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059、シークレット・ガーデン

挿絵(By みてみん)

 有栖は珍しく自室にいた。

 木造アパートの二階。六畳二間に小さなダイニングキッチンがついている。数美たちにはよく解らない医療用具が並んでいる。それにしても、119という、凡そ番号持ちの中でも最たる治癒系の能力の持ち主の住まいとしてはささやかだった。前以て連絡した訳でもないのに、有栖はさして驚いた様子もなく数美たちを迎え入れ、πに指示して凍上を白い布の敷かれたベッドに寝かせた。この頃にはもう凍上の意識は朦朧として、数美とπに不安を感じさせたが、有栖が彼の左肩に手をあてると、程なく出血は止まり、心なし凍上の顔色は良くなった。


「輸血の必要はないんですか?」

「だいじょーぶ。そこんとこも補っといたから」


 答えた有栖に、πは散々、化け物じみた人間を見て来たが、この女性も十分化け物だと思った。もちろん、好意的な意味でだ。

 それから三人は、春の陽が射す窓硝子越しに揃って、有栖の淹れたカモミールティーを飲んだ。有栖の許可が出たので、再びπが凍上を背負い、数美と共に彼を彼のアパートまで送り届け、自分はお人好しかもしれないと思いながらπは家に戻っていたzを凍上の元に送ってやった。後の介抱はzがするだろう。


 凍上が覚束ない意識の中、目を開けるとそこには一対の翡翠色があった。濡れている。濡らしたのは自分だ。死に損なったかという思いと、香澄を泣かせてしまった罪悪感が同時に湧き上がる。


「香澄……。ごめん」

「薫、どうして? 青鎬さんの敵討ち? Ωに話を聴いて私が、もし私が貴方に置いて逝かれたらどうしようってどれだけ心配したか」


 その時、戦闘一色だった凍上の心に木漏れ日が射した。それは優しく温かく、ほろほろと凍上を包んだ。泣く香澄を見るのが忍びなかった。


「君のベッドを占領したな」


 これは凍上のベッドだが、彼は香澄のものの積りでいた。


「そんなこと」


 ぶんぶんと香澄は頭を振る。


「何か欲しいものはない? して欲しいことは?」

「水が飲みたい」

「解ったわ」


 すぐさま立ち上がろうとした香澄の腕を凍上が捉える。そのまま、自分の腕の中に彼女を閉じ込めてしまう。香澄は抗わなかった。待っていたように凍上に寄り添った。


「生きてるって気がするよ」

「……ええ。薫は生きてるわ。これからも死なない」


 それは厳かな声音の、女神の宣言のようだった。二人は見つめ合い、軽い口づけを何度か交わした。



「あああ~」

「何だよ、π」

「今頃、凍上さんとzはいちゃついてるんだろうなあ。良いなあ」

「お前もお嬢ちゃん引き留めていちゃつけば良かったじゃないか。お邪魔虫は退散するぜ?」

「戦闘後の数美って普段より綺麗なんだよ。迂闊に手出し出来ない」

「なっさけねえなあ」

「煩いよ。マドレーヌ焼けた?」

「もうちょい」


 πの家では嘆き節のπと、xが緊張感のない会話をしている。yは我関せずといった様子でリビングのソファーに座り、白ワインをくいくい呷っている。明るく透明な陽に淡い紫めいた色が混じり始めた。夕刻が近い。直にyの手のワインはビールに変わるだろう。それらを見越してxはマドレーヌと夕食と一緒に肴も作ってやっている。甲斐甲斐しいことこの上ない。自分でもそう思うことにxは僅かな哀愁を感じて菜箸を振るっていた。



「敦人様!」

「煩い……喚くな。秋子は」

「――――絶命しております」

「そうか」


 敦人を出迎えた面々は、床の用意をして、丁重に敦人を寝かせた。秋子の亡骸はすぐ、敦人の見えないところに運ばれた。座敷の欄間彫刻の龍が敦人を見下ろしている。見下されているようで、敦人は不快だった。右腕の感覚はない。凍上の置き土産だ。敦人はそれを屈辱とは感じたが、不便とは思わない。片腕を喪って尚、敦人には余裕も余力もあった。青鎬のようなやわな男とは違うのだ。


「敦人様……」

「クリームソーダを持って来い」

「し、しかし傷に障るのでは」


 敦人はおろおろと尋ねた男性をぎょろりと睨めつけた。


「同じことを二度も我に言わせるな」

「は、はい!」


 臥せながら敦人は天井の木目を眺める。クリームソーダはどんな時でも自分に味方するのだ。〝なぜならあれは両親の心臓を食べた自分に美味を教え癒したではないか〟。あの甘さがあったからあの夜を越えられた。なければ発狂していたかもしれない。やがて運ばれてきた緑と白の色合いを見て、敦人は満足そうに笑った。



 数美はベッドにいた。

 胎児のように丸くなり、じっと動かない。その様子は傷を負った動物にも似ている。もうすぐお風呂が沸くわよと声を掛けた母は、何事かを察しているのだろうか。


「数美様」

「冴次……」


 紫の刺繍が施された影守が暮色の中佇んでいる。


「なぜ私を呼ばれませなんだ」

「必要ないと判断したからだ」

「異能の王と名乗るあんな危険な男を前にして?」

「……例え呼んだとしても僕はお前に亜希を守るよう命じただろう」

「それが主命であれば従いましょう。ですが私の本分は主である数美様を守ることです」


 ふわ、と数美が笑んだ。


「守ってもらっているよ。冴次にはいつも。どんな危機でも、まだ冴次がいると思うと乗り越えられる。どれだけ僕がお前の存在を心強いと思っているか」

「……」


 どこか遠くで犬の遠吠えが聴こえる。車の走行音も。


「亜希は無事に家に着いているよな?」

「はい。確認いたしております」

「なら良い……なあ、冴次」

「はい」

「最近、創の様子がおかしくないか?」

「創様……ですか? 別段、変わったところは見受けられませんが」

「創は隠し事がある時、左手の親指と人差し指を擦り合わせる。最近、時々見かける。一体、何を隠してるんだか」


 冴次が数美を見つめる。小さな己の主を。おもむろに唇を開く。


「数美様はいつ、隠し事を彼らに明かされるのですか?」



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