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070、裏切り

挿絵(By みてみん)

 zを置いて来て正解だったなとπは思う。

 今、この現状においてのキーマンは凍上薫だ。zが見れば矢も楯も堪らず凍上のもとに走っただろう。πは思考を巡らせる。凍上が1たちを目覚めさせたとして、自分たちに不利に働くことはあるだろうか? 答えは否だ。1たちは自分の父である催馬楽吉馬を信頼していたらしい。では、その息子であるπのことも同じく信頼してくれるのではと考えるのは甘いだろうか。

 πは凍上に賭けてみることにした。

 その合図をxたちに伝える。彼らはそれぞれ頷いた。ゆえに、カレンは再び空間を黒く塗ろうとはしなかった。

 眠る彼らに駆け寄る凍上の脚に鋭い痛みが走った。

 振り返れば早良波羅道が普段と変わらない顔で凍上を見ている。


「目覚めさせる訳にはいかない」

「おい、早良。長官命令だぞ」


 言った砂嘴をちらと見て、また視線を凍上に戻す。


「いつかこんな日が来るのではないかと思っていた。森さんもそれを恐れていた。私はここで凍上に、1らを目覚めさせる訳にはいかないのだよ」

「貴様、森派閥か!」

「ご名答。こそこそ隠すのは性に合わないが、一課にいるにはそのほうが何かと都合が良いと森さんから指示されてね」


 ジャラ、と砂嘴の鎖が早良の首に巻き付き、締め上げる。


「ならばお前をここで敵と見なすも仕方ないな」

「斬」

「無駄だ。私の鎖はその程度では切れない」


 砂嘴と早良の遣り取りの間に、πはカプセルの開錠を全て終えた。凍上を手招く。


「起こしなよ。凍上薫。それは僕らの悲願の一つでもあるんだ」

「……」


 近づく凍上を止める者はいない。大山田大二郎は尾曽道の意向を尊重する方針であり、砂嘴とて同様だ。今、彼らを目覚めさせるに反発しているのは早良だけなのだ。そしてその早良は砂嘴に拘束されて動けない。

 凍上は震える手をぐ、と握り込んで、眠る男女の傍に立った。それからマエストロのように両手を彼らに向けて差し伸べる。

 カチリ、とどこかで鍵が開く音が聴こえた。その場にいる誰もが、早良でさえ息を呑む。氷が解けて水蒸気となり昇ってゆく。


 ターン、ターン、と銃声が二発響いた。


 いつの間にか砂嘴の拘束から抜け出していた早良が、2と3を拳銃で撃ったのだ。1は撃てなかった。〝勿体ないから〟死守しろと森博嗣から指示されていた。連射であったというのに弾はあやまたず2と3の頭蓋を直撃した。身を起こしかけていた彼らは再び無機質なベッドの住人となった。


「何てことを」

「π、撤退だ。1だけでも連れて帰るぞ」

「…………早良波羅道。お前が人の毛皮を被った獣だということ、憶えておく」

「それは光栄」


 πの空間転移で立ち去る彼らを止めることもせず、大山田と砂嘴、そして凍上は呆然としていた。


「一足遅かったようだね」


 こんな時にも穏やかな尾曽道の声に、大山田たちはこうべを垂れた。尾曽道は、未だ砂嘴に拘束されたままの早良を見る。極寒の目だった。


「まさか君が森君と通じていたとは。残念だよ。新しい班長を見つけなければならないな。それとも今ここで私と一戦交えるかね。今の私はそのくらい、腸が煮えくり返っている。よくも、2と3を殺してくれたな」

「お言葉ですが長官。私は自分が間違ったことをしたとは思っておりません。鳥は空を飛び魚は水を泳ぎ花は咲き誇る。自然の摂理です。彼らが森さんの思想に同調していれば或いは違った道もあったでしょう。けれど彼らは異なる道を選んだ。その時点で彼らの運命は決まっていたのです」

「詭弁を長々と言うものだ。永訣(えいけつ)の箱」


 尾曽道の言葉と共に、空間に黒い箱が出現し、早良を封じ込めた。


「衣食住がなくても生きることの出来る箱だ。そう、只、〝生きるだけ〟ならね」



 数美はほう、と震える息を吐いた。視ていた側としては心臓に悪い。窓の外を見ればこんなに明るいのに、小鳥が鳴いているのに、何て殺伐とした一幕が繰り広げられたことだろう。冴次はそんな数美を見守っていたが、人の気配に姿を消した。数美はリビングに向かう。


「π!」

「俺らもいるぜ、お嬢ちゃん」


 長く伸びた髪の1が横たえられ、その周囲をπ、x、カレン、Ωが囲んでいる。有栖に連絡を取った塔子は、じっと1を見ている。


「有栖はすぐ来られるそうよ」


 けれど有栖の手を煩わせる必要はなかった。1の〝解凍〟は、凍上の手により既に為されていた。但し、予後を看る必要はある。凍上の能力がどこまで、どんな風に作用するものか解らない以上、やはり万全の態勢で目覚めを注視することが肝要だ。長くて白い服を着た彼は半氷漬けでとても寒そうだ。このままでは風邪をひく。衰弱した身体にそれは致命傷だろう。そう思い、数美は母に伝えた。塔子は頷くと、1の服を脱がせ、清潔なタオルをΩとxに渡して、それで1を拭くように指示した。その間、蓮森征爾の衣服から、1の着られそうな乾いた衣服を見繕う。1が横たわっていたリビングの床は既にじっとり濡れている。

 

「ん。大丈夫みたいだね。どこの臓器にも異常ないし、凍傷もしていない。本当に只、眠らせる為だけに凍らせたって感じ。いやー、にしても、そんな長期間、冷凍しといて、この後遺症のなさは凄いわ。医学の発展にも役立てそうだわ」


 やってきた有栖がじろじろ1を診ながら言う。


「しっかし君たちは、こおんな良い天気の日に何やってんの」


 呆れ声で有栖に言われ、πたちは少し肩身が狭かった。有栖には借りが積もる一方だし、非戦闘員の彼女に言われると、言葉の重みもひとしおなのである。数美はブラシで1の長く伸びた髪を梳いていた。紫がかった青がふわりと乗ったような白髪は、生まれついてのものだろうか。触っていてとても心地が好い。今、彼はリビングに敷かれた布団の上で眠っている。冷凍による不自然な眠りではない、健やかな寝息。


(父さんのことも知っていた?)


 訊いてみたい衝動は、彼が運び込まれた時からある。

 目覚めた彼は、全ての顛末を聴いた後でどう思うだろう。


 その時、長い睫毛がピクリと震えた。



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