050、無能な魔法使い
数学統監府長官・尾曽道哩が自ら敦人陣営と刃を交えたという情報は知る者には知れるところとなった。もとより尾曽道には隠す積りもない。そして青鎬や凍上は、その知れる者の範疇に含まれていた。青鎬がブラックコーヒーの入ったマグカップをずず、と啜る。数学統監府のマスコットキャラ・かずお君のイラストは今日も健在だ。曙光がようやく滲む早春、統監府三課に漂う空気は決して軽いとは言えない。しかしそれは鈍重なものでもなく、例えるなら戦陣に向かう前の尖鋭な空気だった。
「解らねえでもないがな」
「長官のお気持ちですか」
「ああ。俺だって、砂嘴の件では煮え湯を飲む思いだった。あいつはな、凍上。良い女なんだよ。多少、困った性癖があるが」
凍上の脳裏に、zを守ってやれと言った砂嘴の表情、言葉が浮かぶ。知っていたのかという思いと同時に、砂嘴に対する情がそれまでより深みを増したことは否めない。
デスクの上の書類を見るともなしに見る。皆、取るに足りない事務事項ばかりだ。少なくとも砂嘴と尾曽道に関する事柄に比べれば。
「篠蛾敦人は俺が殺る」
凍上は青鎬の顔を見ず、机上から目線をブラインドシャッターのもたらす横縞の陽光に逸らした。
「加齢臭……どうなりました?」
「お前、ここでそれを訊くか」
「良ければ俺の使ってるオードトワレを分けましょうか」
「お前の彼女のくれた奴な? お前、喧嘩売ってるだろ!」
「ははは。まさか、青鎬さん相手にそんな命知らずなことする訳ないじゃないですか」
「だが、篠蛾は自分が殺ると?」
凍上の顔から表情が消える。
「責任を感じてるんだろう。お前のことだ。でもよお、凍上」
青鎬が頭の後ろで腕を組んで、椅子に背を傾ける。
「大事な女がいる奴は、死んじゃあいけねえんだよ」
「――――それは青鎬さんもじゃないんですか」
「は、ちげえねえ!」
知るということは幸福だ。
知るということは残酷だ。
πは尾曽道と敦人らの戦いを始めから終わりまで凝視していた。必要であれば尾曽道の助力に入る積りもあったが、尾曽道は一人で敦人を撃退した。この戦闘の「主催者」は尾曽道だ。彼は部下の復讐に、敦人とその配下を殺そうとした。それにしても尾曽道の異能には驚かされた。そして僅かばかり、同情した。何をされても死なない。死ねない。それは如何ばかりの苦悩か、孤独か。布団に潜り込み、猩々緋王を抱えてπはずっと戦闘の一部始終を見ていた。或いは自分であれば、尾曽道を死なせてやれるだろうか? しかしその自問にπはそっと首を横に振る。数美がこれを知らなければ良いと願う。きっとあの優しい少女は、尾曽道の為に心を痛めるに違いないのだから。砂嘴の為に嘆いたように。この時点でπは、数美が尾曽道の心とリンクしたことを知らない。
襖が開く音と同時にカレンの声が降って来た。
「にゃあお~。π。朝だよ~。あれ? 起きてる。珍しいね」
「カレン。おはよう。潮の匂いがする。また海に行ったの?」
「うん。見て、これ。見つけたの。瑪瑙」
「へえ……、綺麗だね。こんなのも落ちてるんだ」
「うん! 斗支夜がね、私が貰って良いって」
πの顔が警戒に引き締まる。
「カレン、今度、その人を俺にも紹介してよ」
「良いよ~。πもビーチコーミングする?」
「いや、しないけど」
思わず微苦笑してしまう。カレンが出逢った男性、堅洲斗支夜とやらが、無害かどうか確認しなくてはならない。多少の有害であればカレン自ら撃退するであろうが、πはこの年上の女性を妹のように思っていた。それは、少し危険な考えではある。いざという時、πはカレンを戦力の一つとして冷徹に扱わなければならないのだから。前回のように。そうした、この家に住む者たちの指揮官たる厳然とした思いと、彼らを自分が守らなければという思いは、矛盾しつつπの中にあった。
何となく、成り行き上で、数美たちと羅宜雄古怒太、水野針生らは親しくなっていった。昼には一緒に食事をしたりする。数美と創のクラスに集まり、昼食を摂る彼らを、周りの生徒たちは不思議なものを見る目で眺めていた。
「蓮森さん、元気ない?」
水野が心配そうな顔で訊いてくる。それは、亜希と創はとうに察していたことだったが、口に出さずにいた。数美は笑って首を振り、水野の弁当箱からタコさんウィンナーを奪取すると、美味しくなあれ~美味しくなあれ~と呟き、水野の手に渡した。水野はきょとんとした顔をしていたが、戻って来たタコさんウィンナーをぱくりと食べた。途端にその目が輝く。
「美味しい……! これどうやったの?」
「魔法だよ。僕は魔法使いなんだ」
くすりと笑い、数美は紙パックのオレンジジュースを飲んだ。羅宜雄も亜希たちも察し顔でそんな二人を見ている。
放課後、黄色と紫の暮色に染まる夕暮れ、図書室に数美、亜希、創、羅宜雄、そして阿頼耶識がいた。阿頼耶識を呼んだのは数美だ。彼は仏頂面で、何の用だよと言った。その声さえいくらか抑え気味なのは、ここが図書室であるからと、密談の気配を感じたからである。それでなくとも阿頼耶識は図書室が苦手だった。文豪たちの魂が、陰気にそこここを浮遊している気がする。
彼らは奥のテーブルに着き、数美の話を聴いた。数美は数学統監府とπたち記号持ちらの対立、そこに現れた第三勢力、篠蛾敦人のこと、砂嘴や尾曽道の戦闘までを語った。当然ながら阿頼耶識も羅宜雄も目を白黒させている。
「それで? お前は何考えて俺らにそんなこと話すんだよ?」
「僕は異能の調停者となると宣言した。彼らの無闇な闘争を防ぎたい。まずは篠蛾敦人の暴走を止める。その為なら統監府ともπたちとも手を組む」
「話が破綻してるぜ、蓮森。篠蛾ってやつだけを叩こうとするなら、それはもう調停じゃねえ。単なる乱入だ」
「篠蛾敦人には見境というものがない。統監府であれπたちであれ、僕たちであれ、自分の配下であれ、命を軽んじ過ぎている。僕は。僕は彼を止められなければ無能な魔法使いになってしまう」
数美の語尾は少し震えた。
「尾曽道長官が動いたのも、僕と同じ思いだったからだろう。彼は許せなかったんだ。自らの部下の片腕を失わせた篠蛾敦人を」
ガタン、と阿頼耶識が席を立った。は、と数美たちが彼を見上げる。
「話は解った。必要な時は呼べ」
「ありがとう、阿頼耶識」
「別に蓮森の為じゃないんだからね!?」
「どうしてお前はそこで残念になるの……」
張り詰めていた空気が弛緩する。
夕暮れの柔らかな空気と、夜を思わせる冷えた空気が混じり合い、少年少女を包んでいた。




