033、空白或いはブランク
空白。或いはブランク。
そうしたものが、生を進む上で洩れいずる場合がある。
人間という文字が「人」と「間」で成り立つように、密着からは遠く浮遊した論理がそこにはある。
数美の父である蓮森征爾。
πの父である催馬楽吉馬。
この二人が友人であったことを、数美もπも、そして恐らく他の番号持ち、記号持ちも知らなかった。知っていたのは蓮森塔子のみ。
同じ統監府に勤めていた二人だが、征爾が失踪する十三年前、直前に吉馬は死亡している。凍上の入府は十一年前であり、1、2、3の反逆が起きた。時系列順に出来事を並べるとこうなる。
征爾と吉馬は人に知られぬよう、友誼を育んだ。
統監府の目を警戒してのことだろうとπは考える。
しかし疑問は多い。なぜ吉馬は死んだのか。なぜ征爾は失踪したのか。なぜ、上位の番号持ち三名が揃いも揃って統監府に反旗を翻したのか。征爾の失踪は吉馬の死が引き金となってのことであろうと推測出来る。ではなぜ、吉馬は死んだのか。……殺されたのか。
統監府にとって都合の悪い存在だったからだ。
そうとしか考えられない。
では具体的にどのように都合が悪かったのか?
吉馬は記号持ちや番号持ちを集め育んでいた。それが危険視されたのか。
おかしなことに征爾もまた、πたちと接触して大きな影響を与えている。そのことが、征爾と吉馬の友情の他に見出せる共通点である。
しかしここにもブランクが生じる。なぜなら、πたちの前で二人は〝一度も顔を合わせたことがないから〟だ。これもまた、統監府に対する用心だろうか。
そして最大の謎。
〝吉馬さんは生きてるわよ〟
πの知る限り、蓮森塔子は不謹慎な冗談を言う女性ではない。だが、吉馬は死んだ。πはその眼で目撃した。あれは確かに事切れた父だった。塔子の言葉は、πの中の奥深いところで波紋となって彼の心の欠片をほろほろ齧る。
不可解なこと、解らないことが多過ぎるとπは思った。影守という存在など、πは生まれてこのかた知らなかった。もしかして、この家に集う者の中にも、何食わぬ顔で影守を持つ者がいるかもしれない。
数美の家より戻り、xに事の経緯を説明したπは、布団に横になりながらも目が冴えて眠れず、ぐるぐると思考していた。左手に嵌めた金色のバングルを見る。紫の貴石がきらりと光り、それがπの唇を綻ばせる。何かお返しを考えなくてはならない。亜希の言っていた貝で出来たブレスレットなど、数美も気に入るだろうか。
そんなことを考えながら、πはようやく微睡み、眠りに落ちた。
「πは?」
リビングでお菓子作りの本を見ていたxにΩが声を掛けた。
「寝たよ。子供はもうとっくに寝る時間だ」
「お前にかかってはあいつも子供か」
「当たり前だ。何歳の頃から面倒見てると思ってる。解毒されて良かったよ」
「119番と繋がったのはラッキーだったな」
アレクサンドライトの瞳が本のページを離れ、金色の瞳に向かう。
「白璃王を動かすのか?」
Ωが軽く首を横に振り、白髪を揺らす。
「まだ様子見する積りだよ。だが、この貸しは返すべきだとも思っている」
「茨と言ったか。誰の影守か解るのか」
「白璃王に探らせる。凡その見当はついてるけどな。お前もそうだろう? x」
「まあな」
しばらく、静寂が場を支配した。xが本をテーブルに置いて立ち上がる。
「呑み直さないか? 聖夜の延長ってことで」
シャンパンとグラスを二つ、持って来る。Ωは金色の双眸を細めてそれも良いなと答えた。
zはその頃、凍上の部屋のベッドにいた。
普段は隙を見せないクールな男が、zの前でだけは無防備になる。そのことが砂糖菓子よりも甘い事実としてzの胸中にじんわりと広がる。彼が自分をくるむような体勢でいるので、体温が直接、伝わる。今日は、いや、もう昨夜になるが、πたちの家を離れて凍上の部屋で過ごしている。心尽くしのご馳走を作り、凍上と食べ、呑んで、その後は何を語るでもなくリビングのソファーに二人座って、zは凍上の肩に頭を預けていた。時折、凍上の細く長い指がzの短い髪を撫でたり梳いたりして、それがくすぐったくも心地よかった。
誰もが誰かのサンタになる夜というまやかしに、二人も酔う振りをした。
凍上が華奢なオパールのついた指輪をzの左手薬指に嵌め、その指に口づける。
zは群青色に一筋、銀の線が入ったネクタイをおずおずと差し出した。凍上はありがとうと真摯な声で言い、zを抱き締めた。
離れたくないとzは言った。
離さないと凍上も言った。
二人で一つのベッドに入って、互いの温もりに幸せを感じる。15の番号が刻印された手のひらがzに優しく触れる。何もかもが余りに優しかった。明日や未来はどうなるか解らない。ただ、この瞬間を慈しもうとzは心に決めた。πは、あの優しい子は、こんな自分を許して後押ししてくれるのだろう。そして自分はそんなπに甘える。
「薫」
「何、香澄」
名前を呼び合うだけで満ち足りるものがある。シーツが緩やかに乱れ、二人の吐息が混じり合う。
この人がいるのであれば地獄でも良いと、そう思った。
白璃王は影守の中でも突出した存在である。影から影に渡り、情報収集にも役立つ。彼は主であるΩと同じ白髪を長く背に垂らし、文字通り影を暗躍していた。やはり茨の主は大山田大二郎だった。数学統監府第三課課長。青鎬たちの上司。率先して記号持ちたちを潰そうとする主戦論派。
せめてもの救いは、統監府長官の尾曽道が数美の母である塔子の知己であり、大山田のストッパーとなってくれるであろうことだ。
探りは入れた。後は主であるΩの判断を仰ぐだけだ。影守は未来に大きく関与する記号持ちや番号持ちにつく場合が多い。主の命令に従い働き、使命を全うする。
丁度、報告の為に主の前に姿を現すと、xもいて、二人でブルーチーズで呑んでいるようだった。酔眼とはなっていない、Ωが白璃王の言葉を聴いて頷く。
「ご苦労だった」
「いえ」
「お前も、お前たちも損な立場だな。こき使われて、挙句、主が道を逸れた場合には」
「Ω様」
「……悪い。少し酔っているようだ」
影守は影の守り人。肉体的にも精神的にも、主に最も近い存在。
そして主が正道を踏み外したなら、その命を奪うこともまた役割には含まれていた。
問題は、正道の定義である。




