072、感情混濁パズルピース
篠蛾敦人にとって、この世界の成り行きにおけるルール、即ち自分である。よって彼は、自らの関与しないところで数字の2と3が消されたことに些か立腹していた。1がπたちの家に移動したらしきことも面白くない。これではまるで、主導権を握るのはπや数美のようではないか。それは、敦人にとって看過出来ない問題であり、是正すべき現実だった。
「……近い内にπを訪問するか」
敦人の独白に、横に控えていた男が顔を上げる。
「御自ら攻撃を仕掛けると?」
「相手が相手で、向かう先が先だ。我が出向かねば始まるまいよ。到底、お前たちの手に負える奴らではない」
「――――どうぞご自愛を」
「解っている」
敦人は、気遣いの言葉に対して鬱陶しそうに右手を振った。男もそれ以上は言わなかった。敦人の性分をよく理解していたからである。敦人は立ち上がり、縁側に出た。青い空を仰ぎ良い天気だと思う。良い天気の日には人が死にやすいとも思った。
πの家に移った仁祥は、緩やかに回復していった。
彼は、彼の有する尋常でない異能に反して、とても穏やかな気質だった。πの家の人間たちともすぐに溶け込んだ。時折、淡い青紫の双眸に揺れる憂いを、πたちは見ない振りをして過ごした。彼は自分が眠っていた間の、どんな事柄でも知りたがり、聴きたがった。何せ眠りから覚めたらそこは十年後の世界である。仁祥の心情は共感出来るものだった。
「じゃ、俺は数美とデートしてくる」
「はーい、行ってらっしゃい、って待てこら」
「何さ」
「こういう緊迫した情勢下で何を呑気なこと言ってる、お前は。お嬢ちゃんに危険が及んでも駄目だろう」
「俺が守るよ」
「ふーんほーお。青二才が言うじゃないの」
「x。男というのは好きな女を守らなくてはいけないらしい」
「……まあ、それだけの覚悟があるのなら」
猩々緋王を使い数美の元へ向かったπのいた場所を見ながら、しばしxは物思いに耽った。いつまでも子供ではない。πは、もう既に大人の男として羽化しつつある。少しの寂しさがあった。xにとってπは弟のような存在で、いつまでも傍近くにいるものと考えていた。それが当然だと。
(やだやだ。年喰ったねえ)
自身に対して苦笑するxを、仁祥が見ている。視線に気づいて問いかけるように小首を傾げれば、仁祥もまた、微苦笑した。
「君とπとはとても親しいんだな。強い絆で結ばれているようだ」
「腐れ縁みたいなものだけどな」
「羨ましいよ」
ぽつりと落ちた呟きに、xは思うところがあり、言葉を誤ったかと思う。仁祥の、腐れ縁と言える存在は、もうどこにもいないのだから。だから、強いて明るい声を出した。
「昼はきし麺で良いか?」
「うん。ありがとう」
「俺も食う……」
ずるりずるりと身体を引き摺りながら幽鬼のような有様でリビングに到達したのは、Ωだ。
「原稿は終わったのか?」
「お、わ、て、な、い、」
「おいおい」
「きし麺喰ったら続きする。チャージしたい」
「あーはいはい。ちょっと待ってろ。カレンは?」
「知らん……」
yも見当たらない。とりあえずxは、三人分のきし麺を作ることにした。背を屈めて水屋の下の乾物が収納されているところを漁る。そして、実はこうした何気ない日常こそが得難いものなのだと考えていた。誰の血も流れない、誰も泣かない。
じーわじわーと蝉の声が煩い。πは流石にコートを脱いだ軽装で数美の家の門前に立った。今日は日曜日だから学校も休み、即ち数美も家にいる筈である。果たしてチャイムを鳴らすと、数美が玄関のドアを開け、πを見るとにっこり笑った。それだけでπは有頂天になる。男って莫迦、とそんな自分に対して思うが、こればかりはどうしようもない。そして家に入る段になって、ぐるるるる~と鳴ったお腹に対して俺って莫迦! と思った。恥ずかしい。情けない。xの作る昼食を摂ってから来れば良かった。けれど数美はそんなπを笑うこともなく、丁度、ピザの出前でも取ろうかと母さんと話していたんだと言った。救われた心地で家の中に入ると、適度に冷房が効いていた。
「π、飲み物は何が良い?」
「甘ければ何でも」
「じゃあカルピスでも出しましょうか」
塔子がにこやかにそう提案し、盆に二人分のコップを乗せてくれる。数美はそれを持ち、πを部屋まで導いた。
「仁祥さんは元気か?」
「うん。……まあ、時々、考え込んでるけどね。こればかりは仕方ない」
「そうか」
数美の部屋も冷房が効いて涼しい。しかしπは猩々緋王を腰から離すことなく座った。いつでも抜刀出来る姿勢である。それを見た数美が、少し悲しそうに微笑む。彼女は、いつ、いかなる時でも戦場に身を置こうとするπが、痛ましいと思った。彼は強い。心身共にとても強いけれど、気を緩めて幸せになる権利もある。安楽を選ぼうとしないπだからこそ、助けになりたいという思いも強くなるのだけれど。
「夏休みの宿題とか進んでるの?」
「うん。以前は、亜希と創と一緒にしていたんだけどね……」
沈黙が落ちる。今挙げた名前の二人は、数美から遠くなってしまった。一人は亡くなり、一人は敵陣営に身を置き。
πが言葉を探しあぐねている丁度その時、塔子が二人の分のピザを持って来てくれた。
「ドライトマトとモツアレラチーズとバジルのハーモニー!」
「美味しいな」
二人で笑み交わしながらピザを食べる。好きな相手と美味しいものを食べる幸福は得難いものだ。他愛ない話をした。数美は学校の話を、πは家での話を。明るくはしゃぎながら、けれど決して話が悲しい方向には行かないよう細心の注意を払いながら。一度、悲しみに会話が流れれば、それはとめどなく続いてしまうことを知っていたから、阿頼耶識が仕出かした失敗や、πがxから頂戴したお小言の話など、努めて明るい話題で盛り上がった。会話が途切れて、あらかたピザを食べ終えた二人は、黙ってカルピスを飲んでいた。暑い暑いと言っている間に、夏も知らぬ顔で過行くのだ。
「数美」
「ん?」
「俺は、背負うものが多い。それは数美も同じだけど」
「うん」
「それでも、俺と婚約してくれないか?」
数美の目が丸くなる。
「婚約?」
「うん。他の男に数美を盗られたくない。塔子さんにも許可を貰う」
「良いよ」
「本当?」
「うん。僕はπが好きだから」
「俺、本当の名前は錐雪って言うんだ」
「錐雪。綺麗な名前だな」
「ありがとう。……抱き締めても良い?」
「うん」
πは数美を壊れ物のようにそっと抱き締めた。細くて柔らかくて暖かくて、奇跡みたいな命を、腕の中に包んでいることに、この上ない幸福を感じた。
森義嗣という男は、非常に狷介な男であり、他人を信用することがない。かと言って人望がないかと言えばそうではなく、寧ろ不思議な吸引力があり、彼を慕い、支持する人間は多かった。97の番号持ちである。統監府内では決して高いとは言えない数字で、それでも権力ある地位にいられるのは、その能力の特殊性と、彼本来の優秀さゆえである。身長は小柄で、身体は引き締まってはいないが、余計な肉もついていない。髪も健在であり、容姿を総合して見るに、悪くはない範疇である。もちろんそれも、尾曽道や凍上に比べると見劣りはするが、実務においては何ら支障はない。
現在、彼は苛立っていた。2と3が死に、1が強奪されたことは、彼には到底、許容し難いことだった。早良波羅道がもっと上手く立ち回れなかったのかと、腹立たしく思う。何がしか、現状を打開する手を早々に打たねば、尾曽道の攻撃の矛先は遠からず自分に向かうだろう。数学統監府長官の怒り。想像するだに恐ろしい。だが、もう賽は投げられてしまった。
机の上を一瞥して、次の瞬間、机上にあった物全てを薙ぎ払うと、けたたましい音が響いた。
とにかくも1は必要だ。1があれば、何とかなる。
事態を好転させねばならないと、森は強く思った。




