06、社会科見学
夜空を滑空する人影がある。燐光を纏う彼の姿は、地上から見たら流れ星のように見えたかもしれない。長く、所々三つ編みにされた髪は鮮やかに青い。ふわり、と彼は宙に留まる。見据える先にあるのは数学統監府。国の頭脳にして最高機関。髪と同じ青い目が眇められる。
アテナと関孝和の組み合わせ。狙うところは解るがやはり珍妙な組み合わせだ。
「その内、潰してやるよ」
物騒な台詞を聴く者はなく、ただ冷えた晩秋の風が吹き抜けた。
いつものように、数美は亜希と創と一緒に登校していた。先日の一件以来、阿頼耶識は数美たちに絡んで来ようとはしなくなった。それは良いのだが。
「創。何かあったか?」
「ん?」
「僕の能力のレンタル要請の記録があった」
それは紙などに記載される訳ではなく、数美の脳裏に信号のように残される痕跡だ。
「悪い。ちょっとバトッた」
「創が僕の能力を使うなんて余程だろう。番号持ち相手か?」
「…………」
創はいくばくかの逡巡の後、πと名乗った少年との遭遇を物語った。
「数美のことを知ってる風だった」
「――――父さん関係かな」
「数美のお父さんの行方を知ってる人ってこと?」
「いや、そうとは限らないが、強かった。俺はほぼ防戦一方で、相手の異能を突き止める余裕もなかった」
創は番号持ちではないが、その実力は数美も亜希も承知している。よく熟れた柿の実がたわわに実る枝が石塀からこちらにはみ出ている横を三人は沈黙して通る。実際のところ、創の能力は有効な使い方をすれば非常に脅威となる能力と言えた。つまるところ彼は相手の許諾さえあれば極端な話、それが1番の能力であろうが自由に使役出来るのである。潜在能力において言えば創はπと十分に並び立つ化け物だった。
「僕は今日、仮病を使って学校をさぼろうかと考えていた。母さんに阻止されたけど」
「ああ、社会科見学ね」
「数学統監府に行くのがそんなに嫌か」
話が切り替わり、憂鬱な顔で数美がぼやいた。創の落胆を引き摺らせまいとしたのもある。
「嫌だね。どうせ統監府の人間は僕のことも既にチェックしてるだろう。おまけに蓮森征爾の娘という箔つきだ。パンダみたいに観察されることは今から目に見えている」
「あれさ、趣味悪いよな」
「ん?」
「ああ、アテナと関孝和? あれって建立を請け負った業者同士が、どっちが先に仕上げるかで競い合ったとか曰はくがあるらしいわよ」
「ありそう」
「……僕、お腹痛くなってきた」
「まあまあ。私たちもいるんだから、ちゃちゃっと行って済ませちゃいましょうよ」
「僕は亜希のことも心配なんだよ」
その言葉の指すところを知るのはここにいる三人のみ。今のところ、恐らくは。亜希がふ、と笑った。
「知れたところで構わない。私のスタンスは数美と創を守ること。それは変わらないんだから」
数学統監府には部外者はおいそれと立ち入ることが出来ない。そこを、社会科見学という名目の元であっても認可が下りるあたり、数美たちの通う高校の世間的な地位の高さが窺える。貸し切りバスに乗り込み、数十分、揺られると、アテナと関孝和を従えた数学統監府の建物の駐車場に着く。
「良いか。統監府内では配布された入府許可証を必ず首に掛けておくように。立ち入り不可の場所には近寄らないこと。下手すりゃ厳罰ものだからな。たかが見学と思わず、気を引き締めて行け」
担任の言葉を生徒たちは一言一句、聴き洩らさない。彼らとて統監府の特別であることを熟知している。本来であれば子供がうろついて良い場所ではないのだ。社会科見学という名目で内部を垣間見れるのは、非常に稀で得難い機会だった。
統監府内の入り口で入府許可証を配られ、数美たちは中を見渡した。一階はそこかしこに観葉植物が配置され、意外にアットホームな空間を演出している。受付には綺麗な女性が二人並び、さながら大企業の社屋のようだ。そしてあちこちに無数の時計が配置されている。漢数字からアラビア数字まで時代も種々様々な時計が一様に今の時刻を正確に知らせる様には圧がある。
「あん? 何だぁ? ガキ共が何で統監府内をうろちょろしてる」
たまたま自動販売機でコーヒーを買っていた青鎬が眉を顰めると、後ろにいた凍上が宥めるような声を出した。
「社会科見学ですよ、青鎬さん。昨日の課長の話、聴いてませんでしたね」
「聴いてなかった。つか、数学統監府だぞ。お子様の遊び場にするなや」
「遊び場じゃなくて学習ですよ。あの中には番号持ちもいるでしょう。因みに蓮森数美もいますよ」
「――――それを早く言え。どれだ」
「ほら、あの。ゴスロリっぽい恰好の小柄な」
凍上が指さした先には、創と亜希と一緒に統監府内を見回す数美の姿がある。
「ほーお。あれが29か。エグい能力に反して、中々可愛いじゃないか。そういや蓮森征爾も色男だったな。遺伝かね」
「意外にロリコンでしたか」
「莫迦。珍種のペットみたいなもんだよ、あんなんは。俺の好みはもっと大人の女だ」
「と、すると、三班の砂嘴班長あたり?」
「やだ。あの人怖いもん。お嬢ちゃんのが良いわ」
はあ、と凍上が溜息を吐く。
「戦闘狂の青鎬さん。若い芽を潰さないでくださいよ」
「俺は優しいジェントルマンだ」
「はははははは」
「ムカつく笑い……」
一頻り数美を検分した青鎬は凍上を連れて三課に戻り、缶コーヒーのプルタブを開けて中身を飲んだ。ミルクや砂糖入りのコーヒーは若い頃から好かなかった。ブラック無糖一筋である。青鎬は一見、短絡的な無頼者に見えるが、その実、鋭利な頭脳をフル回転させている。
(蓮森数美の横にいた坊主。あれも何かあるな。もう一人の少女はごく普通の民間人に見えたが……)
普通、を装い擬態する人間は恐ろしいというのが青鎬の持論だ。現に蓮森数美はつい先日まで猫を被って暮らしていたではないか。彼女の場合、父親の一件があったことで、番号持ちであるということの特定は早くからなされていたが。
「どこに行くんですか、青鎬さん」
「ちょっと屋上で外の空気吸ってくる」
「煙草は駄目ですよ」
「お前は俺の女房か。禁煙してもう三年だぜ。今更、吸わねえよ」
「そうして気が緩んだ頃が危ないんですよ」
「うるっせ」
数学統監府内の十階建ての建物の屋上は周囲をフェンスで囲ってあるものの、あとは解放された空間だ。晩秋の物悲しさなど青鎬には知ったことではないが、青がやけに沁みると思う程度の感受性はある。それぞれ、屋上の端に寄ればアテナ像と関孝和像の頭部を見ることが出来るが、青鎬に興味はない。
「出て来いや。こそこそしやがって、いけ好かねえんだよ」
青鎬のぶっきらぼうな声が虚空に放たれると、何もなかった空間からするりと人影が現れた。風に靡く、所々青い三つ編みの施された青い髪。青い双眸。
「最近、しょっちゅううろついてたな。ここは俺のテリトリーだぜ。番号持ちか」
にい、と男が口角を吊り上げた。綺麗な歯並びしてやがる、と青鎬は場違いな感想を抱く。
「主張の強い番犬さん。俺は番号持ちじゃない。αと呼ばれている」
「記号持ちか。呼ばれてるってことはお仲間さんがいるのかな? さしずめπあたり」
「それはどうかなあ。まだるっこしいこと言ってないで遊ぼうぜ。666の番号持ち。〝悪魔の青鎬〟」
一際、冷たい風が吹き荒れて、αの長い髪を乱してその表情を隠した。