03、修羅の道
数美は立ち眩みを起こして、その場にたたらを踏んだ。
「数美、大丈夫?」
「――――大丈夫だ」
能力の反動ではない。人を傷つけたという心的ダメージが彼女を襲っている。番号持ちは人間界のピラミッドの頂点。生殺与奪の権を握るがゆえに流血沙汰とも無縁ではいられない場合が多い。その状況の多くは、今のように同じ番号持ちとの闘争である。番外とは争いにならない。なるべくもないからである。
創が数美に肩を貸し、三人は高校までの道のりをゆっくりと進んだ。
〝数美、1から100までの100個の整数の中には、素数がいくつあるかな?〟
〝25個!〟
〝そう。よく憶えていたね。ある整数が素数かどうか調べるには、その整数を素因数分解する方法がある。素数というのは気紛れで、1から1000までの素数には、11と13のように一つおきに出てくることもあれば、887と907のように19も間隔が空くことがある〟
〝どうして?〟
〝どうしてだろうね。スイスの数学者・レオンハルト・オイラーはこう言ったそうだ。『この世には、人知では窺い知れない神秘が存在する。素数の表を一目見れば良い。そこに秩序も規則もないことに気づくだろう』〟
〝変なのお〟
〝変かな〟
〝だって確立された方式だってたくさんあるじゃない〟
〝そうだね。それでも、例えばウラムの螺旋のように、何を意味するか解らない模様だってある。数美。この世には解らないことのほうが圧倒的に多い。そして、だからこそ尊いのだと、お父さんは考えているよ〟
その話をした数日後だった。
数美の父が行方不明となったのは。幼い数美は当然、戸惑い狼狽え、母に父の居所を尋ねたが、母はただ黙って首を振るだけだった。そして一言だけ、数美に告げた。
〝お父さんは数学の神様に愛されてしまったの〟
麗らかな春だった。家の中にどこから入ったのか紋白蝶が迷い込んで来ていて、泣くのを堪えようとする萌黄色の着物を着た母の肩あたりを飛んで、それが絵のようで見惚れたことを数美は今でも鮮明に憶えている。
「数美。お茶室では雑念は捨てなさい」
「――――はい」
放課後、真っ直ぐ帰宅した数美は、母に呼ばれお茶の稽古をつけられていた。狭い室内に母と娘は仮に客と主として対面していた。母である蓮森塔子の着物は藍、紫紺、蘇芳、刈安、蓬など様々な植物を用いた草木染である。帯は光沢を控えた白銀。帯締めは淡い水色で帯揚げは藍、帯留めは鎌倉彫の柿。
対する数美は紺に近い緑混じりの大島紬で帯は黄色、帯締めは桃色、帯揚げは橙、帯留めはないがその代わり、緩く巻いた髪に硝子の六面体の簪を挿している。
茶室の花入れには早咲きの侘助が活けられていた。
「足運びは、そう。建水の時はこちらを向いて。茶碗の時はお客様に背を向けないように」
天目茶碗を見ると、数美は宇宙の神秘を感じる。吸い込まれそうな凝縮された美。
数学嫌いであるのに、茶室を構成する要素にさえ素数、虚数で表せるものはないかなどと、微に入り細に入り探してしまう自分の性癖に、母に指摘されるでもなく数美はうんざりしていた。
数学を愛する父を母は愛したが、決して数学までをも愛した訳ではなかった。
だから数美の手のひらの29を見た時には、複雑だったであろうと推測する。父もまた、意外にも余りこの事実を喜ばなかったそうだ。父は数学に深入りしていた。恐らくは統監府に入府し、学者として勤務していた。その過程で、番号持ちや数学に関する闇に触れてしまったのかもしれない。
「稽古はこれで終わりです」
塔子のこの言葉が、以降は好きに話して良いという許可だと知った数美は、視線を彷徨わせ、迷った末、母に告げた。
「母さん。僕は今日、能力で人を傷つけました」
「悔いているの?」
「いません。大事な友人を守る為だったから」
「亜希ちゃんかしら」
「そうです」
「それだけではなさそうね」
「…………創に人を殺させるところでした」
しばらく、茶室の中を静寂が支配した。
ほう、と塔子が息を吐く。その行為に自分を責めるものがないのを見て取り、数美は肩の力を緩めた。
「そんなこともあるのでしょう。私はね、数美。貴方が番号持ちとして生まれた時からあらゆる覚悟をしていました。貴方は1億2000万の内の999。999の内の29。それは今の時代には持て囃されることでしょう。けれど貴方がそのことにより増長しないか、人を軽んじないか、自分自身を損なわないか、どれだけ心配したことか。私は番号持ちの行く道を修羅の道と考えています。数美。貴方が修羅の子なら、私は修羅の母。どこまでも貴方を愛し抜く覚悟。それが、私が貴方を産んだ時にした最も大きな覚悟です」
本当に、数字とは何と罪深く恐ろしいこと、と、塔子は言って二度目の息を吐いた。