09、コールド
社会科見学に来た高校生が帰った頃、ようやく青鎬も課長の長い説教から解放された。
デスクにやや憔悴した面持ちで戻った青鎬に、凍上がコーヒーの入ったマグカップを差し出した。マグカップには数学統監府のマスコットキャラ、かずお君のイラストが描いてある。このキャラチョイスに青鎬は常日頃から思うところがあったが、今は黙って部下の心配りを受け取った。
「さんきゅ」
「火の使い過ぎは感心しませんね。そんなに熱くなる相手でしたか」
「αと名乗る水使い。それ以上のことは解らん」
「青鎬さんと互角にやり合える記号持ちということですか。気が重いですね」
青鎬はちらりと視線を右斜め向かいに座る凍上に遣る。
「お嬢ちゃんと少年と何を話した」
「おや、バレていましたか。青鎬さんの昔話を少し。すみません。それから、賢い少年に俺の目論見を看破され、番号持ちであることを明かしました」
「しょうもない話をしたな。俺のことはまあ良い。それに、お前が俺の下につかされているのは、いざとなった場合の俺の牽制に使おうという上の思惑だろうしな」
「俺では青鎬さんに勝てないというのに、無駄な采配をしますね」
「それは解らないさ。お前は口が達者で、俺と一度も手合わせしたことないじゃねえか。柔道や剣道じゃあ異能の優劣までは判別出来ん。それに――――1と2と3を〝眠らせた〟のは、お前じゃねえのか? 凍上」
近くに他の職員がいないことを確認した上で、低く声を潜めた青鎬の問いに、凍上は表情一つ動かさなかった。
「買い被りですよ、青鎬さん。それより始末書頑張ってくださいね」
社会科見学を終え、下校した数美と亜希と創は、打ち合わせて数美の家に集合した。創は、ドレッサーやテディベアやらがある女の子らしい部屋に居心地悪そうに座っている。数美が人数分の緑茶と練り切りを運んできた。練り切りは流水に紅葉の乗った意匠だ。まず、数美が屋上で見たことを話し、次いで亜希と創が、凍上との遣り取りを語った。
「15番……」
「びっくりよね。私、数美より上の番号持ちを初めて見たわ。流石、数学統監府。化け物の巣窟ってところね」
「そんなこと言って亜希、凍上さんに見惚れてたじゃないか」
「出来る男は嫌いじゃないわ。それは認める。でもあの人、彼女いるんじゃないかしら」
「奥さんじゃなくて?」
亜希が数美の問いに、湯呑みから緑茶を飲んで首を振る。
「指輪してなかったし、そういう感じしなかった。いるなら恋人よ」
「根拠は」
「身綺麗過ぎる」
「そんな男もいるぜ?」
「創は違うけどね」
断言されて閉口した創は練り切りを半分に切ると口に運んだ。ほんのりした和菓子独特の甘味と練り切りの柔らかな食感に気持ちが和む。そこで、創は自分が社会科見学で自分が張りつめていたことに遅まきながら気づく。国の最高機関。亜希の言うように化け物の巣窟。そして数美が見た青鎬と、αと名乗る記号持ちの戦い。遅れて創が屋上に駆け付けた頃には全てが終わっていたが、激しい戦闘の名残はそこかしこに見て取れた。間に入った数美が無事で心から安堵した。
「数学統監府か――――。あそこの、地下の話、知ってるか?」
「地下? 何階?」
「解らない。統監府は地下の階数を公表していない。その、一番下の階の話だ」
「怪談か、創?」
「ある意味、それに近いな。俺が聴いた話はこうだ。数学統監府の最も深く、地下の階には1と2と3の番号持ちが眠ってるってな」
「……どういうこと?」
「元々、統監府に属していたこの上位三名だが、ある日を境に統監府に牙を剥いた。統監府側はこれを必死で抑えようとしたが、何せ番号が番号。異能のスペックも尋常じゃない。それで、死なせることも出来ず、ようやく統監府の番号持ちが眠らせることで事態を収拾したんだと」
「僕は初耳だぞ、そんなの。都市伝説だろう?」
胡散臭そうな顔の数美に、創もひょいと肩を竦める。
「まあ、多分な。ただ、俺が言いたいのは、それだけ統監府はやばい場所だってことだ。そして俺たちはそのやばい場所に今日、足を踏み入れたんだ」
日が沈む。
黄金の円がとろりとして地の果てに没する。空は青とピンクに分断され、そのあわいはぼやけた形容し難い色だ。そんな夕景を背に、青い髪を靡かせて滑空するαは、突然、地上からの強い引力を感じて下降した。とん、と降り立ったのは、どこかの高層ビルの屋上。青鎬と戦った数学統監府の屋上よりは狭い。
そこに立つのは金髪、白いコートを纏った少年。神秘的な紫の双眸がαを見据えている。
その少年、πの風貌を目にするたび、αは笑いたくなる。神もまあ、よくこんな造形物を生み出したものだ。
「勝手が過ぎるな、α?」
「おかんむりだな、π。俺はあんたに良かれと動いてるって言うのに」
これを人は嘘八百と呼ぶ。
αは誰の為にも動かない。自分の気の向くまま、好きなように動く。だから今日、蓮森数美が数学統監府に社会科見学に来るという情報を入手して、わざわざ出向いた。蓮森征爾の娘に興味があったからである。結局は戦闘好きの性で、青鎬と戦うことになったが、それはそれで充実したひと時を過ごせたので、αは良しとしている。それに、短い時間だが遭遇した数美は先鋭な力をαに感じさせる可憐な少女だった。戦って良し、鑑賞して良しの逸材だ。
「あんたの目は確かだよ、π。蓮森数美はまだガキだが、将来性抜群だ」
揺らぐことなく冷徹だったπの瞳がふと人間らしい色を持つ。
「数美に会ったのか」
「会った。俺ともあろうものが、傷を負わされたよ。不甲斐ない」
さも楽しそうにπが笑う。αは珍しいものを見たと思った。神の化身のような容姿をしたこの少年は、αに対して普段ほとんど喜怒哀楽を露わにしないのだ。
「流石だね、数美。だがα、その様子では地下まで潜る余裕はなかったな?」
「仰る通り。何せ屋上でやり合ったもんで」
「良い。他を使おう。α。今回の単独行動は大目に見る。次は処断リストに加えるからそう思え」
「へいへーい」
瞬間、αの頬がぱっくり裂けた。
瞬息で迫り、抜刀したπの仕業だ。πは礼節を軽んじる輩を嫌う。つう、とαの頬を真紅が伝った。白いコートの襟元についた金色の鎖がやけに眩しい。
「……解ったよ、π」
心の中で舌を見せながら従順な振りをすることもαは得意だ。