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―Fantasia―

「……お……まえ…………」


「ああ、そう言えばあの時は名を名乗らなかったな。オレの名は『シェイド』。覚えておけ、半人前。オレの気分を害したら殺すぞ?」




 背中に氷を押し当てられたような悪寒を伴う恐怖の具現。開け放っていた出窓の縁に不遜な態度で座るこの男こそ世間を賑わす連続殺人鬼であり、3日前の絶望の夜、美彩を襲ったあの黒柄の怪人。……忘れようもない、あの狂気に歪んだ禍々しい紅い瞳。僕らは蛇に睨まれた蛙のようだ。生物としての能力の違いがありありと感じられる。『殺す』と言ったヤツの言葉は本当だろう。ヤツの気分を損ねたら、間違いなく……それこそ何の苦労も掛けずあっさりと殺される。

 美彩も同じものを感じ取ったのか、怯えたように僕に抱きついて来る。……ここで気圧されてはいけない。美彩は今度こそ僕が守るんだから……。僕はしっかりと美彩を包んでシェイドに言う。


「……今更何の用だ、殺人鬼。まさか美彩を殺し損ねた事を知って、また襲いに来たのか?」


 するとシェイドは一瞬だけ驚いた表情を浮かべ、すぐに嗤い始めた。


「……フ……フハハハハハハハッ! オレがその娘を殺し損ねただと? ハハハハハハ! これは傑作だ! 確かに間違ってはいないが、貴様、自分が何をしたのか覚えていないようだな。もしや記憶を失っているのか? それとも惚けているのか? だとしたら随分と滑稽だな、半人前!」


 ……こいつは何を言っている……? こいつが美彩を襲ったのは間違えようもない事実の筈だ。それに『半人前』って一体何の事だ……? その時、僕に身を預けている美彩が震えだした。


「ダメ………聞いちゃダメだよ淳くん……。耳を塞いで!! 目を閉じて!! アイツの言う事なんて全部デタラメなんだからぁ!!」


 美彩……? 美彩の反応が何かおかしい。まるで全てを知っていて、その上で僕を遠ざけようとしているような……。


「ほう……どうやらその娘はあの時の事を覚えているようだな。このような臆病者を庇おうとは健気なものだ。貴様、本当の事を知りたいか? ならば、ここから見えるあの一際高い廃ビルの屋上に来い。ここで話してやってもいいのだがな、オレとて搾取対象でない一般人を無駄に巻き込むのは不本意だ。だが来なかった場合は……先ずはこの家の住人が犠牲となろう。分かるな? ……ああ、警察なんぞに通報しても無駄だ。死体が増えるだけと知れ」


 一方的にそれだけ言って、シェイドは再び窓から出て行こうとする。


「待て! お前は一体………」


「オレの事、自分の事が知りたくば、必ず来い。……そうだな。それと、そこの鏡を見てみたらどうだ?」


 言われて、僕は反射的に姿見を見る。そこに映るは相変わらず輪郭のブレた僕と美彩の姿。……それ以外は誰も映っていない。鏡越しに窓が映っているのにも関わらず。

 それはつまり……『そこにいる筈のシェイドの姿は鏡に映っていない』という事……。


「なっ………!?」


「これで少しは分かったか? では屋上で待っている。オレは気が短いのでな、なるべく急いで来る事だ」


 黒いマントのような服を翻して、シェイドは窓から消え去った。刹那、身体を押し潰さんとしていた恐怖と威圧感がなくなり、一気に心身が弛緩する。全身から汗が噴き出す。動いてもいないのに息が乱れている。


「……淳くん……行っちゃダメだよ……。殺されちゃうよ……。淳くんは何も悪くないのに……」


 美彩が僕に縋り付いて泣いている。確かに……アイツは恐ろしい。あの説明し難い威圧感といい、二階であるこの部屋の窓から事も無げに出入りする身体能力といい、どれを取っても人間業ではない。まともに対峙すればただでは済まないだろう。

 それでも……僕は疑問を解明したかった。あの日の出来事について、当事者であるはずの僕だけが何も知らない。絡み付くように不快な疎外感。アイツの言を考慮するならば……僕はもしかしたら、とんでもない勘違いをしている可能性さえあるのだ。だが美彩がその事を僕に話したがらないのは見て取れる。無論美彩を信用していない訳じゃないが、美彩から真相を聞き出すのは難しいと思う。

 それに、ヤツは僕が来なければ先ずはこの家の人達を殺すと言った。あれは決してハッタリなんかじゃない。シェイドは今までにも充分確信に足るだけの事をやって来ている。僕が行かなければ間違いなく……この家の人達は皆殺しにされるだろう。今この家には美彩の親族、そして何より美彩の両親がいるのだ。そんな美彩の大切な人達を……むざむざ殺させる訳にはいかないじゃないか。


「ゴメン、美彩……。やっぱり僕は行くよ。美彩はここに残って。僕は絶対帰って来るから」


「ッ!? ダメぇ!! 行かないで淳くん!! 行っちゃヤダよぅ……!!」


「でも……僕が行かなきゃアイツは……美彩の家族を………」


「ッ………」


 感情的だった美彩がほんの少し冷静さを取り戻して考え込む。ここで『家族なんてどうでもいい』とか言っていたら、僕は何が何でも美彩を振り切ってシェイドの所に行っていただろう。あんなにいい両親を……あんなにまで愛してくれる両親を平気で犠牲にするようなら、正直美彩を軽蔑していた。でも美彩もちゃんと両親を大切にしている。だからこそこんなに必死で葛藤しているのだ。僕の事を心配してくれるのは本当に嬉しい。だからと言って引き換えに家族を犠牲にしていいのとは違う。僕の代わりは幾らでもいるだろうけど……両親の代わりはいないのだから。


「…………分かった。もう淳くんの事は止めないよ」


 暫く考え込んでいた美彩が決意の表情で顔を上げる。






「それなら……私も一緒に行く。淳くんに付いて行く。私、淳くんと一緒なら怖くなんかないから―――――」



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