042、クレイジー・パレード
数美の部屋は、主と亜希、創とπ、xを招き入れた。亜希の能力だ。
しんとして冷えた部屋だが、これまでにいた空間が異様であったがゆえに、少女の生活の名残がある雰囲気に牧歌的なものを感じる。外は早くも暮れ始め、薄紫の色合いが室内に滲み出ていた。πは猩々緋王を納めた。数美が部屋の戸に向かう。
「何か温かい飲み物を持って来る。みんなは炬燵に入っててくれ」
ピ、と暖房のリモコンのスイッチを入れると部屋を出て行く。πたちは沈黙したまま、言われた通り、炬燵に入った。πとxは亜希を凝視しているし、創はそんな彼らが万が一でも亜希を害さないように観察していた。
「亜希。君は完全数の番号持ちなんだな。父さんと同じ」
「そうよ」
「今まで黙っていたのは……」
「自衛の為。それから、さっきみたいにいざと言う時、数美や創を助ける為よ」
数美が盆に載せた梅昆布茶を運んできた。両手が塞がっているので、創が戸を開ける。炬燵の上にそれぞれの湯呑みを置くと、誰からともなくそれらを手に取り、咽喉を潤した。塩味と温かさにほっと緩むものがある。
πが話を再開させた。
「……君の存在は知られてしまった。俺だけじゃない。他の〝視る〟異能持ち、そして最悪なことに篠蛾敦人にも。数美だけじゃない、彼らは君も欲しがるだろう」
「そうね。でも、遅かれ早かれ知れることだった。これは想定内の事態よ」
「だから、π。僕は亜希を守る。出来れば、πにも守って欲しい」
「うん。それは構わないよ」
只、と、πは茶の水面に視線を落として考える。亜希自身は、πたちに全幅の信頼を置いてくれるだろうかと。恐らくは無理だろう。彼女が心開き、全力で守ろうとするのは数美と創と、家族くらいではないだろうか。πの目には亜希が、非常にドライな思考を持つ少女として映っていた。数美もその傾向があるが、亜希の場合はその度合いが更に強い。偏りが激しい。危ういと感じる程に。その恐るべき能力は、未だ全て詳らかにされていないだろうし、その能力の矛先は、いつπたちに向いてもおかしくないのだ。
すると数美が、πの危惧を察したかのように言った。
「亜希。πたちを敵視しないでくれ。頼む」
「数美を害さない限りは、私は何もしない」
それは裏を返せば亜希の牽制だった。
数美に手出しすれば只ではおかないという――――。
数美は調停者としての名乗りを上げた。そうであるからには今後、統監府ともπたちとも、そして新たに現れた第三勢力・篠蛾敦人とも対立する可能性がある。そして数美の傍には、稀なるレンタル能力を持つ創と、完全数を持つ亜希が控えている。これ以上、数美が力を増してしまうことをπは懸念した。正しくはそれが露見することを。
「……あ~あ」
唐突にπが仰向けになったので、数美たちはぎょっとした。左手には猩々緋王をしっかり握っているが。
「つまらないよ。数美を守るのは俺だけで良いのに。亜希のほうが騎士みたいだ。これじゃ俺の立つ瀬がない」
「π、交換日記を書いたから」
「んー」
数美のとりなす言葉にゴロン、と転がって答える。xが溜息を吐いた。πの子供じみた仕草は演技である時と素である時がある。今は前者のようであり、後者だ。恋する少女を自分一人で守りたいという我欲が、その少女が敵になるかもしれないことへの懸念よりも上回っていることに、微笑ましいような呆れたような思いを抱いた。
その頃、数学統監府第三課には波紋が広がっていた。
青鎬が胸ポケットから煙草を取り出そうとして、ないことに気づき舌打ちする。凍上はいつも通りの冷静な顔つきだ。彼らは〝視る〟異能持ちの職員からことのあらましを聴いたところだった。
「完全数……」
「催馬楽吉馬以来の出現だな。何だ、あのでたらめな能力は」
「青鎬さんが言えた義理でもないと思いますが」
「凍上、その言葉、そっくりお前にブーメランだぜ」
「……」
凍上は微苦笑してコーヒーの入ったマグカップを青鎬に渡す。コーヒーから立ち上る白い湯気の向こうには、早良波羅道、砂嘴楠美の顔もある。こうして三班班長全員が集まることは実は珍しい。
「美少女だが興味ないな。私は美少年をいたぶってこその快楽を求める」
「砂嘴。ここは快楽を求めるお遊戯場ではない」
相変わらずの砂嘴の物言いを、早良が咎める。それを砂嘴は煩い蠅が飛んだとでも言うような顔で見遣った。
険悪になりそうな雰囲気の中。
「にしても、異能の王たあ、大層なこと言うじゃねえか」
青鎬が最も肝要と思われることに触れた。亜希の出現もビッグニュースだが、篠蛾の存在のほうが、三課としては捨て置けないところであった。番号持ち、記号持ち、そして持たざる異能持ちの構図がここにきてくっきり浮かび上がってきたのである。
「敦人様!」
傷を負いながら戻った敦人を、部下たちが狼狽えながら出迎える。畳に真紅がポタタ、と落ちる。さっ、と敦人に腕を貸そうとした男性の頭は瞬く間に消し飛んだ。胴体だけになったそれが崩れ落ちる。
「騒ぐな。大した傷ではない。収穫もあった」
「し、しかし、そのお身体では、」
「耳に賢きを履けよ。同じ言葉は二度と言わん」
「……は、」
藍色の着物に黒い袴を穿いた女性が下がる。
ふう、と敦人は息を吐いて座敷の上座にどかりと胡坐を掻いた。本人が明言したように、傷は既に癒えつつある。敦人にとっては着物が破損した、畳が汚れた、などのほうが重大事だ。欄間彫刻の龍を見る。
あちらにもこちらにも、龍が雌伏している。
そしてそのことが敦人には不快ではない。取り込んでしまえば良いのだ。
何もかも。
そうするだけの自信が敦人にはある。
数美、創、亜希。
どれから取り込んでいこうか。
だがそれにしてもπはやはり邪魔となるだろう。この際、数学統監府とπたちがぶつかったところで、πにとどめを刺すか。
にやにやと笑いながら思案する敦人の脇に、緑茶の入った青磁の湯呑みが置かれた。
「ああ、ありがとう」
そう言って、敦人は茶を置いた女性の胸に腕を刺しこみ、心臓を果実のようにもぎ取った。




