047、クリームソーダは甘い
重要なのはまず数学統監府の鼻を明かしてやることだった。贄に選んだのは第三課三班班長・砂嘴楠美。派手やかな彼女を喪えば、統監府も多少は打撃を受けるだろうと考えたのだ。敦人はクリームソーダが入ったグラスの、表面に付着した細かな雫の群れを見つめる。不自然な程に緑色の液体には白い島が浮かび、溶けつつある。
春彦が死んだことは、敦人の予想の範疇であり、別段、それを悼む気持ちもない。只、手駒が一つ減ったと冷徹な思考の端で断じるだけだ。甘い液体を飲み、マドラースプーンでクリームを少し掬う。甘さを減じることは大切だ。状況に甘さを付与すると碌な結果にならない。春彦の遺体は回収されず結界の消失と共に消えた。それを惜しむ気持ちも敦人にはさらさらない。感傷に浸る積りも。統監府にもπたちにも、刺客はこのまま送り続けよう。駒はいくらでもいる。替えは利く。梅はもう散り際で、時折、花びらを敦人の座す広間に吹き込み、敦人の長い三つ編みにも戯れかかった。敦人はそれを軽く払い、再びクリームソーダの入ったグラスに口をつけた。弧を描いた唇は、何かを嘲笑するようでもあった。
敦人は幼い頃から他を侮蔑し、嘲笑しながら生きて来た。敦人の父は番号持ち、母は記号持ちだった。彼らはそのどちらでもない敦人に落胆し、嘆いた。煩かった。勝手に期待を押し付けてくる両親が。だから、桁外れの異能で彼らを殺した。両親が死んだ時、彼は少しの悲しみもない自分に気づいた。人と人の縁は、所詮はそんなものだ。裏社会に入り、今の地位にのし上がるまで、さして時間はかからなかった。遠回りしたとは思わない。寧ろ、思い描く最短コースを行っていると思うのだが、蓮森征爾と催馬楽吉馬には会っておきたかったと思う。統監府に深く関わりながら、そこから距離を置いた存在。会っていれば色々と状況も違っただろうに。有象無象とは一味違った彼らであれば、敦人は迎え入れても良いと考えていた。果たさずに彼らが死んだのは痛恨の極みである。そのように敦人が人の死を捉えることは至極、稀なことだった。
相変わらず品の良いクラシックの流れる喫茶店で、久真がかぶりつくようにコーヒー碗からコーヒーを飲む。
「統監府には痛手だったな」
「ああ。戦力的にはさほどでもなかろうが、砂嘴楠美は三課の華だったからな。そこをまず狙うあたり、篠蛾敦人の着眼点は確かだよ」
斗支夜が頷く。慶伍はコーヒーについてきた、ざらめのかかったクッキーを指で弄んだ。観察者であるべき彼らにとって、必要不可欠なのは冷静な客観視であり、そこに情の入る隙があってはならない。だが、感情豊かな慶伍は砂嘴の件に関して義憤を抱いていた。久真と斗支夜がそんな慶伍を懸念の表情で見る。
「篠蛾敦人に喧嘩を売ろうなんて思うなよ。相手は腐っても異能の王を名乗る男だし、何より俺たちは傍観していなければならない」
「観察、傍観、諦観。俺たちに必要なのはそれらだと言いたいんだろう。解っている」
慶伍はクッキーをまとめて引っ掴むと、口の中に放り込み、ぼりぼりと咀嚼した。久真はテーブル上に置いてある小さな硝子の器に入った野の花を見る。可憐な花は、何と言う名前だろうか。
こんな風に、と久真は思う。こんな風に、花の名前を探るような時間ばかりであったなら。しかし状況は加速して動いている。統監府もπたちも篠蛾敦人も、そして数美たちも。ともすれば感傷的になりがちな慶伍は、死者が出る事態を厭う。ましてやそれが数美たちのような年端もいかない、慶伍から見れば人生のひよっこである彼らであれば尚更だ。敦人は現状、数美たちを殺す気はないようだが、それも絶対ではない。呑み込んだクッキーの残した甘さが口の中に広がっている。解っている。自分の甘さも、状況の厳しさも。全ては『最適解』の為に必要であれば速やかに行動しなくてはならないのだ。
数美はテディベアの玉露を抱いたまま目を覚ました。まだあたりは薄暗く、時間的に早朝であることが解る。ベッドの中でしばらくもぞもぞすると、浴衣を脱ぎ、黒を基調としたゴスロリのファッションに身を包んだ。淡い紫の靄が室内に忍び入るような朝である。どこか、憂いを秘めている。それからしばらくネットサーフィンをすると朝食の時間になり、数美はパソコンの電源を切り、部屋を出た。
チャラ、と首元で鳴るチェーンは鈍い金色で、先端には黒い石がついている。それを弄りながら家を出る。亜希と並んで歩く朝の空気はやはり冷たい。こんな風に継続されるんだなと思う。砂嘴が左腕を失っても。どこで、誰が死んでも。もうすぐ創と合流する、といったところで数美たちの前に立ちはだかった人間がいた。
阿頼耶識豪である。
「なあに、阿頼耶識クン。朝っぱらからまた、数美に喧嘩売りに来たの?」
「ちげーよ。お前らに言っとくが、俺の能力はこれでもチートの内なんだ。お前ら、特に蓮森、厄介なことに巻き込まれてるだろう。何かあったら、俺を呼べ。力になる」
「どうした風の吹き回しだ?」
「別に、蓮森のことが心配だからなんかじゃないんだからね!?」
「ああ、デジャブだ。心配してくれるんだな。ありがとう」
「違うんだからねっ」
そう言って阿頼耶識は学校に向かって一目散に駆けて行った。途中で散歩中の犬にワンワンと吠えられながら。
「よう。今、阿頼耶識がいなかったか?」
「創。おはよ。彼は数美が心配みたいよ。アオハルねえ~。脈は果てしなくないんだけど、ちょっと可愛いというか、可哀そうな気がしてきたわ」
「ああ、成程」
創は微妙な表情で頷く。一度、痛い目に遭わせた阿頼耶識だが、創は決して阿頼耶識の能力を軽んじてはいない。数美の力になるというなら歓迎すべきことだ。阿頼耶識は数美のことが好きなようだが、どちらにしろ、数美の眼中に彼はない。悲しむべきことに創も同じく。こいつ結構、ファムファタルかもしれないと、創は数美を見ながら思った。
敦人の配下には、四季と呼ばれる四人衆がいる。いや、正確には春彦が欠いたので、いた、と言うべきだろう。夏人、秋子、美冬の三人は常に敦人に付き従う。皆、単衣に袴を身に着けて刀を佩いている。袴は揃えたように黒く、単衣は名を表すように夏人は橙、秋子は紅、美冬は縹色だった。髪の色もそれに倣っている。今も秋子は酒器を捧げ持ち、敦人の持つ盃に酒を注いでいるところだった。不意に、彼女たちの姿が掻き消えた。酒器が畳に落下し、溢れる透明な液体が畳に吸われる。敦人はちらりと視線を上げただけで、盃の酒を呑んだ。統監府が動いたようだ。しかも第三課ではなく――――。強化結界の主を知って、敦人は流石に目を瞠った。
穏やかな緑に満ちた空間だった。結界の主を象徴するような色合いだ。強化結界の色は一色に定められていない。同じ人物のそれでも、異なる色になることもある。
夏人たちは体勢を整え、自分たちを招いた相手の姿を見た。
ツイードの三つ揃えは一目で高級と判る。品の良いロマンスグレー。
「やあ、こんにちは」
数学統監府長官・尾曽道哩はそう告げて微笑を浮かべた。
友情出演:堅洲斗支夜さん、美風慶伍さん、月乃輪久真さん




