038、君臨少女
カレンは育児放棄されていたところを吉馬に保護された。母一人子一人でいた頃の当時の環境は劣悪なものだったと思う。だから吉馬が差し出した右手のひらの496は光り輝いて見えた。大きな家で、ここがこれから君の住む家だよと教えられ、温かな風呂、美味しい食事、清潔な寝床で寝たのはいつ以来だったか。母はカレンをあっさり手放した。そうすることがカレンの幸せとも考えたのかもしれない。吉馬はカレンの母に就職先を斡旋し、自立の手助けもした。カレンは吉馬に大きな恩を感じていた。あの家に住まう人々は、少なからずそうだっただろう。
吉馬を殺した数学統監府を許せなかった。
皮肉なことに、吉馬の死からより一層、家に集った人々の結束は強まった。はっきり明言する人間はいなかったが、〝来たるべきその時〟に備えて誰もが体術を磨き、異能を向上させた。カレンは持ち前の事象を黒くする能力を特化させた。
右手を音叉にかざす。
音叉の視界が一瞬、黒く染まるが、すぐに白く払われる。しかしその一瞬に、カレンは回し蹴りを放っていた。音叉が上腕で防ぐ。後、笹切りでカレンに斬りつける。カレンはこれを避け、身軽に跳躍すると音叉の後ろに回り込み、拳を突き出した。音叉はこれを辛くも封じ、数歩、退いた。
その時、音叉の体内に異変が生じた。
「――――?」
呼吸が苦しい。まるで〝肺が黒く塗り潰された〟みたいに。
くずおれる音叉を、無感情な瞳でカレンが見る。
「言ったでしょう。96の〝事象〟を黒く染めるって。体内にまで浸透するには、多少の時間がかかるけれど」
音叉は霞む視界の中、歯噛みしていた。つい先程まで追い詰めていたのは自分のほうだった筈なのに。
いつの間にか形勢逆転している。
青鎬は荒い息を吐いていた。
只、刀を使うだけの相手であれば青鎬にもいなすことも、勝利することも出来る。但しΩは凡庸な遣い手ではなかった。美しく煌めく刃の軌跡。これに呑まれれば一貫の終わりだと彼は熟知していた。黒炎を使いながら白刃をかいくぐる。何せΩは毒の花を生みながら、黒炎をも切って捨てるのだ。
Ωは正しく人の急所を目掛けて刀を振るっていた。それは剣術を基礎から学んだ者特有の確かな剣筋だった。
「頑張るね、青鎬さん」
「ありがとよ。あんたも随分、遣うんだな」
「πに剣を教えたのは俺だよ? 今では抜かれてしまったけどね」
言いながらもすう、と伸びる刃先を青鎬はかわしつつ、炎を生み間合いを取る。今は間合いを取ることが絶対的に必要であり肝要だった。
「あの金髪の小僧っ子か。道理で」
青鎬は息を吐いた。
「黒炎。金襴緞子」
Ωが目を瞠る。
黒い炎に金泥が混じり、どろりとして炎と共にΩを取り巻いた。それはΩの刀を以てしても斬ることは叶わなかった。
青鎬が声を張り上げる。
「音叉! 退くぞ。川端! 〝繋いで〟くれ!」
結界術に長けた同僚の名前を呼ぶ。ここまで時間を稼ぐ必要があった。結界の一部にぽっかりと空洞が出来、青鎬が音叉を回収して退却しようとした時。
ふわりと黄金の髪の少年が降り立った。
音叉を半ば抱え上げた青鎬の背に戦慄が走る。円周率の少年・π。恐るべき異能を持ち、Ωの剣腕さえ超えた者。半ば閉ざされていた瞳がしっかり開いて、紫色の輝きが青鎬を射抜いた。
「こんにちは」
「……随分、荒っぽい手段に出るじゃねえか」
「それはお互い様だよね。貴方たちは何をした? 俺は仲間を傷つける輩は許さない。掛かる火の粉は、払うだけだよ」
「どうして俺と音叉を潰す相手に選んだ」
「貴方は一班の班長だ。加えてその女性は貴方の従妹だろう? 情が絡んだほうが動きが鈍ると思って」
その読みは正しい、と青鎬は思う。荒っぽい言動の割に人情家でもある青鎬は、少ない血縁をより大事にしていた。
「ここは退かせてくれないか。課長には俺から、方針変更の打診をしておく」
「大山田大二郎か。そう簡単に貴方の進言を容れるとは思えないけれど。さしずめ影守を使って俺を殺そうとしたのは彼だろう?」
πの指摘は正しい。πたちを壊滅させようとする大山田の意思を変えることは困難だ。
πが猩々緋王を抜こうとした時、青鎬は全て終わったと思った。
しかしそこに降って湧いた声があった。少女の澄んだソプラノ。
「π。彼らを見逃してくれ」
「数美……」
白い、裾に行く程、広がりを見せるチュニックに古代紫のストールを纏った数美が立っていた。まるで天よりの御使いのようだ。どうやってこの結界に入り込んだのかと、πは軽く驚嘆した。青鎬と音叉だけを招く強化結界である。今まで数美が結界術を操るに秀でたところを見たことはない。何か、誰か別の力の導きがあったのか――――。
「……それは出来ないと言ったら?」
「その時は僕がπの相手をする」
淡々と応じる数美の思惑は読めない。本気で言っていることだけは解る。πは尚も猩々緋王を抜き、構えたままだった。Ωとカレンがπの動向を見守っている。
「僕は数学統監府が仕掛けることも、πたちが仕掛けることも許さない。命を取ろうとする側を、僕は相手取る。僕が異能の調停者となる」
はったりとは思えない口調だった。意思の強さが数美の双眸をきらきらと輝かせ、πは彼女をその時、一個人と言うより一個体の生き物として美しいと感じた。
「数美。――――――――駄目だ。それでは君だけが孤立することになる。それに俺は、君に刃を向けることは出来ない」
「うん。僕もπを傷つけたくない。だから僕に従ってくれ」
黄金の、神の愛し子のような少年に、数美は譲らない声音で告げる。それは懇願に似た命令だ。不遜だと、Ωもカレンも思った。πは違った。
数美は何か深淵に至る切り札のようなものを持っている。この少女は、だからこんなにも気高く、……こんなにも寂しそうなのだ。
πは、猩々緋王を鞘に納め、青鎬たちを見逃した。
微苦笑して数美に語り掛ける。
「その服、可愛いね。よく似合ってる」
途端に数美は、一介の少女に戻った。
「ありがとう。πに、見てもらいたかったんだ」
はにかむように言う数美を、Ωとカレンは奇異なものを見る目で見た。どこかで、空恐ろしいとも感じた。この世に絶対的に君臨する王者のような威風を見せるかと思えば、まだ稚い少女の顔をも併せ持つ。彼らはπを特別視していたが、この時点では数美のことをそれ以上に畏怖の対象として凝視していた。
体調不良のため来週の更新はないかもしれません。




