074、エリーゼのために
やたら広い屋敷だというのが、数美のまず抱いた感想だった。眠らされて敦人に連行された先は、壮大な和風邸宅だった。目を覚ますと一目で上等と判る着物を着た若い女性から、ここは篠蛾敦人の家だと説明を受けた。それから、身体にどこか痛いところなどはないか、空腹ではないかなどと優しい声で尋ねられた。自分に姉がいればこんな感じだろうかと数美は思い、そしてほだされそうになっていることに気づく。心にブレーキをかけなければ。数美は女性の顔ではなく、着物の、紅葉の刺繍に目を据えた。
「篠蛾敦人はどこだ」
「広間におられます」
「では僕もそこに連れて行け」
「それは……、出来かねます」
夏の虫が鳴いている。短い生を嘆いているのか。
女性の返答は、数美が半ば予想した通りだった。
「どういうことだ!」
広間の上座に陣取り、庭の趣を愛でていた敦人に食って掛かったのは創だ。彼は意識のない数美が運ばれてゆくのを目撃した。いきり立つ創に、敦人は小うるさそうな視線をちらりと遣っただけでとりたてて親切な説明をする様子は欠片もなかった。創は、ここにいる自分が数美を守る必要性を強く感じていた。敦人の前から踵を返して、数美が運ばれたと思しき部屋に向かう。邪魔だてはされなかった。敦人が放っておけと言ったらしい。その点は有難いと感じる。
「数美……」
「創」
ある客間と思しき部屋に数美はいた。布団から半身を起こしている。薄い水色の、木綿のパジャマを着た数美はどこか無防備で、創は思わず目を逸らした。
「大丈夫か。何もされなかったか」
「うん。僕は大丈夫だ。創。元気なんだな」
最後の数美の問い掛けは、創の胸を浅く抉った。自分は裏切者。離反者なのだ。けれどだからこそ、今、出来ることがある。
「待ってろ。すぐに逃がしてやる」
「πが来ると思う。だからその必要はない」
その言葉は創の胸を深く抉った。
そうだ。あの黄金色の髪の少年であれば、この場にいる数美を救出も出来るだろう。数美に恋する少年。数美が恋する少年。どこからか紛れ込んで来た蛾が、ハタハタと行き来している。今は私情を挟む時ではない。πはそう時を置かずにここに来るだろうが、それまで数美を守らなくては。逃げ場を見つけたのか、蛾はどこかに去った。虫の音が響く。もう、虫の音が響く。創は数美に何も告げていない。告げなくても通じているとは思う。だがそう見込むことと、実際に告げることには大きな隔たりがあった。
「お前が……」
「創。46番と43番を捜そう」
言い差したところで数美が決然とした声を上げた。その言葉の示すところを、創はすぐに察した。亜希だ。
「亜希だな?」
「うん。連れ戻す。その為にも僕はここを出て、数学統監府に行かなくてはいけないんだ」
「πが来るのは確実だろう。じゃあ、俺は俺で青鎬さんたちにこのことを話す」
「可能なのか?」
創は軽く肩を竦める。
「俺は飼い殺しだからな。ある程度の行動の自由は利く」
「解った。じゃあ、青鎬さんと凍上さんに伝えてくれ。亜希を取り戻す為に、僕が彼らと合流したがっていると。統監府内の行動は、彼らと共にするのが最善だ」
「伝えるよ。……腹は減ってないか?」
「うん。もう、寝るところだったから」
「じゃあ、寝ろ。俺がついている。誰にも数美に手出しはさせない」
数美は透明度の高い瞳で創を見た。硝子で出来た、人形の瞳のようだと創は思った。
「ありがとう、創」
数美が瞳を閉じる。そうすると、ますますビスクドールめいて見える。
創は数美に触れたかった。髪を撫でて、手櫛で梳いて安心させてやりたいと思う。けれどそれは自分の役目ではないとも解っていた。敵地において、数美が眠りに落ちることが出来るかの懸念は、杞憂に終わった。少しすると健やかな寝息が聴こえてくる。数美の無防備が、自分を信頼してこそと判るものの、創には複雑なものがあった。
創は薄い通信機器をポケットから取り出した。
「おい、凍上。鳴ってるぜ」
今日も帰りが遅くなるのは、統監府務めの泣き所だ。所詮は社畜と言うも空しい。青鎬はかずおくんのイラスト入りのマグカップでコーヒーを飲みながら、凍上の机の上の通信機器を指さした。それは青く明滅しながらクラシックを奏でている。曲はエリーゼのためにだったか。
凍上は香澄かもしれないと思いつつそれに触れて耳にあてる。香澄であれば、場所を変えたい。尤も香澄は、凍上の勤務時間と思われる時に電話をかけてきたことがない。そして凍上はおいそれと人に自分の番号を教えない。かけてくる人間はかなり限られる。
「もしもし? ――――創君か」
その名前に青鎬がピクリと身じろぎする。
数分の通話の後、凍上は電話を切った。余り創との遣り取りを長引かせるのも賢くない。ここには創の抹殺を唱える職員もいるのだ。
「何だって?」
青鎬が、凍上に近寄る。他に聴かれない為だ。
「43を捜す為に46と接触したいと数美ちゃんが言っていると」
「43……。ああ。黄泉がえりか」
「はい。それから、彼女は今、篠蛾敦人の邸宅にいるそうですよ」
「何だと?」
「拉致されたそうですが待遇は良いので心配するなと。πが遠からず向かうだろうとの見解でした」
「それには同感だが、坊主はそれで良いのかい」
「数美ちゃんを無事に解放したければ、πに任せることは賢明でしょう」
「よく出来る。惚れてるんだろ?」
「惚れてるからでしょう」
「あ~。しかし46かあ。俺、苦手なんだよな。あいつ」
「同じくですが、言っている場合でもありません」
「うんじゃあお前に任せた!」
「一人逃げないでください」
「……黄泉がえりは可能だと思うか」
ふざけた遣り取りからふと真面目な表情で問うた青鎬の低い声に、凍上も思案顔になる。
「可能かもしれませんが、引き換えにとんでもないものを失くしそうで怖いですね」
「お嬢ちゃんは支払う覚悟があるのか」
「あるのでしょうが、悲しいですね」
青鎬が溜息を吐く。吐いた拍子にコーヒーの水面が揺れた。
「私をお呼びかしら?」
艶のあるアルトの声に青鎬と凍上が同方向を見る。派手な紫のスーツを着た艶麗な佳人が立っている。
統監府監察課・東雲美里。
46番の番号持ちだ。




