054、阿頼耶識豪の受難
新学期も本格始動し、まだ冷える空気の中、それでも花色の風を微かに感じる。
青鎬はπによって数学統監府に送られた。πたち記号持ちの陣営と数学統監府は篠蛾敦人という脅威に対して手を結ぶ間柄となったに等しい。青鎬は自分の身体のことよりずっと音叉の安否を気遣っていた。莫迦な男だとπは思う。この場合の莫迦は、〝見上げた〟に等しい。大した男だとπは改めて青鎬の器を認めていた。
家にxと共に戻ったは良いが、不安な面持ちをした数美のことが気にかかる。我ながらあの場面での嫉妬には反省した。反省したがπは反省を3秒で忘れる、もとい気持ちを切り替えることの出来る人間だ。帰還してxにまず命じたことは、フルーツチョコパフェを作れという非情な命だった。
ここにも非情な運命にぷるぷる震えている少年がいる。
彼の名前は阿頼耶識豪。誰もが知る611番の番号持ち。いつもワックスで固め掻き上げた髪の毛は少し尖った彼の顔立ちと相まってそれなりに様になり、背伸びして着たブランド物の服もそれなりに様になっている。
普段であれば。
事の発端は昼休み。数美の様子を窺い知れないかと彼女のクラスの周囲をうろうろしていた彼だが(決して自分はストーカーではないと自らに言い聞かせて)化粧の濃い女子たちに捕まったのだ。
「あっれー、阿頼耶識じゃん」
「何してんの? 入れば? 寒いっしょ」
「あー、もしかして蓮森に逢いに来たんじゃないの~」
「ち、違う」
じりじりと狭められる包囲網。長い黒髪をウェーブにした女子が左から、金髪を肩まで伸ばした女子が右から阿頼耶識を確保した。
「な、放せ! ざけんなよお前ら、こんなことして只で済むと思ってんのか」
「あーはいはい、お坊ちゃま。大人しく観念して」
教室と廊下に伸びるリノリウムの床が数美と創、ついでに遊びに来ていた亜希のいるクラスのドアで無情に仕切られた。
室内は暖房が入っていたが阿頼耶識はほっとする心地などからは程遠かった。
「はい、座って座って~。大丈夫。うちらが、蓮森も見惚れる超男前にしてやるから」
数美たちが物珍し気にこちらを見ているのが解り、阿頼耶識は逃げたい衝動と必死に戦っていた。なぜ逃げないのか? 男だからである。番号持ちだからである。阿頼耶識は、自分のそうした矜持はひどく拘り大切にしていた。――――嘗て数美にそれらのことごとく、木っ端微塵に粉砕されたが。それはそうとまず念入りに洗顔して来いと男子トイレまでクレンジングオイルなどを渡され送り出される。毛穴クリームのおまけつきだ。もちろん見張りが一名、入り口で待機している。恥じらいはないのかよ、と思いながら阿頼耶識は自棄になって顔を洗いまくった。不思議なことに三月の冷水で顔を清めると、心なし気持ちもさっぱりした。待っていた女子がタオルを渡してくれる。
「阿頼耶識は、莫迦で偉そうだけど素材は悪くないんだから」
鼻歌混じりに勝手なことを言われ、阿頼耶識は再び数美のいる教室に戻った。逃亡する隙をさり気なく窺っていたのだがそれはなかった。ここまで来るともう数美たちも遠慮がなかった。阿頼耶識が座らされた席(最前列中央)の傍に陣取り、阿頼耶識の気も知らずお弁当を食べている。なぜか水野針生、羅宜雄古悠太までいる。そう言えば最近つるんでいたんだっけかと阿頼耶識が思う間もなくブランド服を汚さないようにタオルを首回りに掛けられる。化粧水を含んだコットンで顔面を隈なく拭かれ、その上から乳液、ファンデーションが塗られていく。
「おい、男を磨くんじゃないのか、何塗ってやがる!」
「いやあねえ、阿頼耶識クン。俳優もモデルも、男性はお化粧が基本よお?」
「そうねえ」
合いの手を入れたのは亜希である。面白そうににやにや阿頼耶識を見ている。
(あ、解った。俺、今日、厄日だ)
何より阿頼耶識を観念させたのは、数美の興味深そうに唇の端を吊り上げた笑顔だった。
最近、彼女に何かと心労が多いのは察している。背負うものの重さも。だからこそ、今のように普通の少女の笑顔を保っていられる時間が如何に希少なものか解ってしまうものがあるのだ。
「……」
ふう、と阿頼耶識は肩の力を抜いた。
たまには道化になる日があっても良いかもしれない。数美が笑う為の災難であるなら享受したって。
(お前には解んないだろ、影蔵)
そんな風に当たり前に数美の横に並べることの貴さが。
創は自分の異能を学内では隠していたが、阿頼耶識は創の異能を知った時、別段驚きはしなかった。ああ、こいつならと思った。思わせるだけのものを創は若年にして既に備えていて、そしてそれは阿頼耶識が欲して止まないものだった。創のような男を、男が憧れる男と言うのだろう。自分にはないものだ。阿頼耶識の秀でたところは、このようにして己を冷静に痛感出来るところであった。
「はい! 出来たよ~ん」
「やだ、阿頼耶識ってば……」
は、と我に帰ると化粧は終わっていた。何だか顔面の皮膚が分厚くなり、皮膚呼吸し辛い気がする。唇もベトベトする。真っ先に数美の反応を見るとぽかんとした顔をしている。亜希でさえ同様に。創は難問を突き付けられた微妙な表情だ。阿頼耶識が見せられた鏡には、それは見事な男前の中の男前――――宝塚の男役のような〝男装の麗人〟が映っていた。すかさずシャッター音が連続するのは最早、自然の摂理であり、阿頼耶識はこんな筈じゃなかった、と心の中で声を大にしながら叫びつつも呆然自失の体だった。
「阿頼耶識……」
「――――何だよ」
「お前、悪くないぞ。自信を持て。あ、サイン貰って良いか?」
「待て待て待て色々と待て。俺はヅカのスターじゃねえ」
自分は29という高位の番号持ちの癖に何を血迷っているんだと阿頼耶識は呆れ、ついで亜希がそっと差し出した化学のノートを見て怪訝な顔をした。
「このページにサインして頂戴」
「勉強道具を粗末にすんな。化学は俺の好きな科目だ」
「水兵リーベ、僕の船、くらい知ってるわよ。良いからしのごの言わずここにあらやしきってローマ字でサインしなさい」
もう良い。面倒臭い。
数美の喜ぶところも見届けた。それは阿頼耶識の予想の斜め上だったが。
意を決した阿頼耶識は立ち上がるとその場から脱兎のごとく逃げ出した。
「追手を放て、追撃せよ!」
創は一致団結する女子たちを怖いものを見る目で眺めていた。阿頼耶識には同情を禁じ得ない。この教室にいる男子生徒たち皆が同じ気持ちだろう。
窓の外を見る。もうすぐ桜が咲く。
咲いたらまた毎年のように数美と亜希と花見が出来るだろうか。
固く身を閉ざして今は眠る桜の樹を見ながら、創の目には鋭利な刃にも似た複雑な色合いが浮かんでいた。




