060、無期限レンタル
陽射しはもう初夏と言って良い頃合いになった。春のおっとりした眠気を誘うような、かと思えば冬の名残を忘れてくれるなというような冷えが少なくなり、爽やかな風が吹く一時の季節を迎えていた。数美は部屋で考え事をしていた。こんな住宅街の片隅で、年端もいかない少女が日本一国に関わる諸事を考えているなど、一体誰が思うだろうか。彼女は考えながら、大事な存在を守ることがどれだけ困難かを痛感していた。閉じていた目を開き、意を決して通信機器を取り出した数美は、ある番号にかけた。
影蔵創の番号に。
やがて近所の公園に現れた創は、フード付きの白いパーカーにジーンズ姿だった。木刀は常に彼と共にある。公園内に植えられた樹木や花が和やかに風に揺れている。土曜日とあって子供の数も、その親の数も多く、数美が久し振りに乗りたかったブランコは既に占領されていた。創と並んで決められていたようにベンチに座る。
「懐かしいな。ちっちぇえ頃は、お前や亜希とよくここで遊んだっけ」
「ああ、創は女の子みたいに可愛かったから、悪ガキたちにちょっかいかけられて、僕らが追っ払ったんだよな」
「そういうことは憶えてなくて良いよ……」
電線に留まった雀が鳴いている。
「創。お前、何を考えてる?」
「何って?」
「……なぜ、篠蛾敦人の元に出入りしている」
創が数美を見た。数美も創を見返した。その瞳にはどこか悲し気な色が含まれている。
「冴次、か?」
「それだけじゃないけど」
「こういう質問をはぐらかすのは好きじゃないから単刀直入に答える。〝答えられない〟」
創の、一見矛盾したような返事を聴いて、数美は眉根を寄せた。明るいピンク色のゴムボールが飛んできて、数美はそれを持ち主の女の子に返してやる。
「創のレンタル能力は異質だ。亜希の完全数と同じか、いや、それ以上なくらい。僕は昔から、それが怖かった」
「怖い?」
「うん。創をどこか遠くへ連れてゆくようで」
そういう数美の目こそ水気を含み遠くを見て、まるで砂漠の蜃気楼でも見ているみたいだった。
そんな様子の数美をじっと見た創は、やや俯き加減になり、口を開く。
「それこそお前のほうだと思うけどな。なあ、数美。お前は俺たちに何を隠してる? 最適解に関することか? 親父さんに関することか?」
「今のお前の後ろ二つの問いに明確に答えよう。両方だ。僕は、だから……独りなんだ」
「……大袈裟言うなよ。俺や亜希や、πだっているだろう」
本当はπの名前は出したくなかった。数美がふ、と年経た老婦人のように笑った。それは創を寂しくさせる笑いで、数美が、自分を独りと思っていることは確実だった。
「なあ、俺じゃなくて良い。他の誰かに、打ち明けちまえ。このままじゃお前が参ってしまうぞ」
薄い青紫と、白い桔梗の花がそよぐ風と時を歌う。
「大丈夫だ、僕は。冴次がいる」
「――――もう一人いるな? お前の秘密を知る人間が」
「…………」
少年と少女は今、年に似合わぬもの錆びた心情で隣り合っていた。互いの呼吸や体温は感じ取れるのに、気持ちの上での距離はとても遠い。
「……創。お前に29をレンタルすることを許可する。期限は僕に相談なしで延期して良い」
だから少女は、せめて去り行こうとする少年の身を守りたかった。それにはレンタルの付加が一番効率的だ。
そう、少年が去り行こうとしていると数美は気づいていた。そしてそれはどうしても止められないものであることを。創はありがたいなと言って、只、微笑んでいる。
「死んだら承知しない。僕が殺す」
「そりゃおっかない」
「亜希を泣かせたら承知しない。僕が殺す」
「ねえ、お前ってもう少し無難な言葉選び出来ないの?」
呆れたように言う創の、それでも瞳には確かに数美の意思を受け留めたという色があった。
それから二人は別れた。さりげない挨拶で、永訣となるかもしれない別れを済ませた。
それから創は家からも学校からも姿を消した。
亜希はそれで狼狽えるような凡庸な少女ではなかった。醒めた目で、あいつのことだから何か考えがあるんでしょ、と一言、言ってのけた。全く、数美を泣かせたらぶち殺すから、あいつと、数美に劣らぬ物騒な発言も続いた。亜希はπと同様、〝視る〟ことの出来る力を持つ。篠蛾敦人の屋敷に創が出入りしていたのを知っていてもおかしくはない。
羅宜雄古勇太は不安そうな顔を見せている。創の異能のほうが、羅宜雄などの異能より余程、荒事に向いていると知りながら、それでも心配せずにはいられないのが人情だった。阿頼耶識は不機嫌そうだった。集まった図書館で、腕組みしてどっかり胡坐を掻く。
「面白くねえな」
「莫迦屋敷、違った、阿頼耶識、同感だ」
「一言多いんだよおおおお」
「影蔵。あいつ、事情があるんなら俺の能力もレンタルさせてやったのに」
そこで全員の注目が阿頼耶識に集まる。阿頼耶識がたじろいだ。
「な、何だよ」
「阿頼耶識―! あんた何て良い子なの! お姉さんがハグしてあげるわ」
突進した亜希を軽く、しかし引きつった表情でかわす。
「要らん、要らん!!」
「ああそうか、数美のほうが嬉しいわよね」
「そういう問題じゃねえよっ」
そこに四角い銀縁眼鏡をかけた、一生徒が歩み寄る。
「あの。大変申し訳ないのですが、図書室ではもう少し静かにしてください」
すみませんと四人して謝り、後はぼそぼそ声のトークとなった。
夜。月の光が差し込む病室。青鎬が眠っていた。思えば統監府に入ってからというもの忙殺され通しで碌な休みもなかった。良い休暇を得たと考えようと、青鎬は決めた。ごちゃごちゃ悩んだり悔んだりするのは性に合わない。眠りいる青鎬の呼吸は安らかだ。サイドテーブルには今でも見舞いの品が置いてあり、彼の人望の強さを思わせた。その、青鎬が眠る病室の窓の外、宙に浮く人影がある。花屋で働く青年・亜房温人だ。彼はしばらく宙に浮いて青鎬の様子を窺っていた。
友情出演:考葦亜房さん