032、男同士の話
πが蓮森家へ転移すると同時に、夕凪の姿は消えていた。
転移した居間では既に有栖が待ち構えていた。有栖だけではなく、塔子や数美、創、亜希の姿もあった。事情を語るより訊くより先に、有栖がπの治療にあたる。
それは只、πの身体を撫でるだけの行為であったが、πは毒が浄化され、身体が格段に楽になったと感じた。
「悪いわね、有栖。クリスマスなのに」
「いいえ~。私はこういう異能持ちなんで、盆も正月も余り関係ないから」
有栖は気さくに笑い、じゃあと言って蓮森家を辞した。πは彼女への借りを数え、幾分物憂い思いになった。それにつけても創だ。彼には訊きたいことが多くある。塔子は何も言わない。不干渉を貫く心構えなのだ。有難い、と思う。πが創に視線を遣ると、創は目顔で頷く。
「数美。俺はπと話がある」
「主人の使っていた書斎があるわ」
察しの良い塔子が、密談に恰好の場所を提案してくれる。πはそれに乗ることにした。瞳に心配の色を宿す数美に笑いかける。
「大丈夫だから、心配しないで」
「……話せる範囲で構わない。後で僕たちにも話してくれ、π」
「うん、解った。約束する」
塔子に案内された書斎に、創と共に入る。
室内は暖房が効いて暖かかった。創は、予め塔子にここを使わせて欲しいと頼んでいたのだろう。根回しが良い。その根回しの良さをどう評価すべきかはこの後の話で決まる。
ここが蓮森征爾の書斎かと、感慨深くもある。余り贅沢な調度品はない。本棚だけは大きくとても頑丈そうで、その存在感を示していた。主不在が長いであろうに小綺麗なところを見ると、塔子が定期的に掃除しているのだろう。赤茶色の革張りの肘掛け椅子が、机のこちら側に体面する形で置かれていたので、πと創は自然、それぞれ腰を落ち着ける。
「具合はもう良いのか、π」
「良い。影守とは何だ、影蔵創」
創の気遣いに対して簡潔に答え、πは早速、本題に入る。
創は二人の間に置かれたテーブルの上の硝子板を少し見てから口を開いた。
「俺にもよく解らないが、主に番号持ちや記号持ちにつく影から生まれる守り人のことらしい。そして必ず全員に影守がいるとは限らない。俺は番号も記号も持たないが、なぜか夕凪は子供の頃からいて、俺の手に負えない危険な状況の時は助け、守ってくれた。数美にも影守はいる。けれど夕凪のこと、数美たちには話さないでくれ」
「なぜだ。君は数美たちが大事ではないのか」
「大事だからこそ、男だからこそ、隠すこともある。解ってくれ」
解らなくもない心境だったので、πは沈黙した。それは創への肯定だった。
「俺と茨の戦闘を知り、夕凪を遣わせたのはどういう絡繰りだ?」
「それは言えない」
「……君を見ているとなまなかな番号持ちや記号持ちより、余程、手強い気がしてくる」
「だけど俺はπの敵にはならない。だから安心してくれ」
「ああ」
創の言葉も瞳もひたむきで真摯で、その言葉は疑うべくもなかった。今回、数美の影守ではなく創の影守が動いたのは、数美の守りを手薄にしたくなかったからであろう。惚れているのだろうなとπは思う。不思議なことに恋敵となる少年を前にして、πは嫌な感情はほとんど抱かなかった。数美を巡り、対峙するに相応しい相手だと思える。πは滅多なことでは他者を認めないが、創のことは評価し、信用に足る人物だとも考えていた。
「話が終わりなら、数美の部屋に行こう」
創とπが数美の部屋に姿を見せると、少女二人は、揃ってほっとした顔を見せた。πは招かれるまま炬燵に座り、猩々緋王を傍らに置く。卓上にはケーキや飲み物の入ったグラスがある。やはり自分は招かれざる客ではあるまいかと危惧するπに、数美が言う。
「温かいフルーツジュースを持って来る。飲むだろう?」
「うん。いただくよ。ありがとう」
優しい空間だなと思う。数美の部屋は、女の子らしく、小さなツリーが窓際に置かれている。てっぺんに飾られた金色の小さな星が可愛くていじらしい。征爾が去ってからも塔子が、如何に数美を愛し、守り慈しんできたのかが窺える。
「男同士の話だったのでしょうけど、蚊帳の外は面白くないわ」
「悪い、亜希」
「欲しいブレスレットがあるんだあ」
「そう来るかよ」
「ハワイのニイハウ島でしか採れないすごく小さくて、でも石みたいに硬い貝で出来てるんだけどね? 素敵なの」
「さぞかしお値段も素敵なんだろう」
にっこりと亜希が笑う。
「創のお年玉の全額できっと賄えるわ」
「うーわー」
創が頭を抱える。
この少女も珍しいタイプだなとπは亜希を見ながら思う。高いスペックの持ち主である友人二人に挟まれて、臆する様子も卑下する気配もない。さりげなく亜希の右手のひらを見る。そこには何の番号も記号もない。それでも何かを隠しているように思えるのは穿ち過ぎか。創の影守の話を聴いてから、疑い深くなっているのかもしれない。
数美がお盆にマグカップを載せて戻ってきた。πだけではなく、ちゃんと人数分のカップがある。
戦闘の強張りが溶けてゆく。
数美のささやかな心配りが、πにはとても嬉しかった。
熱いフルーツジュースは甘く、咽喉を通る流動が快い。
「π。交換日記は?」
「書いてある。今は持ってないけど」
「そうか。書いたら持って来てくれ」
「うん」
「お正月はどう過ごすんだ?」
「xの作ったおせちを食べて、テレビ観て、気が向いたら初詣でに行くと思う」
「π君、意外と庶民的なのね」
亜希の言葉に、意外とはどういう意味だろうとπは心中、首をひねる。彼には自分の秀でた容姿に対する自覚が薄い。黄金色の髪も、紫水晶の瞳も、いるだけで芸術品に値するのに、πはそこに全く重きを置いていなかった。亜希も数美もタイプの異なる美少女で、創も整った顔立ちをしている。そうした、他人に対する容姿への評価は人並みにあった。特に数美のことは群を抜いた美少女だと思っているが、これはπの惚れた欲目だ。
πは約束していた通り、数美たちに話せる範疇のことを話した。夕凪のことは省いた。
「そうか……。πには災難だったかもしれないけど、今日、会えて良かった。プレゼントを渡すことが出来る」
「プレゼント? クリスマスの?」
「うん。亜希と創とも交換し合ったんだ。僕はπの分も用意しておいた」
ふわ、と温かい手で心を撫でられたような、そんな感覚に陥る。数美という少女はπに、思いもよらない優しい風を運んでくれる。数美が取り出した、銀色のリボンで飾られた四角い小箱を受け取る。
「開けて良いかな」
「うん。どうぞ」
箱の中、柔らかな薄紙にくるまれて入っていたのは、細い金色のバングルだった。中央に一粒、紫の丸い石が光っている。アメジスト。紫水晶だろう。美麗な逸品に、πの心は躍ったが、同時に心配にもなった。
「高かっただろう」
「貯金があるから大丈夫だ。実はかずお君のぬいぐるみとも悩んだんだが、πは統監府に余り良い思いがないだろう? だからかずお君は却下した」
数学統監府のマスコットキャラであるかずお君でなくて良かったと、πは心底思った。金の純度が高いらしく、留め具はないがサイズ調節が出来る。πが左手首にそれを嵌めると、数美が嬉しそうに笑った。
暗い影の空間の中、冴次と夕凪が立っている。影守同士であれば、影の中でこうして対面することも出来る。
「統監府の差し金か」
「そうだろう。πどの一人をまずは潰しにかかるあたり、性質の悪さが滲み出ている」
ゆら、ゆら、と影が揺れる。頭上を黒い自転車が通過する。影の世界ではこういうことも、ままある。
「私が行っても良かったのだが」
冴次のこの言を、夕凪がころころと笑う。
「冴次は数美様を傍近くで守りたいのであろう。私は創様の命令に従っただけ。それで良い」
「状況が逼迫してきたな」
「ああ……」
夕凪は影の空間の天を見る。まるでそこに星々を数えるように。
「我々は主を守り、また、主命に従う。それが本分であろう、冴次」
「その為の影守だ。そして、〝あの方〟の存在は心強い」
「そうだな。導きがなければ、私はπどのに助力も叶わなかった」
「面白そうな話をしているね」
割り込んだ声に、冴次も夕凪もはっとして身構える。
そこに立っていたのは白髪に金色の目の青年・Ωだった。
「Ωどの」
「原稿が上がったんで寄らせてもらったよ」
「白璃王の導きですか」
「そう」
Ωは唇に薄い微笑を乗せる。ふわふわと、捉えどころのない人物だが、πに対する忠誠心は本物だと夕凪も冴次も知っている。だからこそ信頼出来る。暗い闇の世界に、白髪を靡かせるΩは、瞳の金色も相まって明るい灯のようだった。
「夕凪。誰かと仕合ったのかい?」
「πどのの助太刀に。何者かの影守の奇襲に遭われていたので。卑劣にも毒を使っておりました」
「成程ね。君たち影守も苦労が絶えないね。うちの白璃王はちょっと違うけど」
「影守の中でもΩどのの白璃王は別格ですから」
Ωが無邪気に笑う。子供を褒められた親のような顔だった。その表情に、夕凪たちは安堵する。影守を持つ者には、影守を手足のように使い、その存在を軽んじる者も多い。例えばπと対峙していた茨の主がそうであったように。しかし影守にも人格はある。主に存在価値を認められ、重んじられればそれは非常な喜びだ。
茨は、そうではないらしいことが、敵ながら夕凪たちの心に悲しみを抱かせた。
「πを襲った影守。恐らく数学統監府の人間の影守だろう。第三課の内の誰か。数美ちゃんを即、入府させられなかったことで気が急いているんだろうな」
「――――攻めに転じられますか」
「いいや? それはπの望むところでもないだろう。但し、今回のようなことが続くなら、考えを改める必要性も出てくるかもしれないね」
のんびりとした口調だが、声音に潜む刃のような怜悧さを聞き逃す夕凪と冴次ではない。
「そう言えば白璃王にさっきまで原稿の誤字脱字チェックしてもらってたんだけど」
「影守に何させてるんですか」
「うん。だからさ。たまにはあいつにも、影守らしいお仕事をさせてあげても良いかもね、ていうお話」
その意味するところを察した夕凪と冴次は、顔つきを引き締めた。




