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062、逝ってしまう貴方へ

挿絵(By みてみん)

 味噌汁の匂いを敏感に察知した鼻がひくつく。創は目を開けた。篠蛾敦人の家では寝る時には浴衣が義務づけられる。そして朝食は七時頃には部屋前の廊下に置いてある。就寝時に浴衣を着るだなんて数美みたいだと思いながら、創はこの家の習わしに慣れて行った。

朝食を終えて庭に出れば美冬と夏人が寄り添うようにして池の前に立っていた。夏人は美冬を慰めているようだった。美冬がそれにこくりと頷く。夏人の橙、美冬の縹色の単衣は対照的だったが、不思議と並ぶと絵になった。(みず)(ぬる)む和やかな初春の蒼穹の下。対峙した若者たちの態度はそれだった。夏人は創を見て敵意を露わにし、美冬は悲しみの一瞥をくれた。そして創はそんな彼らに頓着することなく、無表情を貫いた。


「お前、何を考えている」


 尖った声を出したのは夏人だ。


「何、とは?」

「お前が敦人様に心酔しているとは思えない。蓮森数美のスパイなんじゃないのか」


 創は苦笑した。元より簡単に信じてもらえるとは考えていない。だが、疑わしい者はもっと寛容に緩やかに泳がせておくものだ。例えば敦人がそうであるように。あの一見狂気に満ちた言動に潜む深慮遠謀と肝の太さは見倣うべきだと創には思えた。そんな男に比べると夏人の問いかけなど児戯である。


「確かに俺は篠蛾敦人に心酔なんてしちゃいない。数美を守るならこちら側に就いたが得策と考えただけだ」


 全ての真実は明かしていない。けれど事実しか述べていない。創は以前、こんな話を聴いたことがある。最も有効な嘘の吐き方は、盃に満ちた事実に一滴だけ虚偽を混入させることだと。そうすれば真実に紛れて嘘の有無が判別し辛くなる。鶯の声が聴こえる。気が長いなと創は思う。そしてそんなことを思う程度に余裕のある自分に頭の片隅で安心していた。涙を拭いた美冬が立ち上がる。梅の花のような唇が動く。


「もしも貴方が裏切ったら、私が貴方を殺すわ」

「ああ、良いよ」


春風のような温厚さで答えた創に、美冬は再び眼球に海を満たさんとした。夏人も美冬も、創のレンタル能力を知っている。当然だ、だからこそ敦人に気に入られて引き抜かれたのだから。対して創は夏人と美冬の能力を知らない。いずれ探っていければと思う。虎視眈々と、相手の弱味を見つけようとするのは、創も夏人たちも同じだった。


「若者は良いな。微笑ましい」


 縁側からそんな創たちを見ていた敦人の感想である。黒と赤の入り混じった着流しで緩く腕を組んで立っている。その肩にふわりと羽織りを乗せる腕があった。


「ああ、ありがとう、(さかき)

「いえ」


 榊と呼ばれた壮年の男の刈り込んだ髪は真っ白で、目は黒曜石のように黒々としている。


「よろしいのですか」

「何がだ」

「影蔵創です。あれの心は我らにあらず」


 敦人が咽喉の奥で笑った。


「知っているよ、そんなこと。小僧の浅知恵だろう。大方、我の異能を探ろうという心算なのさ。だが知ったところでレンタルは出来ない。我は同意も許容もしないからな。あの小僧をこちらに置く理由はシンプルだ。敵戦力を削いでおこうというだけの話だ」



 飛鳥井亜希は低血圧である。今日もベッドの上で何度も寝返りを打ち、転がり、果ては床にまで転がり、壁にゴン、と頭を打ち付けてやっと止まった。絹のネグリジェを着ていた彼女は涙目で立ち上がり、八つ当たりに壁を蹴り、そしてその報いに足の小指を角にぶつけた。朝から踏んだり蹴ったりである。窓のカーテンを開ければ未来を祝福するような青空がそこにあるというのに。亜希は創の様子を〝視た〟。元気でやっているようだ。上々。カーテンを再び閉めて、ネグリジェをするりと床に落とすと、下着姿でクローゼットを開け、今日着て行く服を選んだ。選ぶ手がふと止まる。想いは優しく勇ましい親友に向かう。数美。創の件に関して、そこまでダメージは受けていないように見受けられるものの、実際はどうなのか。優しい人間はその優しさで己を殺しかねない。亜希はそう考える。だから不必要な優しさは持たずに生きて来た。だが数美は凛々しい在り様に反して心が繊細で優しい造りだ。


「冴次。頼むわよ」


 ぽつりと呟きを落とし、亜希はクローゼットからピンクのツーピースを取り出し、小さくくしゃみをした。


 よく晴れた好天だった。蒼空の隅々まで磨き上げたように完璧な朝。何かが損なわれそうな朝。日曜だったので、亜希と数美は再び凍上を見舞おうと話していた。数美には他に気掛かりなことがあるようだった。性急に話をさせようとしても口を噤む親友の気質を知る亜希は、今はまだ見守るに留めている。見守る。見守る。完全数を得て生まれて来ながら、亜希はもう随分長いこと、黒子の役に徹してきた。それは窮屈な守りの揺り籠だった。だから今、初めて表舞台で呼吸する亜希は慎重を期しながら活き活きとしていた。数美の家に着くと、塔子が優しい笑みを浮かべて出迎えてくれる。奥から相変わらずのゴスロリファッションの数美が出てくる。髪の毛がかなりうねっている。ブラッシングの手を抜いたなと亜希は思い、数美の肩に手を置いて部屋に引き返させる。これはもう見慣れた光景で、塔子は長閑に朝食の支度の続きを再開させる。


「どうしたんだ? 亜希」

「どうしたんだじゃないわ。数美、髪はきちんと梳かしなさい」


 言いながらドレッサーの前に座らせてブラシで手早く親友の髪を梳かしてゆく。


「今日は凍上さんのお見舞いだけじゃないわよね?」

「うん。彼に地下に眠る番号持ちの話を聴かなくては」

「1、2、3かあ。ちょっとびびるわよね」

「亜希でも?」


 意外なことを聴いたように数美が目を瞠る。


「所詮、私は只の完全数だからね」


 髪を梳く手は止めない。だいぶ、まとまってきた。

 この時の亜希の悲しみと儚さの入り混じったような笑顔を、後に数美は思い出すことになる。誰より傍にいた親友。片時も離れることなく育った幼馴染。創は背を向けたけれどそれにだって何か理由があるのだろう。


 結局、数美は同じ亜希の笑顔を見ることは二度と叶わなかった。

 

 亜希が死んだ為である。



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