04、πと挨拶
数学統監府。
各国に一つずつ設けられた国の頭脳であり、最高機関の側面をも有する。
数字に関連するあらゆる大規模な事業はこの機関を通して行われる。数字を伴わない事業などない。つまりは何であれ、統監府が認める事業は国を動かすレベルであり、また、そういうものであると認知される。
数学統監府に関連する、ということが一種のステイタスとなっており、各種産業、競い合って統監府に自らの数字の優越をアピールする。そして番号持ちは彼らにとって垂涎の対象であり、番号持ちが現れたと知るや、全力でスカウトに掛かる。
そうしたことを疎んじて番号持ちであることを隠す人間は少数だが存在しているが、彼らの存在の凡そを数学統監府は把握している。それは統監府の存在意義にも関わることだからである。
さて、指数という数について面白い逸話がある。
指数とは同じ数を繰り返し掛け算する回数のことである。
ある殿様が褒美の品の希望を訊いた。訊かれた相手は知恵者だった。
「初日は1粒、2日目は2粒、3日目は4粒、4日目は8粒という風に、1粒から始まって、30日間、前日の倍の数の米粒をください」
殿様はこれを聴き、謙虚さに感じ入り許可した。
しかし30日目が近づくにつれてとんでもないことに気づいた。
なぜなら30日目に与える褒美は実に5億3687万912粒の米になるからである。米俵に換算して200俵分。
この逸話は繰り返しの掛け算の持つ、想像を超える爆発力を物語っている。
(『Newton』別冊 数学の世界・数の神秘編より)
そしてそれを自身の異能とする番号持ちがいることを、統監府は掴んでいる。必死でその行方を捜索中だが、統監府の捜査網を以てしても発見に至っていない。
蓮森数美が番号持ちであることを統監府は知っていた。知っていたからこそ彼女の入府を望んだ。数美は自らの数字を頑なに秘していたが、その潜在能力は見る者が見れば瞭然だったからである。
「29番。奇数で素数か。能力の詳細は」
「にく、の音の語呂合わせのようです。つまりは肉に関する対象物を操作出来ると。しかし全容は未だ掴めておりません」
これを聴いて統監府第三課の一班班長、青鎬湯楽里は眉間を揉み解した。彼自身もまた、番号持ちである。そして数美の補足が早かったのは、彼らが以前より蓮森の家に注目していたことによる。結界内のことを知り得たのは、そうした能力者が統監府内にいるからである。
「蓮森数美。蓮森征爾の娘。我々は、彼女の行方をずっと捜し続けているが――――」
「蓮森征爾は、なぜ忽然と姿を消したのでしょう。彼は高い能力に応じて厚遇されていました。将来は安泰だった。それを、妻と娘を捨ててまで、消える理由が解りません」
青鎬の部下、凍上薫は、彼特有の低く落ち着いた声で疑問を提起する。
「その理由は彼の番号に起因していたのかもしれないが、いずれにせよ憶測の域を出ない」
「班長は、『最適解』についてどう思われますか」
その発言は、凍上と青鎬の漠然とした予想が同じであることを示唆している。しかし青鎬は、これはメルヘンな領域だと乾いた思考で断じた。
「凍上、『最適解』など存在しない。あれはな、民間信仰だよ。偶像崇拝と言い換えても良い。俺たちが見るべきは確かな数字だけだ。肝に銘じておけ。……奇数と偶数の小競り合いはどうなっている」
「依然として。双子素数として組んだペアは幅を利かせていますね」
ふん、と青鎬は鼻を鳴らす。
「莫迦莫迦しいことこの上ないな」
数学統監府内には、奇数の番号持ちと偶数の番号持ちによる派閥争いが繰り広げられていた。
「青鎬班長は派閥には興味ないようで」
凍上が唇の端を吊り上げる。
青鎬が首の後ろで腕を組んで背中を逸らすと、座っていた椅子がギシリと鳴った。
「興味ないねえ。俺はまだ若造だから、番号持ちとドンパチやってるほうが性に合うのさ」
「班長とドンパチですか。これは怖い」
ははは、と全く怖くなさそうに凍上が笑い声を上げた。
数学統監府の威容ある建物。その向かって左にはギリシアのアテナ像、そして向かって右には和算で有名な関孝和像が設置され、何とも見る者にアンバランスな印象を与える。アテナは智の女神であり、数学の女神である。信仰する人間は多く、ゆえに数学統監府にこれらの像があることは不自然ではない。景観的な難はあるが。
その難ありな景観を眼下にする高層ビルの給水塔の上、金鎖が襟元についた白いコートをはためかせる少年がいた。ごく当然のように朱塗りの鞘が腰に佩いてある。黄金の髪に紫水晶の瞳。神に愛でられたような造形美だが、本人はそのことについて何ら頓着していない。
月の光や星々が、人工の無粋な灯によって霞んでいる。彼はそのことについてはいたく憂いた。
「π(パイ)」
呼びかけに振り向くと長身の青年が静かに立っている。少年とは正反対に闇に溶け込むような黒いコート、漆黒の髪、但しその双眸だけは恐ろしく澄んだアレクサンドライト。赤にも緑、青にも変じる稀有な宝石と同じだった。
「やはり蓮森数美は番号持ちだった」
πと呼ばれた少年には統監府内の人間のあらゆる動きが見えていた。これは恐ろしいことだった。統監府内は機密事項だらけだ。政治経済に深く関与した機密は一つ知るだけでも国が揺れる。だがπの関心事は一つだけだった。
「そうか。征爾の娘だからな。何番だ?」
「29」
「半端だな……。28なら完全数だったものを」
「だが、番号持ちはたまにイレギュラーが出る。征爾の娘がそうでないとは言い切れない」
「イレギュラーの中の、イレギュラーか。どうする?」
「……近い内、挨拶に行く」
挨拶の響きは無味乾燥で、πが思うところを青年は把握しかねた。