彼を待ちながら
「よし」
未菜は先に身支度を終えてつぶやくと、おもむろに洋服に着替えて髪を整えはじめた涼真を座って待ちながら、早くも待ちきれずに痺れを切らし、暇をもてあますままスマホを取り落とした。と、独り玄関へ立って行って、今日履いていく靴の選定を再度はじめたのはいいけれど、たちまち二つの候補で迷い出したのに自分ながら嫌気がさしてすぐさま部屋へ立ち戻り、
「そろそろ行けそう?」と横から訊ねると、涼真はなお鏡に向かってゆったり集中したままこちらには目もくれず、
「うん、もうちょっと」
と鏡の中につぶやいてそこで初めて顔をふり向け、口元だけで笑って見せる。未菜は好きな人がみせた罪のない表情にきゅっとやられて、何とも文句の言いようもなく、
「じゃあ待ってる」
と優しく言うと、静かに壁へよって背をもたせ、鏡の中の涼真に愛しの眼差しを送るや否や、すぐさまこちらに心づくのにぽっと嬉しくなるそばから、すいと視線をそらされたちまち傷つき、と思うと未菜はぐいと気を取り直すまま頬を膨らませなお負けじと見つめるうち集中していた涼真の視線がゆるみ、途端に鏡越しで目を合わせるまもなく、
「顔」と一言漏らすまま吹き出した。
未菜は俄に赤くなりながら、ぱっちりした瞳を瞬いたと思うと、眉間にしわを寄せて舌を出し、涼真がなお呆れて笑うのにたちまち羞恥をおぼえて今度は一杯に微笑むと、尻もちをつくように腰を下ろした。
*
化粧台に向かい腰をおろした、紺色のニットの背中を見守りながら、いつもは自分が恋人を待たせているのに未菜はふと心づいて、そのときの涼真の挙動を思い返してみると、かつて一度も急かされたりつつかれたりした記憶がない。
自分がたったの一度も待てないのにくらべてなんて忍耐力のある人だろう。と妙なところに感心するうち、すぐさま度々友達にも指摘される自分の気ぜわしさに思い至ってあほらしく恥ずかしくなってくる。と、ここで初めて本当は涼真も内心自分に辟易していたのだろうかと心づき、その時の恋人の顔つきを思い出そうとしてみても、こっちは毎度鏡とにらめっこして顔を作るのにせっせと専心するまま、その場合の記憶はすっぽり抜け落ちている。
これは下手にさぐって傷ついたり怪我したりするのもいけない。未菜はそう思い定めると、今は大人しく健気に待っていよう、と先程の自分の振る舞いはすでに都合よく切り捨ててなお横座りにもたれながら待っていると早くも暇でたまらない。
つまらなさに待ちきれぬうち、すうっと眠気に襲われ、ごろんとベッドへ身を投げ出したくなる。
せっかく櫛できれいに整えた事にすぐと心づいて邪心を振り払い、思い直しかけるまもなく、未菜は俄に決心したように膝立ちになるままするする近くのベッドへいざってそのそばで止まり、自分で自分をしかるように首を振ると、ぷいとそこへ背を向けるように立ち上がって涼真の後ろへしずしずと寄りながら、華奢な手のひらをそっと背中においた。
「どうした」
「ううん、どうもしない」
「遅い?」
「ううん。そんなことない。平気」
「もうちょっとだから」
と微笑をもらしてこちらを励ます涼真に、未菜はもう答えぬままうつむき、重ねた手のひらに片頬をのせて瞼をとじた。ぽかぽかする背中のぬくみと微かな律動にほだされうとうとしかけると、
「行こう」
「うん」
「どうした」なお頬をあずけたままの未菜へ涼真がやさしく訊ねるとまたしても、
「うん」と半ば目をあけながら息が漏れるようにつぶやいて、再び目をとじるまましんと時が流れたのち、未菜は涼真の背でゆるやかに口をひらいて、
「もうすこし」
と言ううち夢うつつになり、不意にびくんと気がついて顔を上げると、涼真は左拳に頬杖をつきながらすやすや寝入っている。
未菜は寝ぼけまなこにいたずら心の起こるまま、右の頬を指先でそっと押してみると、どうしたことか起きないので、なおつんつんするうちじろりとこちらを見据え、途端に瞳が合うと、未菜のポカンとした顔に、たまらず涼真が吹き出し、つられて未菜も笑って手先に口元をかくした。
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