030、数学統監府は眠らない
数美の父である蓮森征爾が十三年前に失踪してから、塔子は娘の精神状態を気に掛けた。当然ながら数美はショックを受けていたが、庭で時々、一人遊びをするくらいになるまで回復した。
ある初夏、数美は庭に小さなビニールシートを敷いて、季節になれば満開になる桜の樹々の影で塔子の作ったオレンジゼリーを食べていた。塔子が、虫除けスプレーを数美に噴きつける為に芝生に降りて歩み寄った時、数美の声が聴こえた。太陽が天頂に君臨し、物の影が色濃くくっきり出ていた。
緑に躍る黒。光。
「うん、そうなんだ、僕もそう思う」
塔子は訝しく思った。庭には数美と自分の他には誰もいない。なのに数美は、そこに誰かがいるかのように話し続ける。不安になった塔子は声を張り上げた。
「数美!」
「母さん」
数美はきょとんとして塔子を見ている。その瞳が濁りなく澄んでいることが寧ろ怖い。
「誰とお話していたの?」
「冴次」
「さえつぎ?」
「うん。僕の友達。冴次が言うには違うらしいんだけど」
蝉が姦しく鳴いていた。
塔子は、傷心の娘がイマジナリーフレンドを作り出してしまったのだと思った。イマジナリーフレンドとは空想の友人のことであり、子供の心を支える仲間として機能する。顔色の変わった母を見て、数美は失敗したかのように、言い繕った。
「大丈夫だよ、母さん。僕は何ともなってない。今のは冗談」
そう言って笑って見せた数美の表情には既に大人の片鱗が出ていて、塔子はますます当惑した。
けれどその日以来、数美におかしな様子は見られなくなったので、ようやく精神的に落ち着いたのだと思い、娘のイマジナリーフレンドのことは忘れた。
数美はベッドに寝転がり、浴衣の牡丹柄をちょいと摘まみ上げる。黄緑色のタイツが見える。冬はこうでもしないと寒いのだ。
「あれから十三年か……」
油断すると忍び入って来る寒気を遮断する為に立ち上がり、カーテンを閉める。布団に潜り込み、湯たんぽの温もりにとろりとする。
父が失踪したのが十三年前。
πの父・催馬楽吉馬が亡くなったのも十三年前。πによれば征爾の失踪は吉馬の死のしばらくあとだったと言う。まるで吉馬を追うように。1と2と3が眠らされたのは、それよりも前。これらの事象には、何か繋がりがあるように思う。
「冴次」
数美が呼ぶと、数美の僅かな影から這い出る人形。すらりとした長身の彼は濃い紫の刺繍に縁取られた衣服を身に着けている。
「お呼びですか。数美様」
響くのは低いテノール。表情はいつものように凪いで読めない。
「冴次は、父さんとπのお父さん、そして1から3の事件についてどう思う」
「私に言えることは何も」
きっ、と数美は光る眼で冴次を睨みつける。
「嘘だ」
「嘘ではありません。私は数美様に嘘は吐きません。私は貴方の影守ですから」
「けれど隠蔽はする。そうだろう」
「私は貴方の影守。貴方を守る為の存在ですゆえ」
婉曲な肯定に、数美は吐息を零す。寒い。布団にもっと潜り込む。冴次が彼女の肩まで掛布団を引っ張り上げ、隙間のないようにした。母のように。
「番号持ちには影守が必ずいる訳ではないんだろう?」
「はい。数美様のような方は稀です」
「どういう意味だ?」
「申し上げた通りの」
数美が冴次と出逢ったのは父の失踪して後のことだ。突然、数美の影から現れ、忠誠を誓った。その日から、夜につけ昼につけ、冴次は数美を見守ってくれた。もちろん、プライバシーを侵さない範囲内でだ。数美は父を失ったが、冴次という庇護者を得た。このことは未だ誰にも話していない。例外は亜希と創だけだ。でも。
「πになら、冴次のこと話して良い気がする」
冴次が珍しく笑った。
「お心のままに。話して良いような気がするのではなく、話されたいのでしょう。小さな我が主よ」
「うん。そうだな。冴次は他の仲間の存在を知っているのか?」
「存じていますが申せません。私にも彼らを尊重する義務があります」
「それはそうだな」
「数美様。お休みなさいませ。もう夜も遅うございます」
「そうだな……。冴次。いつもありがとう。亜希と、創を、頼む。いざという時は。それから、πも」
「私はたくさん働かねばなりませんね」
「報酬もないのにな。済まない」
「報酬は主の喜びに満ちた生です」
「頼む。冴次。これから僕の周囲には嵐が吹き荒れるだろう。僕よりも彼らを優先して守ってくれ」
「それは……、出来かねます」
その言葉が聴こえるか聴こえないかの内に、数美は眠りに就いた。
「貴方も私に隠蔽していることがありますね。数美様」
冴次は数美を静謐な表情で見守ると、やがて彼女の影に帰った。
影守という不可思議な存在を、数美は他に知らない。知っていることは、彼の存在が父を失くした痛手から数美を守り、育んだということだけだ。
数学統監府は眠らない。
国家規模の重要業務を多くの部署で扱う為、二十四時間、休む時がないのである。コンビニと同じだと皮肉を言ったのは青鎬だ。
統監府第三課課長・大山田大二郎は昨今の記号持ちとの情勢について頭を悩ませていた。蓮森征爾の娘である蓮森数美を早い内に抑えておこうと動いたが、外ならぬ統監府長官からそれを禁じる命令が下された。
それであればと先手を打って二班班長の早良波羅道を記号持ち掃討の先鋒として遣わしたが、数美に邪魔された。厄介な小娘だ。そのお仲間もまた厄介だ。そもそもは裏切者である蓮森征爾の妻・蓮森塔子がいつまでもしゃしゃり出ることがおかしい。砂嘴も数美の横槍が入ったと報告していた。青鎬は反抗的だ。凍上は何を考えているのか解らない。
ままならないことばかりだ。神聖なる数学統監府に、これ程の欠損があってはならないと言うのに。
「茨」
大山田の声に応じて、彼の影から抜け出た女性がいた。
艶美な着物を纏う彼女は花が傾くように首肯した。
「あい、主様」
「πを抹殺しろ。出来るか」
にい、と茨が笑む。
「あい、ご命令通りに」




