05、影蔵創の憂鬱
創の父親は数学統監府に勤めている高給取りだ。お蔭で創も母親も弟も、高級住宅地の広い庭付き一戸建てに住み、裕福な暮らしを送ることが出来る。創の剣道は、父に勧められて始めたものだ。創の父親は番号持ちであり、そのことに自負を持ち、「持たざる番外」を哀れんでいた。それは実の息子に対しても同様であった。
父親の憐憫と同情が、肥大した優越感からきていると知った創は、剣道の道に明け暮れた。親友である亜希と数美を守れる男でありたかった。番号持ちを番外が守るなど、父親が聴いたら笑う以前にきょとんとするであろう。
創は番外ではあったが、己が特殊体質であることを知っていた。
そしてそのことが数美たちを守るであろうことも。
数美が自分の木刀の仕込み刀、数美を守る上での対象の殺傷の許可を得たことは、創にとって僥倖であった。創は、守る対象以外を害するにおいては、冷たい程に割り切っていた。畳に敷いた布団の上で寝返りを打つ。今夜は月が眩しい。創は眠る時も木刀を手放さない。それは自分の存在意義に等しいと信じていた。
ふ、と創の感覚に引っ掛かるものがあり、彼は反射的に飛び起きて木刀を構えていた。
十畳間の創の部屋には余計なものはなく、殺風景だ。
月光が冷えた空気を遮断する窓硝子の透明と混濁して目に美しいが、それは今の創にとってどうでも良い事象だった。
問題は、その窓硝子の〝こちら側〟に立つ金髪の少年。
創を興味深そうに眺める瞳は神秘的な紫だ。他の人間が着れば滑稽であろう金色の鎖のついた仰々しい白いコートが、金髪の少年には自然の付属物のようであった。
「君が。……何とかかんとかか」
警戒心を極限まで高めていた創は、少年のこの第一声に少なからず脱力した。少年にとって創は、余り重要視されていないようだという認識を持つ。
「年端も行かない泥棒でもなさそうだが、何者だ」
「俺? 俺はπ」
気を取り直して相手を質すと、意外な程呆気なく答えは返った。但し容易に認められるものではなかったが。
「πだと? 番号持ちとは違うのか」
「違うよ。俺は3・141592653589793……31兆4000億桁まで言えるけどどうする?」
「そんな存在聴いたことがない」
「公表してないからな」
「数学統監府は知っているのか」
「薄々察知しても良い頃だ。奴らも莫迦じゃないだろう」
「改めて訊くが、何をしに来た。俺に何の用だ」
「あえて言うなら挨拶だ。29に直接出向こうかとも考えたが、女性相手にそれも無粋かと考え直した。それで外堀から埋めようと……」
ぽりぽりと、多少、照れ臭そうにπは頬を掻く。
木刀を握る創の握力が強くなる。手のひらにはじわりと汗が滲んでいる。
この少年は数美が番号持ちだと知っている。どこでばれた。なぜ。阿頼耶識が口外するとも思えない。或いは番号持ちを見抜くこと含めてこのπと名乗る少年の異能なのか。
πがにこっと無邪気に笑ったので、創は意表を突かれた。
「君も剣を使うんだね。……ええと」
「創。俺の名前は影蔵創だ」
「うん。まあ、俺が憶えるように努力しなよ」
πの最後の文字は、抜刀と同時だった。居合抜き。
すんでで受けて、創はこの少年の見た目と反する膂力に目を瞠る。押される――――。
擦り流して逆袈裟に斬りつける。πはこれを難なくいなした。そして創に殺到する。πの繰り出す一撃一撃が巨漢の繰り出したもののように重い。正面切っての力比べは不利と見て、創はとん、と身軽に後ろへ跳躍した。跳躍する間にπの全身を隈なく観察するがどこにも隙がない。
着地と同時に創はふ、と息を吐いた。
「29のレンタル受諾。肉よ肉よ」
紫の双眸が初めて瞠られる。白いコートが切れ、腕と脚に裂傷が走った。その驚きの、僅かな間、創の刺突がπを襲う。直撃すれば致命傷だった。
実際は紙一重で避けられ、創の刃は白いコートの下のこれまた白い着衣を切り裂いただけだった。
再び構えた創だが、πはと言うと、くすくす笑い出した。
「ふうん。そんなおかしな能力もあるんだね」
創の特殊体質。即ち、他の能力者の能力を一時的にレンタルすること。但しこれにはレンタルされる側の許諾が必要不可欠である。πはその事実を正確に把握したようだった。
「君は随分、数美に信頼されているようだ。影蔵創」
πは創の名前をゆっくり言って、自分の裂傷とコートや着衣を見回し、xに怒られちゃうなと呟いた。創は複雑な気分だった。πに自分の名前を憶えさせることは出来たものの、それは数美の能力のレンタルあってこそのものであり、また、π自身の能力は依然として解らないままなのだ。
「あー、まずいなこれ。雷確定じゃん……。創。それなりに、そこそこに、まあまあ、楽しめたよ。じゃあ、またね」
創には微妙な言葉を残すと、πは室内から消え失せた。
これもまた、πの能力の一つだろうか。創は高ぶる気持ちのまま、刀を一閃、二閃した。あんな化け物がいるなど、聴いていない。あれに比べると阿頼耶識が可愛く見えてしまう。
盛大な溜息を吐いた創は再び布団に横たわったが、目は冴えて、とても眠れそうにはなかった。
「π……」
「お説教なら聴かないよ、x」
「ならこうしよう。一週間、俺はケーキもクッキーもマドレーヌもブラウニーも焼かない」
「それは反則だよ! 俺に死ねって言うの!」
「どうして直接、蓮森数美に逢いに行かなかった」
「……」
「恥ずかしがり屋さん」
「煩い」
「二週間に延長」
「ああああああ」
今時珍しい、古民家を改築したどっしりした和風住宅の中では、牧歌的な遣り取りが繰り広げられている。数人の男女が、少年と青年の遣り取りを微笑ましく眺めていた。彼らの中でπは愛されるべき存在であり、今回の〝お茶目〟も許容の範疇だったが、xに後は委ねようというのが総意だった。
πが本気で怒ればこんな家一つ吹っ飛ぶことも、彼らには周知の事実だった。
青鎬は前髪を掻き上げた。
ここ数日洗っていなかったので、脂で数本固まっている。小まめに身なりを整える凍上と比較しての女性職員の人気の差がこのあたりに表われている。
げに世の中は魑魅魍魎だらけだ、と青鎬は思う。
番号持ちはもちろん、番外でもイレギュラーがいる。加えて、『記号』の連中も看過出来ない。
「πねえ……」
いっぺん、お手合わせ願いたいもんだぜとにやにやしていると、凍上に窘められた。
「いけませんよ、青鎬さん。また悪魔呼ばわりされたいんですか」
青鎬は首を竦めたが、反省した訳ではなかった。
前髪を掻き上げた彼の手のひらに刻印された数字は666。
悪魔の番号と呼ばれる数字である。
お詫びと訂正。
第一話冒頭の文章ですが、ピョートル・チャイコフスキーではなくN・チャイコフスキーの間違いでした。参考とした『とてつもない数学』の著者、永野裕之さんが音楽家のチャイコフスキーと混同されていたようです。正確には数学者のN・チャイコフスキーの言葉です。
九藤の確認不足でした。お詫びして訂正します。