051、ある男の通知表
篠蛾敦人の両親は番号持ち、記号持ちだった。家は裕福で、両親共に番号、記号持ちであることに高い矜持を持っていた。ゆえに、敦人が番号持ちではない、番外で記号持ちでもないことに深い落胆を示した。それでも幼い頃から敦人にはずば抜けた異能があったのだが、それを両親は褒めるどころか番外の癖に生意気なと、そういった態度を示した。だからある月の綺麗な晩、敦人は両親を殺した。自分を否定する存在など要らないと考えたからだ。その行為に悲しみや憎しみがあったかどうかまではもう憶えていない。只、台所のテーブルに、抉り取った両親の心臓を二つ並んで置き、静かに鑑賞していたことは朧げに記憶にある。確か、鑑賞しながら聞きかじったクラシックを口ずさんでいたように思う。死者を送るのに歌を選んだのは後にも先にもその時だけだ。心臓は赤くて黒くて、この器官がないと人間が生命維持活動を出来ないとは思えない頼りないものと敦人の目には映った。彼は一考したのち、水屋からナイフとフォークを取り出して、両親の心臓に丁寧にナイフを入れながらそれらを食した。そうしたほうが良いような気がした。今夜は敦人が初めて人を殺害した、言わば記念すべき日だ。ならばその獲物は食べるのが生命への道理であろう。くちゃくちゃと心臓を咀嚼しながら、肝臓にすれば良かったかなと少し思った。敦人はフォワグラを食べたことがなかった。綺麗に二つの心臓を食べ終わった後、敦人は食器を洗い、食器籠に置いた。そしてもう二度と戻らぬ我が家を後にした。途中、寄った喫茶店で飲んだクリームソーダが、やたら美味しく感じられたことは憶えている。
それからは裏社会で生きて来た。警察や統監府は番号持ち、記号持ちの夫婦が揃って猟奇的に殺害されたことに衝撃を受け、血眼で敦人を捜したが、犯人としてではなく不憫な唯一の生き残りとしてであった。その為に緩くなっていた敦人に関する包囲網を、敦人は大いに利用した。生き抜くのに必要と思えば何でもやった。殺しに躊躇はなかった。恐らく自分にはそのあたりの道徳観念が欠如しているのだろうと考えていた。奇妙なことに敦人が放埓に振る舞えばなぜか彼に心酔する人間が出て来た。敦人はこれ幸いと、彼らを束ね、一集団として統率した。中には富裕な者もいたので、金銭的に困ることもなかった。敦人は番号持ちや記号持ちを時折、戯れに狩った。特別な印など、この世に必要などない。能力だけが全てだ。
クリームソーダを飲みながら、敦人はにこにこしていた。彼は上機嫌だった。次に誰を殺すか、陣営に招くか、考えることはとても楽しい。炭酸の効いた甘い緑の液体を口に含みつつ、尾曽道だけは例外だったなと思う。恐らく尾曽道の規格外の異能には何等かのデメリットが不随しているだろうが、それでも手出ししにくい相手であることには変わりない。もうすぐ桜が綻ぶ。敦人の忌む春が来る。狂乱の宴を始めよう。胡坐を掻いて座っていた深草色の座布団に左手を突いて、行儀悪く右手だけでグラスを持ちクリームを舐める。鹿威しの音が今日も飽く日のあることを示している。飽かない為には何が必要か。刺激だ。だから敦人は、宴を始めるのだ。彼はその行為が、哀れな番号持ちや記号持ちへ垂れる慈悲でもあると信じていた。名前を彫った象牙の駒をざらりと握る。戯れに出した一つの駒を見て、敦人は微笑んだ。それには青鎬の名があった。
「初音。統監府第三課一班班長・青鎬湯楽里を殺しておいで」
「御意のままに。敦人様」
初音と呼ばれた男性は厳めしい顔つきで恭しく敦人の命を受けた。
「ん? 青鎬はどうした?」
義手のメタリックゴールドの神々しさが痛ましさを上回る砂嘴が凍上に尋ねる。
「忌引きですよ。おばあ様が亡くなられたそうで」
「ああ。道理で宇近衛もいないのか」
「そういうことです」
青鎬は白い骨を箸で摘まんでいた。音叉も無言で同じようにしている。人間は死ぬと白く小さくなる。老人ホームから報せを受けて二人が駆け付けた時には、もう祖母は息を引き取っていた。眠るような顔が、死の苦痛のなかったことを物語るようで、それだけが救いだった。青鎬も音叉も涙はないものの、祖母の死を悼む気持ちは同じだった。祭儀場を出ると空は真っ青に晴れ渡っていた。また軛が一つ外れたなと青鎬は思う。祖母は青鎬を地上に繋ぎとめる存在だった。
消えた。呆気なく。
どれ程大切にしても、喪う時は喪うのだ。
「青鎬さん。大丈夫ですか」
喪服と普段着の印象が余り変わらない音叉が、珍しく青鎬を気遣う言葉をかける。そんなに消沈して見えるかと青鎬は内心、苦笑した。
「大丈夫だよ。しかし音叉ちゃんはこんな時でもズボンだね」
「スカートは持ちません。青鎬さんこそこんな時にもセクハラですか」
「お前は大丈夫か、音叉」
「――――」
不意に声音が真摯なものへと切り替わる。
駐車場に立つ二人の頭上には桜の枝があり、固い蕾が綻びの気配を見せている。
「私は。私も、大丈夫です。祖母孝行をし足りなかった悔いはありますが、どこまで行ってもそうしたものはつき纏うでしょう」
音叉の潔い割り切りに、青鎬は内心で再び苦笑した。
女々しいという言葉は漢字に反して男の為にあるものらしい。
長年の禁煙を今、破りたい思いに駆られていた。
この光景は敦人に筒抜けだった。青鎬の肉親が死のうが生きようが彼にとってはどうでも良いが、消沈して弱っているなら今が狙い目だと思えた。ついでにもう一人の女も消してしまおう。どうせ統監府の番号持ちだ。
そこまで算段を考えて敦人は背後を振り向いた。
「君の出番はまだだよ。どうせならとっておきの時にしよう」
創は無言のまま、敦人には答えなかった。




