064、アイスココアが良い
雨が降っていた。
敦人は夏人や美冬の反対を封じ、創を再び迎え入れた。反逆行為に値する彼の行動も不問に付した。創はそれから与えられた部屋に閉じ籠り、膝を腕で抱えてじっとしていた。横にはいつもの仕込み刀の木刀がある。ざあざあと響く雨音を聴きながら、創はその姿勢のまま、長い時間、動かなかった。彼にはまだ信じられていなかった。亜希の死は、喪失は、それだけ彼に大きな打撃を与えた。何かの悪い夢だとも思った。
けれど最期に亜希は創に、数美を頼むと託した。
その約束だけは果たさねばならないと昏く、重く決意していた。
数美は闇の中にいた。幽かに雨音が聴こえる。ベッドの上に俯せなり、何もかもを拒絶していた。亜希の告別式にも、出向こうとはしなかった。部屋のカーテンは閉められ、部屋を明るく照らす電気も今は消えている。ベルベットを思わせる黒猫の被毛にも似た暗闇に、今は只、甘えていたかった。
亜希が。
亜希が。
〝幸せになってね〟
何て残酷なことを言うのだろうと、数美は初めて亜希を恨んだ。亜希が消えたこの世界で、どうやってその願いを果たせと言うのだろう。あんなに早く逝ってしまうだなんて、まだ信じられない。
冴次は数美を見守っていたが、顔を上げると、姿を消した。
「数美……」
「π」
転移したのだろうに、どこかで外に出たのだろうか。πの黄金の髪の毛には雫がふわりと覆い、金色を反射で輝かせていた。いつもの白いコート、襟元の金鎖、朱塗りの鞘の刀。πは何も変わらないのに、数美の世界からは大きなものが欠落してしまった。数美は気づけば腕を伸ばしていた。πがしっかりと数美を抱きとめる。黒の空間の中、白いコートですっぽりと傷ついた少女を覆った。
「π。亜希が――――」
「うん。解っている」
そうだろう。彼はあの空間に数美たちを送り込み、その後の一部始終を視ていたのだから。
数美の目は虚ろだった。涙の気配もない。そのことがπには却って痛ましかった。いよいよ抱き締める腕に力を籠めそうな自分に気づき、少し緩める。傷ついた小鳥を握り潰してしまわないように。体温を分け与えるだけのように。
亜希の存在感は大きかった。πは当初から亜希が番号持ちではないかと疑っていた。そして亜希は、本当に番号持ちだった。完全数、自分と仕合っても引けを取らないような実力。その彼女がこうも呆気なく死んでしまう未来を、一体誰が予期出来ただろう。恐らくは殺害した当人である敦人にもそこまでは読めていなかったに違いない。数美の身体は冷えていた。気温は高く、寧ろ蒸し暑くさえある。彼女は外界の空気を遮断しているようだった。そしてπには意味不明の言葉を虚ろに呟いた。
「父さん。これも貴方の最適解の一つですか」
数美の父、蓮森征爾は失踪している。死亡の可能性も高いとπは考えている。
だが数美のこの言い様はどうだ。
まるで征爾が未だ健在であるかのような口調だ。いや、そればかりか――――。πの中に微かな疑惑が芽吹いた。
それより今は数美の有様をどうにかしなければ。……今までであったなら、亜希が担っていたであろう役割を、πは担おうとしていた。代わりになれるとは思わない。だが、πは懸命に、そして献身的に数美に尽くそうとした。
身体を少し離し、問いかける。身体を離した時、入って来た空気の存在感が大きいと思いながら。
「数美。温めのココア、飲める?」
「……アイスココアが良い」
「今の数美は冷えてるから、温めかホットが良いよ」
「……」
答えない数美を置いて、πは部屋を出た。塔子が部屋の外に立っていた。娘を気遣う双眸でπを見る。
「温いココアをお願いします」
「解ったわ。貴方は?」
「カフェオレを」
短い遣り取りの後に部屋に戻ると、数美はベッドに腰掛け、ぼうっとしていた。廊下から射す光で見える髪の毛はぼさぼさだ。整えてくれる亜希がいないからだ。そのことにπは不意に胸を突かれた。亜希はいない。あの、高慢で勝気で、強く優しかった少女はこの世界からいなくなってしまった。せめても、電気スタンドの灯だけをつける。数美を刺激しないように。πはドレッサーの前のブラシを手に取り、数美の隣に座って彼女の髪の毛を梳き始めた。数美は初め、びくっと身じろぎし、目を見開いたが、大人しくπに髪を梳かれた。
「……どうして泣かないの?」
「亜希は望まない。それに、僕はまだ泣く訳には行かない」
「数美の秘めているものが、俺には解らないけれど、泣きたい時には泣くのが良い」
「π」
「うん?」
「亜希はどうして死んだ?」
「――――……」
「亜希はまだ十七で、これからだった。男の好みは煩かったけど、その内、似合いの相手を見つけて、結婚して幸せになっただろう。もし子供を産んだなら、良いお母さんになった。こんな。こんな人生をぶつ切りにされる筈じゃなかったんだ」
言う内に昂って来たのか、数美の目に水の膜が張った。けれど彼女は頑迷なまでにそれらを涙と変えようとはしない。コンコン、と戸がノックされ、塔子がココアとカフェオレを差し入れてくれた。母の情であろう、数美の様子を一瞥して戸を閉じた。
二人で、ベッドに座ったまま、それぞれの飲み物を飲む。
頑なな少女の目から、つるりと雫が零れ落ち、ポチャンとマグカップの海に落ちるのを、πは見ない振りした。やがて数美は涙を流しながらココアを飲み終えた。
「π」
「うん」
「π。亜希は、どうして」
それ以上は言葉にならなかった。数美は顔を両手で覆い泣き声を上げた。πは彼女との距離を詰め、身体がくっつくようにした。
「亜希……! 嘘だ、こんなの、亜希…………っ」
その後、数美が言った言葉を、πは捉え損ねた。
「こんなんじゃ僕は失格だな」
雨はまだ降り止まない。




