040、計算を簡略化する道具
この感情のどうしようもない昂ぶりを、敦人はどう表現すべきか迷う。
歓喜、酩酊、悦楽、そして少しの欲情と恐怖。濃い紫と黒に染められた着物をだらしなく着崩した彼は、畳に胡坐を掻き、その整った面に歪んだ笑みを浮かべていた。一重の鋭い双眸は弧を描いている。背中には長い一本の三つ編みを垂らす。どこか遠くで鹿威しの音が響く。
「蓮森数美。小気味良い娘だ! 悦なるかな悦なるかな。番号とも記号とも迎合せず己が道をゆくか! 実に良い」
敦人の持つ朱塗りの盃に金粉の浮く酒を注ぎながら無表情の、こちらはきっちりと藍色の着物に黒い袴を穿いた女性が問いかける。
「どうなさいますか」
ぺろり、と敦人が唇を舐める。一気にぐい、と盃を呷った。
広い畳の間には数人の男女が集っている。彼らを敦人は上座から睥睨する。
「欲しいところだな。我々は〝番号にも記号にも属さない〟異能集団。影蔵創と蓮森数美は我に従うに相応しい」
「では」
「うむ。近く赴こう」
「御自ら?」
「礼儀というもの」
「飛鳥井という娘は如何なさいます」
亜希の名が出たところで、敦人が真顔に戻った。それから、どうにも揃わないジグソーパズルのピースを前にした表情になる。
「……捨ておけ。あれは。よく解らん。どうせ大した者ではなかろうが、知れるまで関わる必要もなかろうよ」
「は」
縁側に面した障子は開け放たれて、早春の冷たい空気が広間に満ちていた。時折、風が吹いて、綻んだ梅の花びらを室内に運んだ。居並ぶ人々には明らかに敦人より年長の顔もあったが、誰もが一様に敦人に付き従うことを疑問に感じてはいない様子で、自然なことと捉えている事実が見て取れた。
だから、鴨居から垂れた複数の遺体のことさえも彼らには些末事であった。多少、見苦しく無粋な花房という程度の認識しかない。敦人はそれらを一顧だにせず、只、片付けておけと短く命じた。
青い空にはぐれた羊のような雲がいくつか浮かんでいる。安閑とした空模様だが、崩れると天気予報では言っていた。芽吹きのもとになるだろう。
少しずつ、少しずつではあるが、春の足音が聴こえてきていると数美は思う。
いや、実際にはそう信じたいと言ったほうが正しい。それでもまだ居座る寒気に、炬燵に入り交換日記の表紙を撫でる。もうすぐ短い冬休みも終わる。
πたちには大層な啖呵を切ってしまった。
だがあれは偽らざる数美の本心であり、また、譲れない信念だった。πを相手にすると豪語したものの、いざ本当にそうした局面になれば、自分が怯む可能性はあるし、そもそもπに敵うかどうかすら危ぶまれる。
自分の背中は征爾が押してくれる。冴次もいてくれる。
心配なことは創や亜希の安全だった。数美が思うように動こうとするならば、彼らが数美を操る標的にされる場合もあり得る。二人のことだからそう易々、敵の手に陥るようなことにはならないだろうが、それでも懸念は残る。
マグカップのホットミルクティーを飲む。手首には、πから貰ったエナメルのバングルがある。金と白の高貴な輝きはπの存在を彷彿とさせ、数美はカップを置いて、そのバングルに愛おしむように触れた。
「山菜?」
「そう。お弟子さんからたくさん頂いたから、創君や亜希ちゃんにもお裾分けに持って行ってくれる?」
塔子に頼まれた数美はこくんと頷き、蕗の薹や蕨などが入った容器をエコバッグに入れ、コートを着て家を出た。傘も抜かりなく持ち、先に創の家へと足を向けた。
創の家は数美と同じ高級住宅地にある、大きな邸宅だ。インターフォンを鳴らし、用件を告げると見知った家政婦が扉を開けてくれた。創がその後ろから顔を出す。
「差し入れだって?」
「うん。母さんが。お弟子さんから山菜を頂いたからって」
「さんきゅ」
創は数美の差し出した容器を家政婦に渡して、自分は数美を部屋に手招いた。トレーナーにジーンズという恰好は、彼らしい部屋着だった。長い廊下を抜けて、創が自分の部屋の襖に手を掛けた時、彼らは〝呼ばれた〟。
強化結界。
察した瞬間、創が数美を後ろに庇う。その結界はでたらめな極彩色に満ち溢れていた。
紫と黒を纏う、若い男が一人。
悠然と佇んでいる。
彼は些か芝居じみた動作で両腕を広げた。
「ようこそ、我が同胞よっ!」
数美も創も、その言葉の意味するところが解らず眉根を寄せる。
「まずは名乗りからだな。我は篠蛾敦人。異能の王。好きなものはクリームソーダ」
「……王? 番号持ちか、記号持ちか?」
好物は無視して慎重に問いかけた数美の言葉に、敦人が不快そうな顔になる。
「あんな下賤の輩と一緒にするな。ああ、失礼、蓮森数美。君は別格だ。番号にも記号にも媚びない姿勢の勇ましさは称賛に価する」
「用件は何だ」
今度は創が口を開いた。内心、今の時勢に真っ向から異を唱えるような敦人の言い分に驚いていたが、顔には出ないよう努めた。
「率直に言おう。我の陣営に加わらないか? 高待遇で厚く迎える用意はある」
「貴方の目的は何だ」
「蓮森数美。記号と番号に我らは振り回され過ぎているとは思わないか。彼らの掃討。そして〝持たざる〟異能者の世界の創造。我の目的はそれだ」
「莫迦らしい。それでは上の首がすげかえられるだけだ」
切って捨てた数美の物言いに、敦人のこめかみが微かに動く。
「僕はね、篠蛾敦人。平坦な世界が欲しいんだ。誰かが突出して厚遇されるのではない、真っ平な世界だ」
敦人の端正な顔が侮蔑の低温に浸る。
「綺麗ごとの理想論だな。もう少し頭の良い子かと思ったが」
「理想論であることは知っている。だが、理想を追い続けることと、その行為自体を最初から諦めて放置することは全く違う」
「――――どうやら少し彼我の力量の差を教えたほうが良いようだ」
空気が切り替わったことを敏感に察した数美が創の前に出る。今、創がどれだけの能力をレンタル出来ているのか定かでない以上、自分が前線に立つのが吉と考えたのだ。
敦人は光の球を生み出していた。それも複数。
「美しいだろう? だが、これが君たちに触れた時、光は弾け、君たちに傷を負わせる。我の持つ能力の、これでも優しいほうだ。感謝して欲しいな」
感謝しろと求めるその同じ口で、敦人は容赦なく光の球を高速で数美たちに投擲した。
「肉よ!」
数美の声に飛来した巨大な肉の塊が、数美と創の盾となる。
レアだった肉はたちまち熱されてウェルダンになった。そしてぼとりと落ちる。
しかし光の球は次々に生み出される。異能には限界値がある筈だが、敦人のそれは抜きん出て高いようだ。数美の異能との根競べとなる。
創は今、有栖の能力しかレンタルしていない。加えて武器も持たない。結果として数美に守られるしかない己の現状を何より口惜しく思い、歯噛みしていた。光が生み出される。次々と。数美は次第に押され、目が眩んでゆく。冴次を呼ぶか。
しかしそれより前に、強化結界の中に突如、舞い降りた少女がいた。
長い髪が重力に従い、彼女の背に流れる。
「亜希……」
亜希は無表情だった。
そして数美と創は、亜希が無表情である程、怒りが強い時であると知っていた。
彼女は静かに唇を動かした。
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絵は志茂塚 ゆりさんより頂きました。




