの口からどこそこの貴族から誘いがあったと聞く度に、肝を冷やす思いでございます。まあ、従妹という鎖がある以上、そう簡単には引き剝がせませんが。
「おぬしが我が家のお抱えにでもなってくれると助かるのですが」
ジークリンデ様、それは本当に勘弁してください。アゾットを医者に仕立てるのに、結構な額を使っているのです。どうか引き抜きだけは止めてくださいまし。
投資した額を考えますと、まあ、アゾットに関しての費用対効果はとても良いでしょう。各方面の貴族の方々への評判に加え、こうして公爵家とより懇意になれましたことを考えれば、破格と言ってもよいかもしれません。
それだけに、引き抜かれることだけは防がねばなりませぬ。
「申し訳ございませぬが、我が身はイノテア家と共にございます。ヌイヴェル様を始め、イノテア家の方々にはお返しできぬほどの恩義がございますれば、なにとぞご容赦ください」
よう言うたぞ、アゾット。それでよい。おぬしにはまだまだ働いてもらわねばならぬのじゃ。医者として、従者としてな。
「公爵夫人、折角の祝いの席でございますので、本日は差し上げたい品をご用意したしております」
ここで透かさず、話を切ってしまって、別の話題へと移します。引き抜きの件はさっさと忘れていただきましょう。
アゾットに持たせておりました木箱を受け取り、それを開けて中身をお見せしました。中身は二枚の金貨でございます。
「ほほう。古代帝国金貨か。これは帝王の肖像で・・・、こちらは忠臣の肖像の物か」
「左様でございます」
どうやら興味を惹かれたようにございます。
ジークリンデ様は大の読書家で、特に最近は古代帝国に関しての書物を読み漁っておられることを耳にしておりました。ならば、それに関する物をと考え、この二枚の金貨を贈り物として用意したのです。
「御生まれになられました御子が、いずれは帝王のように偉大で、歴史にその名を刻まれますようにと願いを込めて贈らせていただきます。また、非才弱小の身なれど、忠臣のごとき献身をもって、我がイノテア家も尽くさせていただきます」
ジークリンデ様ではなく、お世継ぎの方を褒める。可愛い我が子を持ち上げられて、喜ばぬ母親はおりますまい。攻め口があれば、そこから大穴を開けて、感情を溢れさせるなど簡単にございます。
まあ、物は言いようでございます。とにかくご機嫌を取って、こちらに有益な話を振っていただくのが目的でございますので、この程度の揉み手やおべっかなど、造作もございません。
そうそう、右手で握手をしながら、空いた左手で何かをするのが貴族という生き物。私も半分はそのお仲間なのですから。
ちらりと眺めますジークリンデ様の顔は平静を装い、よく隠しておられますが緩むのを抑えている様にございます。どうやら、効果はあったご様子。硬貨だけに。
「大層な贈り物をありがとう、ヌイヴェル殿。お心遣い、受け取らせていただくわ」
ジークリンデ様は侍女に命じて箱を受け取らせ、その場を離れていかれました。私共四名は気配が無くなるまでジッと頭を下げてその場を動かず、落ち着いてから顔を上げてお互いを見やりました。
「予想以上に早かったでございますな。主がここまでの大外れを予想するなど、初めてのことにございますな」
まさにアゾットの言う通り。まだまだ順番は先と油断しておりました。
この私共四人は、娼婦、医者、歌手、新顔の男爵、という異色の組み合わせ。どう考えても早々と声をかけられる一団ではございませぬ。
そこでふと気付いたことがございまして、視線を離れたところにおりましたフェルディナンド様に向けますと、僅かではありますが視線が合ってしまいました。そして、なにやらニヤけている雰囲気を出しておりました。
ああ、なるほど。そういうことでございますか。あらかじめ奥方様に言い含め、私の順番を早めに回し、慌てふためき驚く様が見てみたかった、と。
まったく、このような場所で子供じみた悪戯を仕掛けてくるとは、公爵とは思えぬ所業にございます。今少し、心に大いなる志とやらを抱いてくだされ。
それに、周囲の視線がいたいでございます。奇異の眼差し程度であればよいのでございますが、明らかな妬みや蔑みが入った視線が飛んできております。
特に、ヴォイアー公爵派のお歴々の視線が怖いこと怖いこと。娼婦風情を厚遇するのかと、そう言わんばかりの敵意ある視線が向けられております。
そこへ、ヴォイアー公爵自身が加わられ、益々突き刺さる視線に鋭さが増してきました。
敵意を向けるのは止めていただきたいものでございます。私は魔女などと称してはおりますが、お客様を喜ばせる手管に長けたただの一娼婦にございますよ。
ほんの少しばかりお手伝いをして、伯爵家を三つばかり食い潰しただけでございますよ。あなた様の向う脛を蹴飛ばしただけではございませぬか。どうか敵意など抱かないでいただきたい。
などと考えておりますと、会場の入り口の方が俄かに騒がしくなっておりました。何事かとそちらに視線を向けますと、二人の人物が会場に姿を現しました。一人は老紳士、もう一人は貴公子。
そして、私はその二人を見るなり、うわぁ、と思わず声が漏れそうになりました。なにしろ、その御二方は私の“天敵”でございますから。
老紳士はキョロキョロと何かを探して視線を左右に動かし、そして、私と目が合いました。
「おぉい、ヴェルの嬢ちゃん、久しぶりじゃのう!」
どうして、そのような会場全体に通る大声で私を呼ぶのでございますか。しかも、愛称の方で。やはり、この老人は苦手でございます。
よく見ると、フェルディナンド様も笑っておられます。ああ、そうでございますか。今宵の悪戯はあちらのご老人の差し金にございますか。フェルディナンド様は私の困る姿を見たくて、それに敢えて乗った、と。
老紳士と貴公子はこちらに歩み寄って来られ、私は頭を垂れてそれをお迎えいたしました。
「久しぶり、久しぶりじゃあ、ヴェルの嬢ちゃん」
私の肩を馴れ馴れしくポンポン叩き、話しかけて参りました。ゆっくりと頭を上げて、老紳士の顔を見ますと、これでもかという笑顔でございました。
「ジャコモ様、お久しぶりにございます。相も変わらず、齢を感じさせぬ壮健ぶりには感心させられます」
老紳士のお名前はジャコモ様。先々代のジェノヴェーゼ公爵家当主の弟で、フェルディナンド様から見ますと大叔父という御仁にございます。
齢八十に届こうかという御老人ながら、性格は豪放磊落が服を着て歩いているようなもの。底抜けの明るさを纏った老紳士という風采でありますが、それは表面的な姿。この御仁はこの笑顔を崩さずにどんな凄惨な所業をこなせる悪魔を心の内に飼っておられます。
なにしろ、半世紀以上に渡って公爵家の“暗部”に携わり、それに仇なす存在を表に裏に葬ってきた公爵家の密偵頭であり、軍師であられます。己の頭脳だけで私の魔術を超える洞察力と知略の冴えを身に付け、裏からジェノヴェーゼ公爵家を支えてこられました。
そして、私の師であります祖母とは“悪友”と呼んでも差し支えない御方。言ってしまえば、ジャコモ様に侍っておられます貴公子、アルベルト様と私のような関係。二人で肩を並べて相当な“悪さ”を繰り返したそうでございます。
我がファルス男爵イノテア家と、ジェノベーゼ公爵オメデーア家の関係の始まりは、祖母とジャコモ様の“悪さ”から始まったと言っても過言ではございませぬ。
「しかし、珍しいでございますね。ジャコモ様にしろ、アルベルト様にしろ、こうした宴の席に顔を出すことがございませんのに」
そう、このお二人は暗部の住人でございまして、宴の席にはほとんど顔を出されることがございません。出てきたからには、何かしらの重要な御役目があるのかもしれません。
「なんのことはない。嬢ちゃんに会いに来ただけじゃよ。招待されているときいてな。ワシもいつお迎えが来るかもしれぬ爺ゆえ、孫みたいなおぬしにささやかな贈り物をと思ってな」
「その贈り物とやらが“これ”でございますか」
はっきり申しますと、とんでもない厄介な贈り物でございます。
それは“人々の注目”。たかが一娼婦風情が今日の主役である公爵夫人から真っ先に声をかけられ、普段顔を見せぬ公爵家の知恵袋から懇意にされる。これだけでも人々の注目は集まるというもの。
実際、人々の視線は私に集まっております。九割の『なんで?』と、一割の『さもありなん』という視線でございます。理解されている一割の方々は私の悪戯について多少知っている方々でありましょう。残りの九割の方には、噂や憶測が入り込む混沌を生み出すことでありましょう。
ああ、特にヴォイアー公爵派の視線が痛すぎます。敵意を通り越して、殺意すら含んできております。まあ、恨み骨髄の密偵頭と仲良く話しておりますれば、それもやむなきことでありましょうか。
ジャコモ様、私は人畜無害な一娼婦。あまりに重すぎる贈り物でございます。もう少し軽いものでお願いいたします。できれば金子か宝石で。
「気に入ってもらえたかな、嬢ちゃん」
「ジャコモ様、私はもう三十も半ばに入ろうかという年齢にございます。嬢ちゃんはさすがに気恥ずかしい呼び方でございますわ」
「ワシの目に映る姿は変わっておらぬ。初めて会った頃となんら変わってはおらん。そう、あの頃のままの“おてんば”じゃ」
豪快に大笑いしながら、ジョコモ様は私の前から去って行かれました。
ジョコモ様と初めてお会いしたのは十一の頃でありましたか。祖母に連れられ、初めて社交の場に参りました初陣の日。キョロキョロ落ち着かぬ私の前にいきなり現れましたのはあの御老人。そうですか、あの頃と変わりませぬか。
まあ、あの御仁に比べましたら、私などはまだまだ色白な少女のまま。白い殻をお尻に付けたヒヨコでありましょう。
「姉上、よろしいでしょうか?」
物思いにふける私に話しかけて参りましたのはディカブリオ。
「おお、そちらも公爵閣下とのお話は終わりましたか?」
「ええ。それと、公爵閣下が姉上をお呼びです」
今度はそちらでございますか。まったく、次から次へと私を弄んで。
などとは顔にも出さず、公爵閣下の呼び出しに応じまして、笑顔と共に御前に参じました。頭を下げ、声がかかりますのをお待ちしました。
「おお、よく来た、魔女殿。そう畏まらずともよい」
声の調子はご機嫌そのもの。宴の“舞台裏”も順調なご様子。なるほど、ヴォイアー公爵の渋い顔も納得でございます。
ゆっくり顔を上げますと、やはり満面の笑みで出迎えていただけました。
「お呼びにより参上いたしましたが、いかなるご用向きにありましょうか?」
「うむ。そろそろ舞踊が始まる時間ゆえ、おぬしに好きな相手を見繕ってやろうと思ってな」
ああ、そういうことでございますか。私も独り身ゆえ、気兼ねなく踊りの相手を紹介しようということでありますか。
「でも、私はなしにしてくれ。妻に怒られてしまうわ!」
フェルディナンド様の冗談に周囲も私も笑ってしまいました。まあ、さすがに奥方様の前でフェルディナンド様と踊るつもりはございません。無用な諍いの種など、蒔くべきではありませんわ。
「では、独り身の殿方でしたらば、誰でもよろしいということでしょうか?」
「うむ、構わんぞ。この場におる者であれば、誰でも許可を出そう」
「では、アルベルト様を選びとうございます」
私の一言にその場がざわめいてしまいました。まさかの意外な選択、そういう雰囲気が場の空気に満ちております。私とアルベルト様の“裏の顔”を知っているのでありましょう。あるいは、アルベルト様の“黒い手”の件かもしれませんが。
私としては、むしろ順当な選択だと考えましたのに。
「ほほう。アルベルトを選んだか。魔女殿にしては控えめな選択よな」
「控えめでありましょうか?」
「うむ。てっきり、ヴォイアー公爵を選ぶと思っておったわ!」
ここで再び大爆笑。場の空気が一変してしまいました。さすがはフェルディナンド様、微妙な空気を笑いで和ませてしまうとはさすがです。
そういえば、ヴォイアー公爵様は奥方を亡くされてからはここ数年、独り身を通されておりましたか。まあ、さすがにかの御仁をお誘いするほど、私は図太くはありません。
「ではまあ、アルベルトと踊って参れ。しかと、あの奥手者を口説いてみせよ」
許可は下りましたので、私は早速にアルベルト様の下へと向かいました。会場の隅の方で一人、壁にもたれかかっておりました。
アルベルト様はお寂しいお方です。《腐男》の二つ名で呼ばれておりまして、そのことをとても気にしておられます。
アルベルト様は魔術の使い手であり、その術の名は《腐食する黒い手》。効果は『黒い手に触れた物は空気と植物以外のすべてを腐食させる』というものです。鉄を掴めばたちまち錆に覆われ、人を掴めば壊死させる。とんでもない攻撃的な術で、普段は危ないからと綿の手袋で覆い隠しているのです。
忌み子として嫌われ続け、親からも捨てられそうになったほどです。それゆえに、“普通”の人間として接してくれたフェルディナンド様とジャコモ様以外には決して心を開こうとはしませんでした。
私やディカブリオもジャコモ様からの御依頼で友人になってくれと頼まれ、“普通”に接してございます。ただ、アルベルト様にとって“普通”に接してくれるのがどれほどのものなのかは、さすがに怖くて聞いてはおりませんが。
「アルベルト様、舞踊のお誘いに参りました」
いきなりのお誘いに、アルベルト様は目を丸くして驚かれたご様子。まあ、私のような年増女では、貴公子のお相手として不足やもしれませんが。
「いえ、私はそういうことをしたことがございませんので」
「ご安心ください。公爵閣下からは御許可をいただいております」
私がフェルディナンド様の方を振り向きますと、アルベルト様に向かって手を振っておられました。どうやら踊れという催促のようでございます。
私は手袋を外し、あえて白い肌を晒して、その手をアルベルト様に差し出しました。
「ささ、この手を掴んで皆の前に連れて行ってくださいまし」
私はにこやかな笑みを浮かべますが、アルベルト様は躊躇っておられます。それほどまでに、ご自身の術が怖いのでございましょう。なにしろ、黒い手で掴んだ物をすべて壊してしまうのですから、親しい人間ほど掴みにくいのでありましょう。
まして、今の私は素手でございます。なおのこと、掴みにくいかもしれません。
例え、自身の手を綿製の手袋で封印していようとも、やはり躊躇ってしまうものなのでございましょう。
「踊ってやれ」
いきなり話しかけて参りましたのはジャコモ様でございました。気配もなくいきなり背後から話しかけられるのは、さすがに心臓に悪いですわ。
「まあ、わしもカトリーナとは踊ったものよ。たまに、じゃったがな」
カトリーナは私の祖母の名前。祖母もよくもまあ、このような方とお手々繋いで踊り回ったものです。お互いに騙し騙されてを楽しんでいたのでしょうが、祖母もやはりただ者でないと痛感させられます。
裏の顔を持つ娼婦と貴公子、世代を跨いで再現というわけでありますか。
意を決したのか、アルベルト様は少々引け腰気味に私の手を掴み、そして、踊りが始まった会場の中央へと私を導いてくださいました。
場が少しざわつきます。意外な組み合わせの登場に、人々が注目し、ヒソヒソなにやら言葉を交わしております。物珍しさから興味を惹かれる視線、忌々し気に眺める視線、怖いものでも見てしまったかのような恐れの視線、様々です。
やれーやれーと煽って来る視線はフェルディナンド様とジャコモ様のでありましょうか。
まあ、そんなことは些細な事。今は視線すら気になりません。私の視界には戸惑い気味のアルベルト様のお顔しか見えません。
お互いに離れぬよう片方の手を相手の腰に回し、もう片方の手はしっかりと握っております。音楽に合わせてクルリクルリと回って踊りますが、私とアルベルト様は離れません。
耳にも何も入ってきません。ただ、私と目の前の貴公子の心音と足音だけが響いてまいります。
「アルベルト様、初めてと仰るわりには、お上手ではありませんか」
「ヌイヴェル殿の先導がよいからでしょうか。まあ、見るだけなら何度も見ておりましたので、あとは体で再現すればいいだけでございましょうが」
それがすんなりできるアルベルト様は、さすがでございますよ。いくら身体能力が高かろうが、技術がなければ踊れぬもの。見ただけでしっかりと踊れるのは隅々まで目を光らせている証拠。次なる密偵頭は手も早く、目もよろしいようでございます。
ああ、今日は本当に楽しい宴でございます。こうして見目麗しい貴公子と数枚の布越しに体を寄せ合って、皆が注目する中を踊っているのですから。
はてさて、今宵注目の的となってしまいました私ではありますが、その後にどうなるのかは、まだ誰も知りません。
***
帰りの馬車の中、私は少しばかりにやけていりました。
ご機嫌そうで、却って不気味に思ったのか、ディカブリオもアゾットも私に話しかけてはくれません。
まあ、それはそれでよしとしましょう。今は今夜の余韻を楽しむので、頭が忙しいのですから。
そして、私は自分の手を見つめました。アルベルト様の温もりなどありません。記憶の中にも残っておりません。なにしろ、あの方に触れることは死を意味するのですから。
決して触れ合うことのない白い手と黒い手、それでも私は触れてみたいと思います。たとえ死ぬことになろうとも、いつかあの方に触れ、心の扉を開けてみたいのです。
あの方の生い立ちを考えますと、おそらくは闇で満たされていることでありましょう。私はそれに光を差し込ませる太陽ではありません。闇に寄り添う魔女なのでございますから。
変えるのでも、包み込むのでもなく、ただ寄り添う。闇を闊歩し、闇を褥とし、闇を住処とする。そう、魔女であり、娼婦。娼婦であり、魔女。それが私。
きっと、私とアルベルト様は似合いだと皆が思うことでしょう。いい意味でも、悪い意味でも。
決して交わることのない白い手と黒い手が、いつか手を携えれればと願う次第です。
太陽を求め、天に向かって伸びる宿木も、ふとしたことから森の闇に溶け込むことをよしとするやもしれません。闇の中が安住を約束するのであれば。
ですが、まだ止まりません。私は上を目指して伸びて参ります。そう、闇が私の手を引いて押し留めようとするまでは。
私は高級娼婦ヌイヴェル。魔女で、女吸血鬼で、神に救いを求めて天を目指す哀れな一本の宿木でございます。
さてさて、次のお客様はどちらの方になるでしょうか。
この世界においては、ブルトゥスはカエサルを身を挺して守った忠臣の鑑となっております。
ローマ史を知っている人間からすれば、ツッコミどころ満載ですな(笑)




