034、君の名を
そこには穏やかな草原があった。生い茂る草はどこまでも和やかさを含み、空は青く高い。小鳥の声は聴こえない。とても清澄なこの空間を、数美はあの星空の空間と似ていると思った。どこがどうとは確かには言えない。広がる色彩は違うのに、空気に似通うものがある。
背の高い人影が、数美から少し離れたところにあった。
それがごく自然のことであるかのように、数美とその人影、彼は歩み寄って行く。彼の顔は、まるでπが年齢を重ねたらこうであろうと思われる顔そのものだった。華やかなπの黄金と紫に比べ、その男性の髪も目も普通の日本人のそれだったが、顔の造作は酷似していた。つまりは、恐ろしい程の美形であった。
「やあ、数美ちゃん。息子と仲良くしてくれてありがとう」
彼が朗らかに、にこやかにそう告げた時、初めて数美の背中に戦慄が走った。
莫迦な。
「貴方は、πのお父さんか」
「そうだよ。催馬楽吉馬だ」
「死んだと聴いた。……殺されたと」
吉馬は身に纏う生成色の衣服と同様、恬淡とした様子で応じる。何でもないことのように。
「ああ、うん。俺は一度、死んだ。そしてこの次元に至った。征爾のいる次元は更に高い」
「どういうことだ。πは知っているのか。貴方は息子に逢ってやらないのか」
数美の糾弾に、吉馬は寂しそうに微笑んだ。思わず、数美が怯む。
「逢いたくても逢えない。君のお母さん、塔子さんとはリンク出来るし、君とも出来るが、あの子とは何度試しても無理だった。君も征爾と、上手く逢えてないんだろう? 同じことさ。そう、同じ宇宙の理。神がいると言うのであれば、神の采配なんだろう」
柔和な風に、抱く違和感の正体を数美は知る。
ここには生き物の気配がないのだ。あの、星空の天蓋が広がる、蓮の花咲く空間と同じように。同時に悟る。自分の父も吉馬も、常人より高みの領域に達したことを。達してしまったと言い換えても良い。必ずしも本人たちが、それを望んだとは限らないのだから。
「……πを貴方と逢わせてあげたい」
にっこりと、吉馬が笑う。顔の造作も相まって、得も言われぬ魅力的な笑顔だ。πの父親だなと思う。人を魅了する力がある。
「ありがとう、数美ちゃん。君は優しいね」
同じことをπにも言われた。
だが数美は、自分が優しいと思ったことは一度もない。大切な人間しか大切に出来ない。そのことを一種の欠落と感じていた。
吉馬が長い睫毛を伏せる。
「そう――――……。本当であれば俺は君やπたちをこの安全な空間に逃してやりたい。俺自身や、征爾をシェルターとして利用して欲しいとも願う。けれど無理なんだ。資質のある人間しか、来ることは出来ない。征爾も、俺もそのことをどれだけ歯痒く思っているか」
「父さんと話せるのか」
「いや。たまに互いに思念を飛ばし合うだけだ。それにも確実性はない。俺たちは見ている。見ていることしか出来ない。少なくとも今はまだ。数学統監府を中心に、事は既に動き始めている。数美ちゃん。その中心にいるのは君だよ。そしてあの子。πも。どうか切り抜けてくれ。そして『最適解』に辿り着くんだ。全ての答えはそこにある」
草原は緑一色ではなく、淡い赤や青、紫、黄色など多種の色を内包していた。その色の波がさざめく。時間が迫る。
「数美ちゃん。憶えてやってくれ。πの本当の名前を。そして呼んでやってくれ。あの子の名前は――――――――……」
夢は無情にそこで途絶えた。
「うーん」
「どうしました、青鎬さん」
自分のスーツの腕をすんすん、と嗅ぐ青鎬に凍上が声を掛けた。今日は一月三日。世間ではまだ正月の筈だが、数学統監府には無縁の事柄だ。
「いや、どうも最近、加齢臭がする気がしてな」
「ああ。おいくつでしたっけ」
「39」
「数えで不惑ですか。確かに、加齢臭がしてもおかしくはない年齢ですね」
「お前だって37の癖に何か良い匂いすんな」
「35です。俺は彼女から貰ったオードトワレ使ってるんで、それじゃないですか」
「死ね」
「はははは」
その時、第三課にツインテールをした若い二人の女性がちょこまかと入って来た。ちょっとしたアイドルにでもいそうな外見の二人は、双子である。二人共、髪をピンクがかった茶色に染め、たっぷりとしたフリルブラウスをスーツの中に着込んでいる。スカート丈は世の男性が諸手を上げて万歳しそうな程に短い。
「おう、硫黄分,s。うちに何か用か」
「まとめないでください、青鎬さん。それと、コーヒーと紅茶、少し分けてください。ここが一番充実してるんで」
「秘書課は?」
「けんもほろろに断られました」
くくく、と青鎬が笑う。
「統監府では一大派閥の双子素数ペアも、秘書課にゃ敵わねえか」
失笑を買った硫黄分こよねと硫黄分こよみは頬をぷくりと膨らませる。青鎬は彼女たちをこのようにぞんざいに扱っているが、こよねは11、こよみは13の番号持ちであり、数字至上主義の世界においては、青鎬より格上ということになる。
「笑うな、このお玉キッチン!」
「え、何それ、便利な調理道具?」
「只の罵倒だ、お豆腐ナイフ!」
「センスねえなあ」
整数を螺旋状に並べて素数に印をつけると斜線や縦横の線が幾つも走る模様が表われる。これをウラムの螺旋と呼ぶ。この素数の出現パターンの中で3と5や11と13のように、差が2のペアを双子素数と呼ぶ。
そして現在、統監府内で繰り広げられている偶数と奇数の派閥争いの中、台頭しているのが彼女たち、硫黄分姉妹なのである。だが、派閥争いに興味のない青鎬にはどうでも良いことだった。同じく、凍上も派閥からは距離を置いているので、殊更に硫黄分たちを優遇する積りはないのだが、根が丁寧なだけに、コーヒーの豆や粉、紅茶の茶葉などを小分けにして甲斐甲斐しく準備してやる。
「はい。これで良いかな」
「ありがとうございます、凍上さんは紳士ですね。どこかの誰かさんと違って」
凍上が微苦笑して青鎬が舌を出す。
双子は、それでは失礼しましたと言って三課を出て行った。
蓮森家では正月三日は着物で通す習慣がある。
数美は、浴衣から茜色の友禅染に着替えると、思い詰めた顔で虚空を見据えた。
届く筈だ。彼なら、聴き取ってくれる筈。
そしてこうやって、誰も彼もがπに過剰な期待をして、背負わせてしまうのだ。けれどこれだけは、伝えなければならないと思った。
「π。π、聴いているか。聴こえているなら、来てくれ、今すぐ。すぐに。来て」
数分も経たない内に、いつもの白い服装のπが数美の部屋に姿を現した。朱塗りの鞘は、いつも通りに佩刀してある。その手には交換日記。そして小さな四角い箱。
数美の和装を見たπは、目を細めた。
「数美、どうした? 何かあったの」
「πのお父さんに逢った」
「……え?」
「吉馬さん。生きてた。あ、いや、一度は亡くなったけど、高位の次元では存在しているらしい。あそこは、多分、生死の境目が曖昧なんだ」
「――――そうか」
「驚かないのか」
「前に君のお母さんに言われた。父さんは生きていると。だから……もしかしたらと」
「心配していた。僕たちのことを。多分、特にπを。大事なんだろう。息子だから」
「うん……」
「早く『最適解』に辿り着けと」
πは猩々緋王を腰から外し、絨毯の上に胡坐を掻いた。どこか放心しているようにも見える。少しして、πは気持ちを切り替えたように数美を見て微笑んだ。
「丁度良かったよ。渡したいものがあったんだ」
「何?」
「これ」
πの差し出した小箱には、ゴスロリにしか興味のない数美でさえ知っているハイブランドのロゴが入っていた。中からは、美しい白と金のエナメル仕様のバングルが出てくる。
「この間のクリスマスプレゼントのお返し」
そう言ってπは左手首に嵌めた金のバングルを見せる。
光る、紫水晶。
「本当は、亜希の言っていた貝のブレスレットでも良かったんだけど、オーダーしたら数年待ちって言われたから」
「……ありがとう」
「……どうして泣きそうな顔をするの」
「πに吉馬さんをあげられないから」
「構わないよ。俺には数美も、他の連中もいる」
本当にπはそう思っているようだった。数美はそのことが頼もしくも遣る瀬無い。まだ若い少年が、その年で背負うものの重さ。吉馬の懸念がよく解る。吉馬から教えられたπの本当の名前を、数美は憶えていたが、それを今、口にすることは憚られた。




