07、詭弁と勧誘
青鎬はむやみやたらと力を行使することを好まない。相手が相応の実力者である場合においてのみ、彼の戦闘意欲に火がつく。即ち今、彼の眼前に立つαは、青鎬の戦闘意欲に着火するに十分なポテンシャルを秘めた相手だった。
凄まじい速さで拳と拳が繰り出され、脚が宙を舞い対峙する相手の身体を捉えんとする。一瞬一瞬が命取りとなる勝負だ。打ち合う拳の一撃一撃は重い。蹴りをまともに喰らおうものなら、骨折はおろか、当たりどころによっては内臓をも損傷する危険性がある。
息つく暇もない攻防を、青鎬とαは繰り広げていた。
「異能は使わないのかい? 〝悪魔の青鎬〟さんよ」
「は、そっちこそどうなんだ。αなんざ大層な記号持ちやがって」
ガッと互いの脚が交錯した。通常の人間であれば間違いなく骨が折れている。
そこから二人は間合いを取った。ふう、と青鎬が息を吐く。青鎬の経験上、体術において彼と互角に渡り合える人間はごく稀だ。
「……化け物が」
αがまたもやにい、と笑う。勘に触る笑いだ。
次の瞬間、青鎬は虚となった。そこまで言うなら見せてやろう。〝呼んで〟やろう。
「黒炎」
轟っと、青鎬の全身を黒い炎が包んだ。αが目を瞠る。
「知ってるか、α。赤い炎より青い炎が熱く、青い炎より黒い炎のほうが尚、熱い。俺が悪魔呼ばわりされるのは、番号と、それに似合ったこの黒い炎を使うからだ。因みに黒い炎の温度は8636748度以上。さあ、地獄の業火に耐えられるかな?」
三階の廊下を歩いている時だった。
数美が顔を上に向けて押し黙った。丁度これから数学統監府の保管する暦の記録室に向かおうとしていた。
数美だけではなく、創も亜希も脚を止めていた。
「上のほうで誰か戦ってる」
「番号持ちだな。――――相当、強い。どちらとも」
数美たちが気づくくらいだ。統監府内の番号持ちにも気づく人間はいるだろう。だが、数美たちのほうが察知するのが早く、そして数美の行動は更に速かった。エレベーターに駆け、ボタンを押す。目指すのは最上階。屋上だ。創や亜希の制止の声も彼女には届かない。
黒炎がαを襲う。絡み取り、舐めようとする。されれば重度の火傷を負い、戦闘不能は必至だ。いや、その前に体細胞を消失する。ピューとαが口笛を吹く。
「さっすが、悪魔。しかし、俺とは相性が良かったかな?」
いや、悪かったか、とαは独りごちて、両手を広げる。まるで黒炎を迎え入れようとせんばかりの狂気の挙動に青鎬の眉間の皺が深くなる。自暴自棄ゆえの動きではない。ならば。αの広げた両手の間に水流が生まれ迸った。それは青鎬の操る黒炎同様、意思を持った生き物のように黒炎にぶつかり、水蒸気爆発が起きた。
更にαの生んだ水は青鎬自身にも襲い掛かった。水滴の幾粒かを顔面に受けた青鎬は素早く後退する。水滴の当たったところは浅い穴が穿たれ、血が滲んでいた。
「炎と水か。成程な」
本来であれば怯むところかもしれない。だが、そうした場面で恍惚として悦に入るのが青鎬という男だった。根っからの戦闘狂なのだ。凍上には普段からよく冷やかされている。
水と炎の戦いであれば、双方の潜在能力が高いほうが勝つ。今のところ、どちらが有利とも不利とも言えない。ならばただ戦いあるのみ。
青鎬は黒炎をより強力に纏わせた左脚で、αに回し蹴りを放った。青鎬の利き足は右だ。右足を軸とした蹴りのほうが威力は強くなる。αはこれを、水で強力に固めた右腕でガードした。勢いを殺しきれず、押され、靴とコンクリートからの摩擦熱で煙が上がる。ふ、と上空に逃れ、そこから青鎬目掛けてまっしぐらに下降した。両の拳には極限まで練り上げた水の凝固。喰らえば即死のダメージに陥る。
カチャリ、と、ドアノブの開いた音を二人の男の鋭敏な聴覚が拾った。
誰かが結界に強制介入したことをその音は意味していた。
αの集中が削がれ、コンクリートに半端な形で着地する。青鎬もまた、音を立てた主、戦いを邪魔した主を振り返る。
そこにいたのは小柄な少女。まだあどけなく、背中の骨すら簡単に折れてしまいそうな小鹿のような華奢な体躯。
だが、数美の目は平生と同じだった。
冷静に戦況を見極めようとする双眸は、青鎬やαと同じ戦士のそれだ。
「数学統監府内において番号持ちの戦闘は固く禁じられていると聴いた」
「それはお綺麗な建前だよ、お嬢ちゃん。それに相手は番号持ちじゃねえ。記号持ちだ」
「詭弁だな」
「まあな」
数美は少し、考え込んだ。創と戦ったπと名乗る少年のことを考えていたのだ。記号持ちであれば記号持ちを知るだろうか。父のことを知っていたりもするだろうか。考えながらゆらりゆらりと手を動かしたのは、数美の自衛本能の成せる業だった。
戦闘を不本意な形で中断されたことに不興になったαが、数美を襲撃したのだ。しかし彼の皮膚は鋭利な刃で裂かれたようにあちこち鮮血を咲かせた。自分のしたことに気づいた数美が淡々とした声で詫びる。
「ああ、済まない。考え事をしていた」
「全く、あっちもこっちも、化け物だらけかよ。終わってんな」
数美はにくの語呂合わせの詠唱なしでも、人を攻撃出来るのだということを青鎬は認識した。無論、αも。とは言え、αの襲撃は多少、感情が勝ったものであって、本気で数美を害する積りはなかった。即ち、〝蓮森征爾の娘〟を、害する積りはなかったのだ。πと争うことは彼の予定にない。
「お嬢ちゃん。男同士の戦いに水を差したことは、まあ、良い。俺と一緒に来ないか?」
「何を言っている、α」
「――――どういう意味だ」
「言ったまんまさあ。πはあんたにご執心だ。俺は別段、あいつが好きじゃないが、たまには喜ばせてやっても良いかと思ってね」
αのこの発言は、数美にπとαの繋がりを確信させた。しかし、彼の申し出は論外だった。青鎬が数美を庇う位置に立つ。
「残念だが、α。この子は数学統監府に来ることが決まっている。勝手なスカウトは止めてもらおう」
「おやおや、そいつあ残念」
会話の流れ、そして声調から、数美は二人の男にはもう戦う意思のないことを察した。
「じゃあ、俺は今日はここで退散するけど。お嬢ちゃん、まだ色々と隠してるねえ。能力、それだけじゃないでしょ? 何だろうなあ、何せ征爾の娘だからなあ。気になる気になる。じゃ、バイ」
αの姿は掻き消えて、後には彼の青い髪の残像だけが残った。