035、ステイ・ホーム
茶道には初釜というものがある。
初釜とは年が明けて最初に行われる茶会のことだ。茶道を学ぶ人間にとっては一年の稽古初めとなる大切な会だ。
塔子は茶道の家元である為、年始、一月四日はこの初釜で忙しい。様々な人間が蓮森家を訪れる。数美も手伝いに追われる。茶道では装飾品はご法度の為、πに貰ったブレスレットも外している。
四日の夕刻、黒塗りのベンツが蓮森家の駐車場に停まった。空はもう、紅の化粧を施して、金の夕日は暗がりに転がり込む寸前だ。特別な客が来ると聴いていた数美は、母と共に車から出て来た壮年の紳士を出迎えた。
彼はしきたりに適った暗色のスーツを着て、家に上がる靴下は白だ。
塔子とは親しいようで、短い新年の挨拶を交わしている。男性の視線は、数美を興味深そうに捉えていた。数学統監府長官・尾曽道哩はふと数美に微笑みかけると、それからは意識を切り替えたように茶室に向かった。
初釜は席入り、初炭、懐石、主菓子、中立ち、濃茶、薄茶と進められる。炭入れを見守った後、菓子や料理を食するなどの作法が続くのだが、塔子は尾曽道に対して大きく手順を省き、濃茶と薄茶を進めるに留めた。私語は基本的に厳禁なのだが、薄茶を終えた二人は当たり前のように会話を始める。
「統監府長官はお忙しいでしょうに。無理して初釜に来られずともよろしいのですよ」
「これでも先生の弟子を自負しておりますので」
「今は塔子でよろしいですよ」
「では塔子さん」
「あの子、数美を放っておいてはくれますまいか」
尾曽道は無表情に言葉を呑んで茶室に掛かる掛け軸を見た。初釜に相応しく、昇る朝日と二羽の鶴が描かれている。
「個人の宿命に、余人は立ち入ることが出来ません」
「貴方であっても?」
「私であっても。いえ、私だからこそ、立場に縛られて数美さんを放任しかねるという要素は多分にある」
「……主人はどう考えるのでしょうね」
塔子は、もうずっと前に姿を消した夫を、今でも健在であるかのような言い方をした。そのことに、尾曽道の胸は僅かに痛んだが、知らぬ振りを通した。友人でもあった蓮森征爾が、今どこにいるのか、どうしているのか、尾曽道には見当もつかない。只、塔子の中では、そして恐らく数美の中でも、征爾の存在は今でも明瞭に存在しているのだと思った。
その日は尾曽道が最後の客だった。
数美は彼を数学統監府の長官と知ることなく、着物から洋服に着替えた。真っ白い、お尻まで隠れるチュニックは、極めて密度が高く織られた綿で、襟や袖口に細かなギャザーが寄せられている。
数美にしては珍しくゴスロリではなく、ネットで見つけて一目惚れして、しかしその高価なことにたじろいでいた。すると塔子が、お年玉の代わりにと言って奮発して購入してくれたのだ。次にπに逢う時、着ていたいと思いながら、今はそれだけではまだ寒いので、上に焦げ茶のロングカーディガンを羽織る。下は紺色のズボンだ。
尾曽道が何者かは知らないが、恐らく父の関係者だろうと数美は考えていた。蓮森征爾を知る者は、皆一様に数美の中に征爾を見出そうとする。そのことに数美は複雑な思いを抱いていた。
「冴次」
「はい」
するりと、数美の影から抜け出る男。いつものテノール。いつもの、濃い紫の刺繍に縁取られた衣服。
「これ、どうだ?」
「よくお似合いですよ」
「冴次は父さんを知っているか?」
「――――はい」
「どんな人だった」
「聡明で理知的。大らかで人を包み込む海のような方でした」
「そうか」
数美は炬燵にもぞもぞと入り、温くなりかけたミルクティーを飲んだ。冴次が部屋にあった数美の毛織のストールを肩に掛けたので、相変わらず過保護だと思いながら、そのことに安堵する自分がいた。ベッドの上からテディベアの玉露を持って来てぎゅっと抱き締める。事態はもう動き出している。そしてそれは加速する一方で決して減速も停止もしてはくれない。人々の思惑は交錯し、血が流れるだろう。そして自分はその渦中にある。否応なく。
「冴次。僕は『最適解』を目指す」
「はい」
「けれどもし僕に何かあった時には、亜希や創、母さん、πを頼む」
「……数美様」
「命令だ」
「以前も仰いましたね。貴方は、情が深過ぎるところがある。私はそれが心配です。……承知いたしました。ですが私は、数美様の安全を第一として動きます」
「うん。ありがとう」
「青鎬さん。ここに印鑑お願いします」
「へいへい。今日も音叉ちゃんは同じ服装だね。折角の別嬪さんが勿体ないよ?」
白シャツに黒いスラックス、長い黒髪を一つに束ねた宇近衛音叉は醒めた目で青鎬を見る。
「セクハラですか」
「いやいや」
これだから女性職員相手には迂闊なことも言えやしない。書類作業を終え、コートを羽織る青鎬に凍上が声を掛けた。
「あれ、青鎬さん。今日は早退ですか」
「ん。てかこの時間が早退ってのが統監府のブラック企業たる所以だよ」
「まあそうですが。何か急ぎの用事でも?」
凍上の問いに、青鎬は右腕をぶらぶら振って背中で答えた。
「女に会いに行くんだよ」
椿が咲き、散っていた。残照の中、それは一種、凄惨な美しさだ。
青鎬は建物の生垣のそれらを一瞥し、受付に声を掛けた。受付の丸顔の女性は、青鎬に親し気に笑いかけ、お久し振りですねと言った。
本来であれば面会時間をぎりぎり過ぎているが、青鎬はここぞとばかりに数学統監府の特権を使って何とか目当ての人物に面会することを可能にした。
彼女の部屋を訪れると、車椅子に座り、窓から外を見ていたらしい老婦人が振り向いた。
「やあ。ばあさん」
「ゆらちゃん。来てくれたのねえ」
満面の笑顔になった彼女は、幼い童女のようだった。その、純粋無垢な表情を、青鎬は黙って見返す。少し痩せたなと思う。ピンクと黄色の花柄のパジャマの上に、白いカーディガンを羽織っている。
「ちゃんと食ってるか?」
「食べてるわよお。ゆらちゃんこそ、早くお嫁さん貰って、美味しいご飯作ってもらいなさい。ほら、貴方のお話に出てくる、何て言ったかしら」
「凍上?」
「そう、その凍上さんみたいに良い人見つけて」
「あいつみたいにっていうのは、難しいよ、ばあさん」
苦笑いで青鎬は言う。それに、凍上は凍上で何やら事情ありげで大変そうだ。青鎬には色恋に関する興味が皆無だった。実は全くモテないという訳でもないのだが、青鎬が一貫して無視しているのだ。
唯一の肉親である祖母の手を取り、上と下から挟むように握る。体温を与えるように。
「ゆらちゃんの手、温かいわねえ」
「ばあさんが冷えてんだよ。ここ、ちゃんと暖房効いてんのか?」
青鎬は祖母に屈み込む体勢のまま、しばらくその手を温め続けていた。
老人ホームから出た時には、空は星が踊っていた。ざくざくと歩みを進める。
青鎬には守りたいものなどない。持たないようにして生きてきたからだ。
しかし。
「お宅のおばあちゃんなんだね」
青鎬は驚かなかった。気配を感じていたからだ。億劫そうに振り向く。視線の先には白髪の髪に金色の瞳の青年。気負わず尋ねる。
「記号持ちか?」
「ご明察。Ωだ。表での名前は入船達樹。ルポライターだよ」
「ぶんやか。こそこそ嗅ぎつけやがって、鬱陶しいな」
「まあ、そう言わず。情報は多いに越したことがないんだ」
それには同意するなと青鎬は思う。とかく誰も彼もが秘密主義だ。そんな自分も言えた義理ではないが。
黒炎を呼ぶ気にはなれない。ここは言わば青鎬の聖域だ。加えてΩからは殺意が感じられない。するとΩが意外なことを言った。
「呑みに行かない?」
にこりと笑うその顔を見て、どうにも自分の周りは美形が多くて癪に障ると青鎬は考えた。
居酒屋は広過ぎず狭過ぎず、丁度良い案配の構えだった。カウンター席にΩと青鎬は並んで着き、それぞれ酒と肴を注文した。注文してから、青鎬はこのあと、また統監府に戻らなくてはならなかったことを思い出したが、仮病でも何でも使ってしらばっくれようと決めた。
つくねの、甘いタレのかかった身から出る肉汁を味わい、焼酎を呑むと身体が温もってきた。敵対していると言っても差し支えない記号持ちのΩを前に、酒を呑むのは不用心かもしれないが、Ωは回りくどい手段で青鎬を陥れるような人間には見えなかった。
「……美味いな」
「だろ? ここは俺、一推しの店なんだ」
「雑誌で紹介したのか?」
それにしては満員御礼とまではいかないようだ。Ωが肩を竦める。
「しないよ。大将たちは今のままが良いって言ってるし、俺もお気に入りの場所を荒らされたくはないからね」
「お前、『最適解』についてどこまで知ってる」
「いきなりど直球だねえ。その烏賊ゲソも逸品でしょ? 柚子胡椒が効いてさあ。もっと料理はちゃんと味わいなよ。俺、お宅の二班班長に殺されかけたよ。知ってた?」
「……」
味わえと言った癖に味わえないことをさらりと言う。早良波羅道が動いたのか。両者無事ということは、このΩという男、相当な遣い手ということになる。殺されかけたとしても、今はこうしてピンピンしているのだから。早良が動いたということは、課長である大山田大二郎の命令が下ったのだろう。砂嘴に単独行動は避けようと言った端からこの有様だ。
ビールを呑んだΩが口を開く。
「『最適解』に最も近いのは、今のところお嬢ちゃんだろうな」
「やはり蓮森数美か」
「うん」
団体客が店に入ってきて、店主の威勢の良い挨拶が響く。扉が開くと同時に入って来た寒気は、扉が閉まると再び遮断された。
「あの子も難儀な子だよ」
「――――……」
Ωの台詞に、青鎬は呑みかけのグラスを停止させた。
〝お前も難儀な子だよ〟
何年前のことになるか。祖母が今よりまだ元気で、自分の脚で歩いていた頃、青鎬にそう言った。哀れむ眼差しだった。
だからどうした。この世に難儀でない人間がどれだけいる。
皆、血を流しながら、脚を引き摺らせながらもがき生きているではないか。自分や数美ばかりが取り立てて不憫な訳ではない。そんなことで立ち止まっていてはどんな望みも成し得ないだろう。年端も行かない少女相手に、誰もが躊躇している。だがそれは正しい選択か?
しかし青鎬は、数美に無体な真似を出来ないであろう自分を自覚していた。それは今、隣でビールを呑む白髪の青年にしても同じことではないだろうか。
友情出演:音叉さん




