036、あちらこちらで笑みが咲く
熟睡していたπは、足元に違和感を覚えて目を覚ました。
日はもうとうに上り、時計の針は十時過ぎを指していた。違和感の正体は、πが寝ていた布団の足元で丸くなってすうすうと寝息を立てながら寝ている少女である。いや、一見は少女だが、彼女の実年齢はπより上だ。ショートボブの黒髪に、黒いワンピースを着ている彼女は可愛らしくはあるが、πとしては色々と注意喚起したいところであった。
「カレン。カレン、起きて。いつの間に俺の部屋に入ったの」
「うにゃ?」
そもそもが人の気配に敏感なπである。足元に少女が寝ていてそのまま睡眠を続行出来る筈もない。だが彼女は異様なくらいに気配を消すことに秀でていた。まるで猫である。通称もそのまま、〝黒猫〟だから笑えない。果たしてカレンはにっこりと無邪気に笑った。
「π、おはよう。ベーコンエッグが冷めるから起こして来いってxが言ったの」
「おはよう。もうベーコンエッグは冷めてるんじゃないかな」
「そうなの?」
「多分」
みるみるしょんぼりした顔になる彼女は正式な名前を滲理カレンと言う。記号持ちの多いπの家には珍しく96の番号持ちである。年上の彼女の頭をよしよしと撫でてπは立ち上がった。
「着替えるから、先に台所に行ってて」
「はあい」
パタパタと軽い足音を立ててカレンはπの部屋から出て行った。
台所に行くとΩが珍しく朝食を摂っていた。
xが不機嫌顔で席に着いたπの前に冷えたベーコンエッグの皿を置く。料理した身としては、食事は美味しい内に食べて欲しいのだ。πがペロ、と舌を出して上目遣いで謝意を示すと、xは仕方ないと言わんばかりの溜息を吐いた。カレンもπの隣に座り、食事を始める。
「近い内に数学統監府に潜る」
「――――1と2と3か」
朝食を食べながら、いつもの表情で気負いなくπが言った。対してx、Ωの表情には緊張が走った。カレンはサラダにドレッシングをかけてマイペースに食べ続けている。
「うん。いつまでも後手に回っているのも癪だしね。あちらが穏便に事を運ぶ気はないなら仕方ない」
「前回の件もある。あちらの警戒も厳しくなっているだろう」
「だからこっちも、それなりの体勢で行くのさ。とは言え、正攻法では少し分が悪いから、先にあちらの戦力を削いでおこうか。カレン、Ω、行ける?」
ごく軽い口調で、πは命じた。
「良いよお」
「ああ」
「zはなるべく関わらせないほうが良いだろう。凍上薫も殺せなくなったな」
淡々とした声と顔で語る少年を、xは複雑な面持ちで見ていた。
数美は亜希と創と連れ立って、近くの神社に詣でていた。
三人共、家族との初詣では済ませてあるが、三人でも詣でるのが、毎年の正月の習慣なのだ。
神社にはそこそこ参拝客がいて、遅めの初詣でに来ているようだ。参道の真ん中は神の通り道と言われる為、三人は横に避けて石段を上がる。空は青く晴れて、触れることが叶うなら柔らかな綿のようであろう白い薄雲が浮かんでいた。三人はそれぞれ防寒の備えをしている。数美は紫紺のアンゴラ混じりのカシミヤのPコートを着て明るい青のマフラーを巻き、亜希はグレーのドレスコートにふわりとしたピンクのショールを巻いている。創は飾らないカーキのダウンジャケットだ。
亜希の手首のブレスレットを目敏く見た数美が笑う。
「結局、創に買って貰ったのか?」
「お年玉がマジで吹っ飛んだぜ」
「素敵でしょ。ハワイのニイハウ島でしか採れない貝なのよ。モミ、レイキ、カヘレラニと呼ばれる三種の内、一番小さいカヘレラニを使ったものは最も高貴なものとされてきたんですって。これはね、カウアイ島に住む熟練の女性によって編まれたブレスレットで、ポエポエというスタンダードな編みなの」
亜希は嬉しそうに詳しく説明する。余程、欲しかったものらしい。数美としては、創には悪いが亜希の笑顔が何よりの等価だと思えた。同時に、πが話していた、オーダーすれば数年はかかるという台詞を成程と納得した。亜希は悪戯っぽい瞳で数美の顔を覗き込む。
「数美のブレスレットも素敵ね。それ、ブランド物じゃない?」
「あ、うん。これは……」
「もしかしてπに貰った?」
「うん」
「やっぱりねー!」
金と白に彩られた、華奢で美麗なブレスが光る数美の手首を見て、創が無表情になる。三人は参拝を済ませて、休憩處で名物の餅を食べ、お喋りに興じた。
数学統監府の三課の仕事は正月休みという言葉を知らない。そんなものは海の藻屑に等しいというのが課長である大山田大二郎の考えであり方針である。それに従えないものは三課を去るべし、である。
宇近衛音叉はその方針に逆らう積りもないし、そんなものだと割り切って仕事をしている。彼女の上司である青鎬は音叉からすれば熱血漢で大きな子供に等しく見えた。人に対してシビアな批評を下すのは彼女の癖だった。だが、音叉は青鎬の実力は素直に認めていたしある種の尊敬を抱いていた。
だから青鎬と突然、真っ暗闇の空間、結界に閉じ込められた時も取り乱すことはなかった。
強化結界への強引な招待。
「にゃあお」
黒いワンピースに白いポンチョを着て首にはスヌードを巻いたカレンは、挨拶代わりにそんな言葉を掛ける。これは彼女が彼女である限り、仕方のないことと言えた。Ωはカレン程、重装備ではなく白いトレーナーにジーンズ、薄手のコートを羽織っている。彼は青鎬と音叉を検分するように眺めた。
両者、慌てふためいた様子もない。敵ながら感心する。
「Ωじゃねえか。何だ、記号持ちの敵襲か」
居酒屋で呑んだ仲でもそれはそれ、これはこれである。
「そうだね。でもこの子は番号持ちだよ」
カレンがそうでーすと言うように右手を挙手した。
「πの差し金か? いよいよ統監府に殴り込みの前哨戦か」
言葉の半ばから青鎬は既にΩに肉迫していた。Ωは青鎬の拳を肘で受ける。びりびりとした痺れはその拳の威力を物語っている。間を取らざるを得ない。ふと笑う。
「流石はαと渡り合った、統監府一の肉体派だな……」
ふわりふわりと花を生む。美しく艶やかな毒の花。
青鎬の、そのものが武器であるかのような肉体を埋めるかのように。
一方、その頃、音叉もカレンと対峙していた。
共に相手の番号を知らない。音叉の番号は111。カレンの番号は96。
単純比較ではカレンに分があるが、数字の異能はそう安易なものではない。音叉の能力は11・1秒、時間を短縮して動けること。その能力を利用して、スヌードの向こう、カレンの細い首を握り、地に押し倒す。右手で携帯していた折り畳みナイフ「笹切り」の刃をピ、と出し、そのまま華奢なカレンの首の、命の流れるところに押し当てようとした時。
カレンが笑った。花のように。
友情出演:黒猫の住む図書館さん、音叉さん




