041、誰が為に鐘は鳴る
πは猩々緋王を瞬息で振るった。強化結界の中。
数美の現状を視て、駆け付けようとしたところ、足止めを喰らった。今まで見たどの生物とも異なる、奇怪に蠢く妖怪じみたものたちが、次々、湧いて出たのだ。一個体ずつの力が強力でないことが幸いだった。小手調べ、のような思惑も感じる。
気を抜くと身体にへばりつき尖った歯でπに食らいつこうとするそれらは、端的に評して醜悪だ。
結界にはxもいた。彼もまた、槍で奇怪な生き物を斬り払い、或いは刺し貫いている。πには頼もしい味方だ。
またべちゃりと、目のない口だけの軟体動物のようなものが降って来る。猩々緋王を一閃させる。時間が惜しい。篠蛾敦人とやらがどれだけの実力者かは知らないが、数美に接触するに際し、πにこれらの足止めを送り込むあたり、愚かではない。〝持たざる〟異能者の世界の創造とは、大層な看板を掲げているが、舐めてかかれる相手ではないことは察せられた。
それより今は数美だ――――。
だが、数美の様子を視たπは、目を瞠った。
1594年、対数が考案された。その目的は計算の簡略化。
例えばlogの2の8とすれば、「2を何回繰り返し掛け算して8になる時の、掛け算を繰り返す回数」と書く手間が省ける。Logの2の8の値は3である。
でたらめな極彩色の空間の中、数美は自分の能力が増幅されるのを感じた。亜希の言葉と共に。出来れば亜希には安全圏にいて欲しかった。彼女の存在、そしてその異能を知られたくなかった。だが亜希は動いた。見ていられなかったのだろう。
敦人は自分のテリトリーへの侵入者を不可解な目で眺めた。
「飛鳥井亜希。君は何者かな。この結界にはどうやって入った? 君も持たざる異能者なのかい?」
亜希は、肩にかかった長い髪をぱさりと後ろにやった。
「残念ね。私は番号持ちよ」
そう言って、スカートの裾を持ち上げ、右太腿まで露わにした。そこには6の数字が浮かんでいる。
完全数である。
亜希はπと同様、望む光景を〝視る〟ことが出来、強化結界に介入する、または介入させる力を持つ。何より彼女の異能の最たるものは。
「logで対象者の異能を倍加する……か」
敦人の声には、驚嘆が混じっていた。彼は口元を手で覆って、その内、肩を小刻みに震わせて笑い出した。
「あっははははは!! 良いじゃないか。素晴らしい。飛鳥井亜希。君は番号持ちだが、極めて特殊だ。君であれば我らは迎え入れるにやぶさかではないよ?」
「お断りするわ」
亜希の返答はにべもなかった。敦人の肩の揺れが止まる。酷薄な色がその瞳に浮かぶ。
「ふん。調子に乗るなよ。君の能力が倍加であるならばこちらはそれを上回る異能をぶつけるまでだ」
「そうね。やってみたら?」
亜希の淡々とした声に、彼女の表情の鏡映しのように無表情になった敦人は、再び光球を生み出した。しかしこの球はそれまでとは異なり、鉛のような鈍い色が滲んでいる。
「爆ぜる毒だ。対象にかすりでもすれば鋭利な礫が無数に生じて体内に潜り込み毒で殺す」
「悪趣味」
敦人の言葉に怯える様子は欠片も見せず、亜希は一言、切って捨てた。
鉛色を含む球が無数に生まれ、数美たちに向かい飛来する。
「肉よ!」
「logの2の8」
通常では有り得ない大きさの肉が現れ、光球を包みねじ伏せる。敦人は構わず次々に球を生み出す。
「logの2の8」
更に巨大な肉の出現。加えてそれはよく熱していた。球に劣らずいくつも生まれた肉の内、一枚は敦人自身に向かう。
「……」
敦人が空間から刀を出現させ、白刃を抜く。肉は両断され地に落ちた。刀も使うのか、と数美は固唾を呑む。武術の心得はあるが、得物のない徒手空拳では如何にも心許ない。すると亜希もまた、刀を何もない空間からずるりと取り出した。創に放る。創は心得たように受け取ると、敦人同様、白刃を抜いた。
「肉よ」
「logの2の8」
数美は創の援護に回る。肉を呼ぶのではなく、敦人自身に裂傷を負わせる。そこに創が殺到する。倍加された攻撃を、敦人は回避しなければならない。創と斬り結ぶ。そして、その背後には無数の球が浮かんでいた。虹色である。凶悪なまでの美しさだ。
「弾けろ!」
「肉よ」
「logの2の8」
敦人の言葉に被さるように、数美が言い、亜希がすかさず続ける。数美の言葉は今、肉を呼ぶのではなく対象者を切り裂くほうに移行していた。
「弾けろ!」
「肉よ」
「logの2の8!」
「弾けろ!」
「肉よ」
「logの3の32!」
創の刃が敦人の左肩に深く食い込み、数美の異能が更に彼の傷を増やす。
深く多くより鋭利に――――。
ざ、と敦人が退いた。刀を持つ手は左肩の傷を庇うような位置にある。一際、巨大な光の球が彼の背後に生じる。逃げる算段だと数美たちは気づいた。亜希は容赦ない。更に能力倍加の言葉を言おうとしたが、それを数美が止めた。
「亜希。もう良い」
亜希は闘志の漲る表情を崩さなかったが、数美の制止を受けて開きかけた口を閉ざした。
そこに遅れてπとxが参入した。彼らは全てを把握していた。敦人は結界から抜け出そうとしている途中で、身体の半分は既にここにはない。置き土産のような大きな光の球の前に、πが数美たちを庇うように進み出た。猩々緋王を構える。
「円の加護。強化その五」
くるりとπが猩々緋王の切っ先で円を描くと、球はそれに吸い寄せられるように接近し、やがて震えながら収縮して猩々緋王の刃に納まった。何の音も被害もない、静か且つ鮮やかな防御だった。
「さて、この悪趣味な空間からとっとと抜け出そう」
「導くわ。数美の部屋で良い?」
xは、自分の発言に造作ないことのように答えた亜希を見つめる。
「ああ。お嬢さんにも、色々と訊くことがありそうだ」




