039、春よ
花屋における労働は見た目程、優雅ではない。バイトを続けている青年は、あかぎれの出来た手に時々息を吹きかけながらそう思う。彼が店に来てまずすることはタイムカードを押し、店長が朝市場で買って来た花を箱から取り出し、バケツに入れた時に水に浸かる部分の葉を全部取ることだ。余計な葉があれば葉が呼吸出来ず、腐って水を汚す。それから茎を斜めに切り水に浸ける。
何箱もの花にこのような作業を行い、花によっては切り口を熱湯で茹でたり燃やしたり、手で折ったり叩き潰したりする。
決して楽ではないこのバイトをそれでも青年が選んだのは、偏に花が好きだったからである。花は良い。雑音がなく、香りと優雅な姿だけで物語る。青年は人付き合いが得意なほうではなく、ごく少数、気の合う友人がいるのみであり、また、それで良いと思っていた。
青年の勤める花屋は四つ辻の角にあり、立地は良い。そして向かいには警視庁の外郭団体である数学統監府異能課の収容された建物がある。文字通り、警察の中でも数学統監府の異能に関わる案件を専門に取り扱う部署だ。
そこに入る、または青年の目には建物に呑み込まれるように見える人々はいつもどこか切迫したような顔をしている。だから、たまに例外の人間がいると、青年の目を惹く。今もその紳士が、花屋の前を通り過ぎ、数学統監府異能課の建物に続く横断歩道に向かうところだった。時々、花を買ってくれる人だ。
紳士と言っても年齢はまだ三十代くらいに見えるが、纏う空気がぎすぎすしていなくて端然としており、そこが青年の気に入っていた。
何となく、番号持ちかなと思う。青年・考葦亜房は自分の右手を開いて、それから握って、また開き、作業の続きに戻った。
雨か雪が降るかなと中條利昭は鼻をひくつかせて思った。数学統監府異能課が収容された建物の自動ドアに入る直前。空気に水の気配がする。彼は気象のこうしたことに子供の頃から敏感だった。今の空は素知らぬ青い顔をしているが、最近の天気は読み辛い。読み辛いと言えば。
「何度も言うが結界内での傷害事件を一々こちらの案件から弾かれては仕事にならない」
中條の朝一番の仕事は苦情を入れることだった。電話相手が苦笑いする様子が漏れ聞こえる息遣いで判る。凍上薫は優秀さは疑うべくもなく、中條の貴重な友人の一人でもあったが、仕事に関しては数学統監府の他の人間と何ら変わらず秘密主義だった。そしてそんなところが中條を苛つかせた。
『そちらには〝視る〟番号持ちもいるだろう。それなりの報告書は書けるんじゃないか』
「そういう問題じゃない。傷害や殺人未遂には相応の罰が必要だ。お前たちは統監府の権限を振りかざして平気でそれらを蔑ろにする。節度を考えろ」
『――――それは中條、俺に言ってもどうにもならないことだよ。特に今は』
数学統監府自体が一個の膿であり闇であり、しかしまた光の面をも持つこと、そしてそれが凍上個人にどうこう出来ることではないことは、中條も承知していた。だが苦言皆無で通すには、彼らは勝手が過ぎる。中條は己の職場の存在意義を統監府のストッパーと考えていた。
『済まないな。いつも』
こう下手に出て謝られては、中條もそれ以上は言えなくなる。ノンフレームの眼鏡の縁に触れ、溜息を一つ吐く。
「お前は、大丈夫か?」
統監府のような職場にいて。暗部に触れ、口を噤み、それでも表向き平然とした顔で通すことには並大抵の労力では足りないだろう。それをしてしまうのが凍上だと解っていても、中條は訊かずにはいられなかった。春が遠い、と不意にそんな思考が生じる。まだ空気は氷の女王の支配下で、時折無邪気に残酷に温もりを投げかけては次の瞬間には冷徹に戻る。
『大丈夫だよ、中條。ありがとう』
果たして返ってきた返事は、中條の予想通りのものだった。凍上は無用な心配を人に掛けることを好まない。中條は再び溜息を吐いた。
『……月子さんの容態は?』
「依然、眠ったままだ」
差し出されるような問い掛けに、中條は努めて何でもないことのように答えた。それから彼らは二言三言、言葉を交わしてから通話を切った。
中條の恋人である女性・山城月子が統監府の番号持ちの闘争に巻き込まれ、植物人間状態になってから数年が経つ。中條は私情を仕事に持ち込まない主義だが、統監府への厳しい思考が月子の件と完全に切り離されたものとは言えない。通信機を持つ自分の右手を見る。10の刻印。ハイスペックな番号でありながら彼が統監府よりそれを言わば監視する職場に身を置くことにしたのは、月子への想いがあったからでもある。中條は元・統監府の人間だった。中條に限らず、多かれ少なかれ、統監府の在り様に疑問を抱き、統監府を去る人間はいる。
大物の名前で言うなら蓮森征爾や催馬楽吉馬が好例だ。吉馬は統監府が殺したようなものだと中條は睨んでいる。そして。
そしてそのことに関して、凍上が関与しているであろうとも。
何度、それを凍上に尋ねようとしたか。数え切れない。中條は信じたいという感傷にしがみつく自分を知っている。その感傷が遠くは月子に対する裏切りにも等しいということも。凍上が好んで悪事に手を染めるとは思えない。有り得るとすれば必要に迫られた緊急事態が起きたのだ。
そう結論付けることが、中條を二律背反から辛くも救っていた。
今日は仕事が定時で終われば月子に逢いに行こうと思う。いつもの花屋で、花を買って。
春が遠い。
誰もが待ち望む微笑みの春が、今はひどく遠く感じられる。
そう言えば。
そう言えばあの花屋の青年の右手のひらには、輪ゴムの跡のような楕円の痣がぐにゃりとあったように思う。
友情出演:考葦亜房さん、中條利明さん
来週の更新は恐らくありません。




